2023年11月29日

かつてニューヨークも電線蜘蛛の巣城だった

これは19世紀末、ニューヨーク市街に蜘蛛の巣のごとく張りめぐされた電話線である。アメリカ合衆国の掲示板型ソーシャルニュースサイト Reddit などに掲載されている米国議会図書館蔵の写真だが、提供者の情報に関してはリンク切れになっている。関連写真を載せている「メトロポリタンポスカードクラブ」の解説によると、初期の電話線は多量のメッセージを送受信することができず、普及するにつけこのように夥しい数の電話線が至るところに張られてしまったようだ。豪雪により電線が垂れ下がって危険だったし、視覚的障害物でもあった。そんなこともあって地下に埋められることになったようだ。かつて私は旧ブログで「京都は国際電線都市なのである」という一文を書いたことがある。

電柱電線(京都市東山区祇園町北側)

京都は確かに魅力ある古都だが、その景観を台無しにしているのが、空を覆う電線である。市街の外周、三山の麓の神社仏閣や、洛中の御所などは流石に電線を目にしない。祇園の花見小路や上七軒通り、先斗町通りの地下化が行われた。なぜ花街優先なのか不思議だが、肝心の町中はまるで進んでいない。テレビなどで映される欧米の美しい街並みにため息をつくことがしばしばだが、その要因のひとつが電線が目立たないことである。欧米にできて、何故日本でできなかったのか。それは電話および電力会社、そして行政の見識のなさと怠慢である。前者はいわば独占企業で、料金は取り放題で市民に還元しない、その傲慢ぶりが腹立たしい。特に関西電力。原発もさることながら、電柱電線を無作為に設置、景観を破壊してきた責任は重い。

Kyoto City  京都市道建設局「無電柱化の取組みについて」の表示とダウンロード(PDF ファイル 1.97MB)

2023年11月28日

サラ・カーターの秘められた愛憎物語

12 years old Sara
Sara Elizabeth Dougherty about 12 years old

カーター・ファミリーのサラ・カーター(サラ・エリザベス・ダウアティー)は、19世紀末2年前の1898年7月21日、ケンタッキー州との州境からほど近い、ヴァージニア州の150マイルに及ぶクリンチ・マウンテンの北側にあるコッパー・クリークの近くで生まれた。1901年に母親が亡くなると叔父と叔母の家に身を寄せた。近所の人がオートハープを持っていたので、10代のサラはグリーティングカードを売ったりして、シアーズのカタログで注文、初めてこの楽器を手に入れた。膝の上に乗せてコード伴奏で歌を歌うもので、最低限の音楽知識と技術があればよい。そのためには、曲をシンプルで規則的な形にアレンジする必要があった。サラはギターやバンジョーの伴奏も覚えたが、最も注目されたのは彼女の印象的で力強い、表現力豊かな歌声だった。クリンチ・マウンテンの反対側から、果樹のセールスマンであるA・P・カーターが訪ねてきた。彼はサラの歌声を聴き、彼女に言い寄るようになった。彼女は彼を好きではないと言っていたが、17歳の誕生日の1カ月前に結婚した。そしてグラディス、ジャネット、ジョーの子供たちが加わった夫妻は、メイセス・スプリングに移り住み、自宅や地元の教会で一緒に歌っていた。A・P・は落ち着きのない性格で、家を空けることが多かった。

Carter Family
The Carter Family (L-R) A.P., Maybelle & Sara Carter.

主な収入源は、鍛冶屋、大工、苗木の販売、伐採などであった。借りた車で親戚を訪ねた時に、故障してお金がなくなってしまった。どうしたらいいかと聞かれたサラは、地元の学校で歌を披露することを提案した。それは、彼らがプロの歌手になるための初めての試みだった。A・P・はブランズウィック・レコード社が人材を募集していることを聞きつけ、オーディションを受けた。夫妻は "Log Cabin By the Sea" "Poor Orphan Boy" などのフィドル曲を演奏した。しかしブランズウィック社が求めていたのは、家族での演奏ではなく、歌うフィドラーだったため A・Pはその申し出を断った。コッパー・クリークには、メイベルとマッジ・アディントンという2人の年下の従妹がいて、サラは彼女と一緒に音楽を楽しんでいた。メイベルがA・P・の弟エズラと結婚して山の向こう側に引っ越してきた後、A・P・とサラはギターとヴォーカルのハーモニーで参加してほしいと頼んだ。1927年、RCAの辣腕ディレクター、ラルフ・ピアがテネシー州ブリストルでオーディションを行った。後に「ブリストル・セッション」と呼ばれるようになったヒストリカル・レコーディングで、2週間に渡って行われた。これに応募したのが、A・P・カーター夫妻と、ふたりに説得されて参加した妊娠中のメイベルだった。これをきっかけに一躍有名になった彼らは、ラジオとレコードという新しいメディアを通じて一世風靡することになる。

