メイドとして働くための応募写真を手にするフェデンシア・ナカル・ダヴィッド。 彼女は15歳だった。その1年前、日本兵に耳を切り裂かれ、一緒に駐屯地に行かなければ斬首すると脅され、10日間にわたってレイプされた。「まだ痛む」と彼女は言う。「私は無実だった、なぜ私にあんなことが起きたのか?」 1990年代に「慰安婦」たちが声を上げ始めるまで、彼女は自分の過去を子供たちに隠してきた。
昼寝から目覚めた夫アナセトと曾孫を見守るナルシサ・クラベリア。ナルシサは12歳のとき、日本兵に家から引きずり出され、1年半にわたって駐屯地で性的奴隷として働かされた。 その体験が恥辱の印と見なされていた当時、彼女の夫は自分の話をするよう勧め「私はあなたに嫌悪していない」と言った。
第二次世界大戦中、日本帝国陸軍の奴隷となり性的被害を受けた推定1,000人のフィリピン人「慰安婦」の画像が、リラ・ピリピナの事務所の壁を埋め尽くしている。第二次世界大戦の性的戦争犯罪被害者の団体は、補償を求めて戦う「慰安婦」たちを支援してきた。
ピラール・キランタン・ガラン(左)とベレン・アラルコン・クララは、第二次世界大戦中、彼女たちが子供の頃に日本兵に何度もレイプされた「赤い家」を訪れ、互いを支え合った。「私たちはこの家で、深い痛みを伴う体験をしました」とガランは言う。「お金がいくらあっても、その記憶を消すことはできません。お金は消えても、ひどい記憶は消えませんから。永遠に残るのです」と。
イサベリタ・ビヌヤ、ベレン・アラルコン・クララ、マリア・ラル・キランタンが手を握り合う。 3人の女性は幼少の頃、マパニキの村で日本帝国軍兵士に繰り返しレイプされた。
曾孫のジョセフ・テナ(8歳)から優しいキスを受けるナルシサ・クラベリア。 クラベリアが12歳の時、日本兵は彼女を1年半の間、性的奴隷として連れて行った。彼らは母親をレイプし、父親を生きたまま皮を剥いでから家を焼き払った。「子どもたちよ、どこにいるんだ? 私はとても苦しいの」彼の悲鳴が聞こえた。
夫のアナセトと手を取り合うナルシサ・クラベリア。1943年、日本兵がアブラの村にやってきたとき、彼女は12歳だった。彼女はふたりの姉と同じように性的奴隷にさせられた。ひとりは後に正気を失い、もうひとりは帰らぬ人となった。クラベリアは残された姉弟の面倒を死ぬまでみた。
隣人たちと談笑するナルシサ・クラベリア(2019年撮影)。コロナウイルスのパンデミックでも、彼女はマスクをして外出する。「家で悲しみに暮れているくらいなら、路上で死んだほうがマシ」と彼女は言う。
「ここは怖いわ。ここは良い場所ではありません」と、テレシタ・ベルムデス・ダヨは、彼女が第二次世界大戦中に投獄され「慰安婦」として奉仕することを強制されたベロ邸跡を訪れながら語った。日本兵は家族旅行中に彼女の家族を呼び止め、12歳の彼女を可愛いと宣言し、装甲車で連れて行った。
女性や少女が監禁され、性的奴隷として使われていたベロ邸跡。
マリア・クイスタディオ・アロヨは12歳の時、日本兵に3ヶ月間性的奴隷にされた。彼女はやがて結婚し、7人の子供をもうけたが、晩年は夫から虐待を受けるようになり、1997年に亡くなるまで殴られ続けたという。「何年もの間、私は夫の嘲笑に耐えながら、誰も暴行の責任者を指弾しなかったのです」と彼女は証言した。
左からレメディオス・テクソン、エステラ・アドリアティコ、ナルシサ・クラベリアの姉妹、フェリシダド・デロス・レイエス、エステリタ・ダイは性的奴隷にされた当時10代だった。「慰安婦」として奉仕した推定1,000人のフィリピーナの多くは、怪我や病気で死亡した。 生存者は心的外傷後ストレス障害に苦しんだ。多くは結婚したが、戦時中の体験から社会からのけ者にされたという。
2019年4月27日、リラ・ピリピナ(フィリピン女性連盟)の事務所で、テクソンとダイの89歳の誕生日を祝うフェリシダド・デロス・レイエス(左から)エステラ・アドリアティコ、エステリタ・ダイ、レメディオス・テクソン、ナルシサ・クラベリア。デロス・レイエスは2020年2月1日に死去した。
