北野丸に乗船したアルベルト・アインシュタインとエルザ夫人
社会主義的な評論を多く掲げた日本の総合雑誌『改造』から日本での講演旅行に招待されていたアルベルト・アインシュタインとエルザ夫人は、1922年末から1923年初めにかけて、5ヵ月半にわたる日本、パレスチナへの旅に出た。このツアーには、東京で行われる科学講演シリーズと、日本の他のいくつかの都市で行われる予定の6つの一般向け講演が含まれていた。2,000ポンドの謝礼が提示され、それを受諾したのである。
アインシュタイン夫妻を乗せた日本郵船の欧州航路貨客船北野丸
アルベルト・アインシュタインが日本への招待を受けた動機は3つあった。極東を訪れたいという長年の願望を叶えること、「群衆から遠く離れた」2回の長い船旅を楽しむこと、そしてアインシュタインの友人だったドイツの外相ワルター・ラテナウが暗殺されたばかりのベルリンから数ヶ月間逃れることであった。ラテナウは1922年6月に反ユダヤ主義の右翼過激派に銃殺され、アインシュタインも命を狙われていたと思われた。アインシュタインが招かれた日本は大正時代の日本であり「国づくりに主眼を置いていた明治時代の偏狭な主張に代わって、国際主義、世俗主義、民主主義が台頭してきたような時代」であったのである。アインシュタイン夫妻は2022年10月8日、北野丸でマルセイユからスエズ運河を経由して極東に向かい、日本に向けて出航した。
アルベルト・アインシュタインとエルザ夫人をもてなす芸妓たち(場所不詳)
航海中、アインシュタインは旅日記をつけ、汽船内での日々の行動、出会った人々、読んだ本などを丹念に書き留めた。6週間の航海の後、アインシュタイン夫妻は神戸に到着した。アインシュタインの来日はセンセーションを巻き起こした。アインシュタインは行く先々で熱狂的な大群衆に迎えられ、講演は満席の講堂で行われた。 日本のマスコミは彼の一挙手一投足を報道した。1922年12月14日、アインシュタインは京都帝国大学の学生懇親会に出席した。相対性理論をどのように発見したかを話してほしいと頼まれ、即興の講義でそれに応じたようだ。アインシュタインの旅行日記のこの日の記述は『改造』誌に掲載された。アインシュタインの講演録の日本語版に東北帝国大学教授石原純が前書き書き加えたた。1923年に単行本として出版された『アインシュタイン教授講義録』へも石原が前書きを書いている。現存する唯一の講演内容に関する記述は、石原自身の言葉によるもので、最初に『改造』に掲載され、その後すぐに、1923年に出版されたアインシュタインの日本講演に関する著書の一章として再版された。石原の文章は、相対性理論が発表されてから何年も経った後、アインシュタインが即興で相対性理論の創造と発展について回想したものである。これらの回想は歴史家や科学哲学者にとって、間接的ではあるが豊かな資料となった。
アインシュタインを招聘した改造社(1922年)
歴史的な文献ではこの文書に関する議論は、ほとんどひとつの論争的な問題に集中している。石原純はアインシュタインが1905年に論文 "On the Electrodynamics of Moving Bodies"(移動体の電気力学について)を発表する前に、マイケルソンの実験とそれが相対性原理に対する彼の洞察を形成する上で果たした役割について言及したと書いている。アインシュタインがいつ、どのようにしてマイケルソンの実験を知ったのか、そしてその実験に関する知識が相対性理論への道にどのような影響を与えたのかという疑問は、長い間議論されてきた。京都帝国大学での講演は、特殊相対性理論の起源だけでなく、一般相対性理論への道筋についても説明している。ここでもまた、一般相対性理論に至る展開について、アインシュタインが最も明確に回想している資料のひとつとなっている。しかしこの発展については、アインシュタインと同時代の研究者たちによる書簡や原稿など、一次資料によって十分に記録されている。これらの文書によって、一般相対性理論の歴史的展開を独自に再構築することができ、したがってアインシュタインの後の考察を独自に評価することもできる。
アインシュタインと京都帝国大学物理学部の教授陣(1922年12月15日)
1922年12月14日、アインシュタインは京都帝国大学の学生レセプションに出席した。相対性理論をどのように発見したかを話してほしいと頼まれ、即興の講義でそれに応じたようだ。以下はアインシュタインの同大学での講義「相対性理論はいかにして生まれたか」である。
