2024年9月14日

宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ

Grape Harvest
Grape Harvest, Jerez de la Frontera, Spain, 1963
Ramón Masats

ラモン・マサッツは1931年3月17日、スペイン国バルセロナのカルダス・デ・モンブイに生まれた。彼が写真の世界に興味を持ち始めたのは、兵役に就いていたときだった。退屈していた彼は『Photographic Art』誌を発見した。同誌に触発された彼は父親から盗んだお金でカメラを手に入れ、初めて写真を撮り、テラサのカジノ・デル・コメルシオの写真サークルに登録した。彼の写真技術は独学であり、歴史家のローラ・テレは「フランスのドキュメンタリー写真に近く、彼の革新的な構図と、とりわけ、事前の研究やレタッチなしに、最も身近な現実を直接的かつ自発的な方法で捉えることによって、この技法の更新に参加した」と解説している。後に彼は「アンリ・カルティエ=ブレッソンは私の師匠であり、私にとって彼はあこがれのリーダーである。スペインのブレッソンと呼ばれるのはお世辞でも嬉しい。私はそれが短所だとは思わない」と述懐している。1950年代の彼の写真は、私たちを現代へと導いてくれる。1953年、22歳のときに発表した "Reportaje sobre Las Ramblas"(ランブラス通りについての報告)をきっかけに、マサッツは自らを「職人」と定義する。バルセロナを舞台にしたこの作品は、テーマ性に富んでいたが、彼のキャリアを通じて、特定のテーマとは無縁であった。翌年、彼はカタルーニャ写真協会に加わり、リカール・テレスなどの仲間と経験を共有した。

>Courses in Christianity
Courses in Christianity, Toledo, Spain, 1957

カタルーニャ写真協会のグザヴィエ・ミゼラクスはマサッツを「衝動的でバイタリティにあふれ、美学的な訓練も受けずに協会に入ったが、並外れた直感を持っていた。理論的な偏見は、彼の現実へのアプローチを妨げなかった。私は、カメラが何のためにあるのかをこれほど早く理解した人に会ったことがない」と回想している。荘厳で気取ったものから離れ、鋭い皮肉な眼差しと侵犯的なセンスで描く人生のスペクタクルを探し求める、その正確なまなざしの確かさで、彼はすぐに頭角を現した。1955年、24歳のときアーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』(1926年)で英語圏の人々に知られるようになったサン・フェルミン祭「ロス・サンフェルミン」をテーマにした写真エッセイの制作に取りかかった。1957年、26歳でマドリードに移り住み "Real Sociedad Fotográfica"(レアル・ソシエダ・フォトグラフィカ)に参加した。

Seminary
Seminary, Madrid, Spain, 1960

2年後、友人のレオナルド・カンテロ、ガブリエル・クアジャド、パコ・ゴメス、フランシスコ・オンタニョン、ホアキン・ルビオ・カミンらと写真グループ「ラ・パランガーナ」を設立し、後にフェルナンド・ゴルディージョ、ジェラルド・ビエルバ、フアン・ドルセ、シグフリード・デグズマンらが加わった。同じ年、7年前の1950年にアルメリアで設立された AFAL グループに参加し、独裁政権に支配されたスペインの写真言語を近代化するために、写真分野でも活動した。「ラ・パランガーナ」はアカデミズムの基準や絵画主義から逃れ、スペインのネオリアリズムに近づいた。写真家たちは郊外に目を向け、それまで存在しないと思われていたものを撮影した。1962年、31歳のとき、7年前に書き始めた『ロス・サンフェルミネス』に加え、イグナシオ・アルデコアがテキストを担当した『ニュートラル・コーナー』を出版した。

Tomelloso
Tomelloso, Ciudad Real, Spain, 1960

批評家たちはこの作品を、彼の最も反響の大きい、文句のつけようのない作品と呼んでいる。大都市のスラム街でわずかな希望のために闘う周縁の者たちが住む、ボクシングという汚れた世界が、まばゆいばかりのビジョンで描かれている。1964年、33歳のとき、ミゲル・デリベスのテキストによる "Viejas historias de Castilla la Vieja"(カスティーリャ・ラ・ビエハの歴史)を出版した。フアナ・モルド・ギャラリーでカルロス・サウラと展示し、タオルミーナで特別賞を受賞した最初のドキュメンタリー "Prado Vivo"(プラド・ヴィヴォ)を制作した。1965 年に "El que Teacher"(先生)を監督し、ビルバオ国際ドキュメンタリー・短編映画祭でミケルディ・デ・プラタ賞を受賞しした。彼は18年間写真から離れ、テレビのドキュメンタリーの制作に専念した。以前はスペインの町とその習慣が一般的なテーマで "Conozca Ud. España"(スペインを知る)" La víspera de nuestro tiempo"「私たちの時代の前夜」"Los ríos"(河川)などのシリーズがあった。

Arcos de la Frontera
Arcos de la Frontera, Cádiz, Spain, 1962

映画 "Si las piedras hablara"(もし石が話せたら)は、コメディアンのチュミ・チュメスが脚本を書き、音楽グループのロス・イベロス、ギレルミナ・モッタ、ビクター・プティ、ホセ・サザトルニルが主演した。そして "Tropical Spain"(トロピカルなスパ会陰)というタイトルの長編映画で最高潮に達したのである。1981年に彼は写真の世界に戻り、それ以来、数冊の本を出版し、1992年のセビリア万国博覧会のための数冊のドキュメンタリーを含む企業や団体で仕事をし、ギャラリーでの回顧展と最新作の両方の複数の会議や展示会を開催した。スペイン国立ソフィア王妃芸術センター、マドリードの王立タペストリー工場、バルセロナのビレイナ宮殿、サンタンデールのマグダレナ宮殿、マドリードのマールボロ美術館などである。ラモン・マサッツは2024年3月4日にマドリードで他界、92歳だった。下記リンク先はマサッツの詳細なバイオグラフィー(スペイン語)である。

camera  Ramón Masats (1931-2024) | Biografía | Jardín Remoto, El metaverso de la fotografía

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