James J. Williams |
ジェームズ・J・ウィリアムズ(1853-1926)は、イングランド生まれのハワイ王国の写真家だった。南北戦争後、一家はアメリアに移住、写真を学ぶ。1879年、サンフランシスコからハワイ諸島に渡り、写真家 I・W・テーバー(1830–1912)とジェイコブ・シェウ(1826-1879)のもとで働くようになる。船上でヴァイオリンを演奏し、乗客をもてなすなどして喝采を浴びた。1880年にホノルルに戻り、メンジース・ディクソン(1840年-1891)の写真スタジオで働くことになる。1882年2月、ディクソンの写真事業を買収し、J・ウィリアムズ&カンパニーと改名した。1882年に小冊子『ハワイ諸島の観光ガイド』を出版し、他の初期のガイドブックにも写真を提供した。スタジオとギャラリーはホノルルのフォート通りにあった。ウィリアムズは「ホノルルで唯一のギャラリーで、島の景色を完全にコレクションしている...」と宣伝していた。また、ハワイや南洋島の珍品、シダ類、貝類などの供給もあると宣伝していたが、広告に使われている年が1883年であることから、彼はこのビジネスを再スタートさせたと思われる。
1888年、頻繁に被写体となったカラカウア王の時代に、ウィリアムズは王の勅許を得て月刊観光雑誌『太平洋の楽園』を創刊した。1893年まで編集者のフランク・ゴッドフリーとともに同誌のビジネスマネージャーを務めたのである。また人気のポートレートの被写体はカイ・ウラニ王女(1875–1899)やロバート・ルイス・スティーブンソン(1850–1894)などのビジターだった。また、風景写真も多く撮った。噴火する火山キラウエアやマウナロア、ボルケーノ・ハウス・ホテルまで重たい機材ががよく運ばれた。ウィリアムズは1926年4月19日、ホテル通りを横断中に路面電車に轢かれて亡くなった。遺体はオアフ島墓地に埋葬された。息子のジェイムズ・アンソニー・ウィリアムズは1883年に生まれ、1899年にホノルル・アドバタイザー新聞社に入社した。1904年3月23日にミニー・ランカスターと結婚し、後に同紙のチーフカメラマンとなる。そして孫のアレックス・ウィリアムズ(1988年5月没)は事業を継続し、ホノルル市の産業発展の写真を多く撮影した。
James J. Williams (1853–1926) Photographs of collection | Hawaiian Historical Society
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