私がどのようにして相対性理論にたどり着いたかを説明するのは、決して簡単なことではない。それは、人の思考を刺激し、程度の差こそあれ、それに影響を与えるさまざまな隠れた複雑な要素が関係しているからである。これらの要素についてひとつひとつ言及するつもりはない。また、私が書いた論文を列挙することもしない。私が初めて相対性理論の原理を思いついたのは、今から7~10年前のことである。それがどこから来たのか、正確にはわからない。しかし移動体の光学に関する問題に関係していたことは確かである。光はエーテルの海を進み、地球も同様である。地球から見れば、エーテルは地球に対して流れている。しかしエーテルが地球に対して流れていることを証明するものは、物理学の専門書にも見当たらない。そのため私は、地球の運動によってエーテルが地球に逆らって流れていることを証明する方法を可能な限り見つけたいと思うようになった。この問題を考え始めたとき、私はエーテルの存在も地球の運動もまったく疑っていなかった。そのため、ある光源からの光が鏡で適切に反射された場合、それが地球の運動方向に動くか、逆方向に動くかによってエネルギーが異なるはずだと予測した。私は2つの熱電杭を使い、それぞれで発生する熱量の違いを測定することで、このことを検証してみた。この考え方は、マイケルソンの実験と同じであったが、当時はまだ彼の実験に対する私の理解は明確ではなかった。まだ学生だった私はこのような問題を考えているうちに、マイケルソンの実験の奇妙な結果を知り、彼の結果を事実として受け入れるなら、エーテルに対する地球の運動を考えるのは間違っていると直感した。実はこの洞察が、現在私たちが特殊相対性理論の原理と呼んでいるものへと私を導く最初の道筋となったのである。それ以来私は、地球は太陽の周りを回っているが、その運動は光を使った実験では確かめられないと考えるようになった。ちょうどその頃、1895年のローレンツのモノグラフを読む機会があった。ローレンツは、電気力学を一次近似、つまり、移動体の速度と光の速度の比の二次以上の量を無視した形で論じ、完全に解くことに成功した。私はまた、フィゾーの実験の問題にも取り組み始め、ローレンツによって確立された電子の方程式が、真空の座標系を移動体の座標系に置き換えたときにも成り立つという仮定に基づいて、この問題を説明しようとした。いずれにせよ、当時の私は、マックスウェル-ローレンツ電気力学の方程式は確実であり、真の状態を表していると信じていた。さらに、これらの方程式が動く座標系でも成り立つという状況から、光速の不変性という命題が生まれた。しかし、この光の速度の不変性は、力学で知られている速度の加算の法則とは相容れない。なぜこの2つが矛盾するのか? 私はここでとんでもない難問にぶつかったと感じた。ローレンツの考えをどうにか修正しなければならないだろうと思いながら、私はほぼ1年間実りのない思考を続けた。そして、これは簡単には解けない謎だと思わざるを得なかった。私の解決策は、実は時間の概念に関係していた。ポイントは、時間は絶対的に定義することはできないが、時間と信号速度の間には切っても切れない関係があるということだ。この考え方を使うことで、私は初めて、それまで抱えていた並外れた難題を完全に解決することができた。このアイデアを思いついてから、特殊相対性理論は5週間で完成した。私は、この理論が哲学的にも非常に自然なものであることを疑わなかった。また、マッハの視点ともうまく合致していることに気づいた。もちろん、特殊理論は、後に一般相対性理論が解決した問題のように、マッハの視点と直接的に結びついていたわけではないが、マッハのさまざまな科学的概念の分析とは間接的なつながりがあったと言えるだろう。こうして特殊相対性理論が誕生した。私がどのようにして相対性理論にたどり着いたかを説明するのは、決して簡単なことではない。それは、人の思考を刺激し、程度の差こそあれ、それに影響を与えるさまざまな隠れた複雑な要素が関係しているからである。
これらの要素についてひとつひとつ言及するつもりはない。また、私が書いた論文を列挙することもしない。私が初めて相対性理論の原理を思いついたのは、今から7~10年前のことである。それがどこから来たのか、正確にはわからない。 しかし、移動体の光学に関する問題に関係していたことは確かである。光はエーテルの海を進み、地球も同様である。地球から見れば、エーテルは地球に対して流れている。しかし、エーテルが地球に対して流れていることを証明するものは、物理学の専門書にも見当たらない。そのため私は、地球の運動によってエーテルが地球に逆らって流れていることを証明する方法を可能な限り見つけたいと思うようになった。この問題を考え始めたとき、私はエーテルの存在も地球の運動もまったく疑っていなかった。