ピラール・キランタン・ガランは、1944年11月23日、マパニキ村で日本帝国軍のメンバーによってレイプされた100人以上の少女や女性のひとりだった。当時、彼女は9歳だった。80代になった今でも、レイプ現場となった「赤い家」(写真奥)の廃墟を見ると「気が狂いそうになる」という。「壊れてしまえばいいのに」と。
イサベリタ・ビヌヤは毎晩、平和と赦しを祈っている。マパニキ村で集団レイプ事件が起きたとき、彼女はまだ2歳だった。
マパニキ村の自宅で鏡に映ったエミリア・デラクルス・マンギリット。第二次世界大戦中、彼女の村が砲撃を受け、日本軍の攻撃を受けたとき、マンギリットはわずか15歳だった
マリア・ラル・キランタンは第二次世界大戦中の9歳の時、マパニキ村が日本軍の攻撃を受けた。両親は殺され、彼女は「赤い家」として知られる建物に連れて行かれが、そこでは少女や女性が兵士にレイプされた。「私たちはこの家で深い苦痛を味わいました」「この家の前を通ると、いつも気分が変わります」と言う。
エミリア・デラクルス・マンギリットは、22歳のときに結婚した亡き夫との手描きの結婚肖像画を今でも飾っている。
「私たちは死ぬまでこの出来事を忘れない。私たちの心に刻まれています」とフランシア・アガ・ブコ(中央)。1944年11月23日、ブコはマパニキ村でレイプされた少女や女性のひとりだった。裁縫師になったブコは、長期間拘束されたわけではなかったため「慰安婦」に対する日本の補償の対象にはならなかった。
ジョナス・ロセスによるフィリピンの「慰安婦」のブロンズ像は、第二次世界大戦中、日本の性暴力システムによって被害を受けたフィリピンの少女や女性を称えるものである。像は2017年12月にマニラ湾に設置された。しかし日本とフィリピンの貿易関係の時代において、このブロンズ像は物議を醸すと見なされ、5ヶ月でロセス氏に返却された。写真は、彼のスタジオにある像。
歴史家は日本が占領したアジアの一部、特に朝鮮半島で、約20万人の女性が日本兵の犠牲になったと推定している。しかし、シンガポール、ミャンマー、ベトナム、タイ、インドネシア、台湾でも。そしてフィリピンでも同様である。1942年から1945年までの日本占領期には「おそらく約1,000人の女性と少女が連れて行かれ、軍の性的奴隷収容所に入れられた」と作家で研究者のエヴェリーナ・ガランは言う。NPR(アメリカの公共放送)は18カ月間にわたり、フィリピン全土で少なくとも20人の生存者を特定し、聞き取り調査を行った。いくつかの例では、近親者が、話すことができないほど虚弱な女性から語られた話を共有しました。彼らの肖像画は、彼らの悲惨な身体的虐待の物語であるだけでなく、戦争での生活のタブローでもある。日本人は彼女たちを慰安婦と呼んでいたが、これは日本語の「ianfu」から派生した言葉で「慰安」(i-an)と「婦」(fu)を意味する漢字を組み合わせたものである。彼らが日本兵との性交を強制された奴隷収容所は「慰安所」と呼ばれ、多くの場合、彼らが収容されていたのと同じ駐屯地だった。しかし、35年間にわたって日本の植民地支配下にあった朝鮮半島で行われた性奴隷化の大規模な話は、他のいわゆる「慰安婦」の経験を覆い隠している。韓国に残された数少ない女性たちと同様に、フィリピンの生存者たちは、いまだに声を届けることを求めている。以上の写真は NPR が2020年12月に「第二次世界大戦中の性的奴隷たちが、いまだ正義を求め続ける理由」と題した写真特集に掲載された。記事は NPR の国際特派員ジュリー・マッカーシー、写真は報道写真家のシェリル・ディアス・マイヤーが担当した。写真のキャプションのみを拙訳、記事の原文は下記リンク先のサイトでご覧ください。
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