Sara Carter and Coy Bayes
Sara Carter and Coy Bayes, courtesy of Norman Boling.

サラは1932年にA・P・と別れ、山の反対側にあるカッパー・クリークに戻った。「ハリウッド映画のカップルは別れても一緒に演奏している」というラルフ・ピアの妻アニタの勧めもあり、サラは演奏と録音のアンサンブルのメンバーとして残った。家族や友人によると、距離を置くことでA・P・との関係は改善された。1939年2月、何の前触れもなく、サラはメキシコのボーダーラジオ局 XERA で「カリフォルニアにいる友人のコイ・ベイズに曲を捧げたい」と発表し "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" を感動的に歌い上げたのである。

Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
Who is sailing far over the sea
Oh, I'm thinking tonight of my blue eyes
And I wonder if he ever thinks of me

長い年月が隔てていた想いが成就、サラはA・P・の従弟であるコイ・ベイズと再婚したが、A・P・とは友好的な関係を保っていたという。戦時中にノースカロライナ州シャーロット都市圏の WBT で演奏した1年を経て、オリジナルのカーター・ファミリーは16年間の活動の後、1943年に解散した。サラとコイはカリフォルニアに移り住んだ。メイベルとその娘たちは自分たちのカントリー・アクトを確立、そしてA・P・はメイセス・スプリングに食料品店を開いた。1970年代初頭、サラとメイベルはジョニー・キャッシュのネットワーク・テレビ番組に出演し、ヴァージニア州ヒルトンズで開催された第1回A・P・カーター・メモリアル・フェスティバルで共演した。サラは循環器系と呼吸器系の病気で入院、1979年1月8日に80歳で他界した。カーター・フォールドでの葬儀の後、近くのマウント・バーノン・メソジスト教会墓地のA・P・カーターの墓の2列目に埋葬された。

YouTube  The Carter Family "I'm Thinking Tonight of My Blue Eyes" Camden Session May 10, 1928

2023年11月26日

若きバーバラ・デインの姿が脳裡から離れない

Barbara Dane at Newport Folk Festival, Rhode Island, circa 1964

初めて欧米の音楽に強く惹かれたのは確か高校生のころで、FEN(米軍極東ネットワーク)から流れた軽快な5弦バンジョーの響きだった。それはのちに「ブルーグラス音楽」ということがわかり、大学に進学した翌年、病嵩じてC&W研究会なるサークルを結成した。1963年だったことははっきり覚えているが、そのサークルのために "Bluegrass" と題したガリ版刷りの冊子を作成した。そこに「NLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)がボブ・ディランやジョーン・バエズなどと共にニューポート・フォーク・フェスティバル出演した」と紹介した。何をソースに書いたか記憶にないが、今のようにインターネットもなく、いささかマニアックな一冊だったようだ。当時はNLCRのような黎明期の商業レコードの音源を再現していたグループや、伝承音楽を引き継いだブルーグラス音楽アーティストなどに傾倒、所謂フォークは脇に置いていたような気がする。だからニューポートにバーバラ・デイン(1927年5月12日生まれ)が出演していたことは知らなかったのである。

Tradition Everest – TR 2072 (1967)