そのため、ある光源からの光が鏡で適切に反射された場合、それが地球の運動方向に動くか、逆方向に動くかによってエネルギーが異なるはずだと予測した。私はふたつの熱電杭を使い、それぞれで発生する熱量の違いを測定することで、このことを検証してみた。この考え方は、マイケルソンの実験と同じであったが、当時はまだ彼の実験に対する私の理解は明確ではなかった。まだ学生だった私は、このような問題を考えているうちに、マイケルソンの実験の奇妙な結果を知り、彼の結果を事実として受け入れるなら、エーテルに対する地球の運動を考えるのは間違っていると直感した。実はこの洞察が、現在私たちが特殊相対性理論の原理と呼んでいるものへと私を導く最初の道筋となったのである。それ以来私は、地球は太陽の周りを回っているが、その運動は光を使った実験では確かめられないと考えるようになった。ちょうどその頃、1895年のローレンツのモノグラフを読む機会があった。ローレンツは、電気力学を一次近似、つまり、移動体の速度と光の速度の比の二次以上の量を無視した形で論じ、完全に解くことに成功した。私はまた、フィゾーの実験の問題にも取り組み始め、マックスウェル・ローレンツによって確立された電子の方程式が、真空の座標系を移動体の座標系に置き換えたときにも成り立つという仮定に基づいて、この問題を説明しようとした。いずれにせよ当時の私は、ローレンツ電気力学の方程式は確実であり、真の状態を表していると信じていた。さらに、これらの方程式が動く座標系でも成り立つという状況から、光速の不変性という命題が生まれた。しかし、この光の速度の不変性は、力学で知られている速度の加算の法則とは相容れない。なぜこの2つが矛盾するのか? 私はここでとんでもない難問にぶつかったと感じた。ローレンツの考えをどうにか修正しなければならないだろうと思いながら、私はほぼ1年間、実りのない思考を続けた。そして、これは簡単には解けない謎だと思わざるを得なかった。私の解決策は、実は時間の概念に関係していた。ポイントは、時間は絶対的に定義することはできないが、時間と信号速度の間には切っても切れない関係があるということだ。この考え方を使うことで、私は初めて、それまで抱えていた並外れた難題を完全に解決することができた。このアイデアを思いついてから、特殊相対性理論は5週間で完成した。私は、この理論が哲学的にも非常に自然なものであることを疑わなかった。また、マッハの視点ともうまく合致していることに気づいた。もちろん、特殊理論は、後に一般相対性理論が解決した問題のように、マッハの視点と直接的に結びついていたわけではないが、マッハのさまざまな科学的概念の分析とは間接的なつながりがあったと言えるだろう。こうして特殊相対性理論が誕生した。
アインシュタインは1921年末にはパレスチナを訪れ、地元のユダヤ人コミュニティであるイシュヴの入植活動を自分の目で確かめることを思い描いていたようだ。当時、チャイム・ワイツマンは彼に「パレスチナに行く緊急性はまだない」と忠告した。しかし、アインシュタインはベルリンから日本へ出発する直前、ドイツのシオニスト、クルト・ブルーメンフェルドと会談し、パレスチナ局長のアーサー・ルッピンから10日間のパレスチナ訪問の招待を受けたことを確認した。大成功を収めた6週間の日本滞在の後、アインシュタイン夫妻一家は1922年12月29日にヨーロッパに向けて出航した。
テルアビブ市庁舎にてアインシュタイン夫妻とメイル・ディゼンゴフ市長(1923年)
アインシュタインは1921年末にはパレスチナを訪れ、地元のユダヤ人コミュニティであるイシュヴの入植活動を自分の目で確かめることを思い描いていたようだ。当時、チャイム・ワイツマンは彼に、"パレスチナに行く緊急性はまだない」と忠告した。しかし、アインシュタインはベルリンから日本へ出発する直前、ドイツのシオニスト、クルト・ブルーメンフェルドと会談し、パレスチナ局長のアーサー・ルッピンから10日間のパレスチナ訪問の招待を受けたことを確認した。大成功を収めた6週間の日本滞在の後、アインシュタイン一家は1922年12月29日にヨーロッパに向けて出航した。1ヵ月後、彼らはイギリス委任統治領パレスチナに到着し、12日間滞在した。 彼らはパレスチナ全土を回り、大都市はもちろん、いくつかの農村も訪れた。 アインシュタイン一家はまた、ユダヤ人社会の主な教育、文化、経済施設を見学し、地元のアラブ人高官とも会談した。 アインシュタインが生涯を通じてパレスチナ(あるいはイスラエル)を訪れたのは、この時だけであった。3週間のスペインツアーの後、アインシュタイン夫妻は1923年3月21日にベルリンに戻った。
安孫子誠也「アインシュタイン来日への道」 聖隷クリストファー大学 (PDF ファイル 3.52MB)