砂嵐の埃が落ようやく落ち着いた1950年7月、フィリップとステファニーのバーバー夫妻は、ミュージック・インと名付けた、マサチューセッツ州レノックスの馬車小屋を改装した、農場の建物の扉を開いた。アラン・ロマックス、ゲーリー・デイヴィス牧師、ウディ・ガスリー、ピート・シーガーが、この牧歌的な環境で、50人ほどの宿の客を前に演奏した最初の演奏者だった。その夜、どんな音楽が演奏されたのか正確にはわからないが、ウディはオクラホマでフィドルを弾いていた初期の頃の曲や、彼の有名な政治的歌を演奏したようだ。写真には彼が何かトリックフィドルを弾いたり、手書きの「この機械はファシストを殺す」という決めゼリフをギターで弾いたりしている姿が写っている。これは、ハンチントン病が彼の行動や演奏・歌唱能力に影響を及ぼし始める前の、ウディの最後の演奏のひとつと考えられている。この写真はコンタクトシートとしてのみ残っている。 写真家はベン・シャーンの教え子でフォトリーグのメンバーだったレナード・ローゼンバーグで、彼の母親はレノックスで別の宿を経営していた。 ローゼンバーグは後にベツレヘム・スチールの写真家として働くようになり、姓をロスに変えた。 初日の夜、田舎の水道管から水がなくなり、バーバー夫妻は、トイレを流すためにジンジャー ・エールのボトルを客に持たせなければならなかった。このような試練にもかかわらず、この新しい宿の主人は粘り強く、ミュージシャンと音楽愛好家の両方にとって有名な安息の地を作り上げたのである。バーバー夫妻は当初、ジャズやフォーク・アーティストを招いて他の客のために演奏して楽しませ、また、マーシャル・スターンズ教授を招いてジャズと音楽の伝統について講演してもらいました。ミュージシャン、観客、そしてスターンズの間で活発な意見交換が行われた結果、ラウンドテーブルと呼ばれるディスカッションが生まれ、後にジャズ、フォーク、ブルースのルーツとニュアンスを探る「ジャズ・ワークショップ」が正式に開催された。
参加ミュージシャンにはウディ・ガスリー、ピート・シーガー、ユービー・ブレイク、トニー・スコット、マイケル・オラトゥンジ、ブラウニー・マギー、ソニー・テリー、トム・グレイザー、ジョン・リー・フッカー、ランディ ウェストンなどがいた。詩人のラングストン・ヒューズもラウンドテーブルに参加し、詩を朗読した。フィリップとステファニーのバーバー夫妻は黒人教会の世界では有名な歌手だったゴスペル歌手のマヘリア・ジャクソンをに紹介され、ミュージック・インでのパフォーマンスで白人の観客にも知られるようになった。ミュージック・インは、ミュージシャンが家族を連れてリラックスした雰囲気で過ごせるユニークな場所、また人々が心からミュージシャンの音楽とその音楽に対する意見に興味を持つ場所として、ジャズやフォークのコミュニティですぐに評判になったのである。人気はミュージシャンの間で急上昇し、ミュージック・インはくつろいだ家族向けの環境、そして真剣な音楽探求の中心地としての評判をした。音楽を聴きたがる大勢の聴衆に対応するため、バーバー夫妻は1955年にバークシャー・ミュージック・バーンを創設し、干し草納屋の中庭に 600 席を設置した。このバーンはジャズとフォークの演奏だけに特化した初めての会場となったた。ステファニーはラウンドテーブルの長年にわたる人脈やコネクションを活用して、ルイ・アームストロングやエラ・フィッツジェラルドなど、当時のトップアーティストをフィーチャーした夏のコンサートを企画することができた。ミュージック・インでは一種の魔法が実現しました。薄汚いバーや騒々しく煙の充満したクラブ以外で演奏したことのないミュージシャンが、ようやく正当な注目と敬意を寄せられるようになったのである。ステファニーは「ここは人々が飲んだり話したりするのではなく音楽に集中する初めての音楽劇場だった」と述懐したとという。
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