彼女に注目をし始めたのはずいぶん前のことで、スミソニアン・フォークウェイズからリリースされたオムニバスCD "Classic Folk From Smithsonian Folkways" に入っていた "Deportees (Plane Wreck at Los Gatos)" を聴いてからだった。これはパレドン・レコードの "I Hate the Capitalist System"(1973年)に収録された1曲である。1948年におきたメキシコの出稼ぎ労働者が犠牲になった飛行機事故を扱ったウディ・ガスリー作詞の曲で、息子のアーロなど多くのフォークシンガーに歌い継がれてきた。何と表現したらいいのだろう、とにかく聴いて欲しい。

YouTube  Barbara Dane - Deportees (Plane Wreck at Los Gatos)

初期のアルバム "Anthology of American Folk Songs" で伝承民謡を披露しているが、独特の歌唱スタイルを持った素晴らしいシンガーである。何故彼女がリアルタイム、つまり60年前に私の視野に入らなかったのだろうかと、今さらながら悔やまれる。1927年5月12日生まれ。2012年6月初めにボストングローブ紙が85歳になった彼女の功績を称える記事を掲載したが、残念ながら現在では有料購読者しか全文を読むことができない。少し前に96歳になった彼女の写真をニューヨーク・タイムズ紙デジタル版で見たが、元気そうだった。しかし半世紀以上も経ってしまったニューポート・フォーク・フェスティバルでの若き姿が焼きついて脳裏から離れない。写真やレコードは時間を止める魔術師なのだろう。なお下記リンク先は90年の生涯を描いたド長編ドキュメンタリー映画「バーバラ・デインの9つの人生」である。ボニー・レイット、ジェーン・フォンダ、ルイ・アームストロング、ザ・チェンバース・ブラザーズなどがなどがフィーチャしたモーリーン・ゴスリング監督作品である。90歳代半ばのいまだ健在なデーンのダイナミックな現代生活は、彼女がいかにして多くの挫折をチャンスに変えたかを語り、何世代ものミュージシャンや活動家に深いインスピレーションを与えている。クラウドファンディング「キックスターター」で資金調達、2023年に制作された。

cinema  The 9 Lives of Barbara Dane | A documentary political activist across nine decades life<

2023年11月25日

大阪・関西万博はなぜ批判されるのかチャットボットに訊いてみた

EXPO 2025 Design System

大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)は何かと前評判が悪い。過去のビッグデータによってテキストが自動生成される人工頭脳チャットボット ChatGPT と Google Bard になぜ批判されるか訊いてみた。

私の知識は2022年1月までのものであり、その時点では大阪・関西万博に関する具体的な情報は限られています。ただし、大規模なイベントや博覧会にはさまざまな批判が寄せられることが一般的です。批判の理由は様々で、以下にいくつか一般的な要因を挙げてみましょう。

環境への影響
大規模なイベントは、施設建設や運営に多くの資源を必要とするため、環境への影響が懸念されることがあります。例えば、自然破壊や廃棄物の増加などが挙げられます。
財政への負担
大規模な博覧会やイベントの開催には膨大な費用がかかります。これにより、予算超過や財政的な問題が生じ、批判の対象となることがあります。
社会的な影響
大規模なイベントは地元のコミュニティに影響を与えることがあります。例えば、交通渋滞や騒音、観光客による地元住民との摩擦などが挙げられます。
組織の運営に対する不満
イベントを主催する組織の運営に対する不満や不手際があれば、それが批判の対象となります。例えば、セキュリティの問題やサービスの品質に関する不満が該当します。
政治的な要因
大規模な国際イベントはしばしば政治的な舞台ともなります。そのため、イベント自体やその主催者に対する政治的な意見や批判が絡むことがあります。ただし、これらは一般的な傾向であり、具体的な大阪・関西万博に関する批判については、最新の情報を確認するか、特定の事例に焦点を当てて調査する必要があります。
EXPO2025
大阪・関西万博会場イメージ ©︎2025年日本国際博覧会協会

大阪・関西万博が批判される理由は、主に以下の3つが挙げられます。

費用の増加
当初、大阪・関西万博の総事業費は1兆3,000億円とされていましたが、その後、会場建設費の増加などにより、1兆8,000億円程度に膨らむ見通しとなりました。これは、過去10回の万博の中で最も高い金額であり、税金の無駄遣いではないかとの批判が上がっています。特に、会場外縁を丸く取り囲むように建設が進んでいる巨大な木造の大屋根「リング」の建設費が350億円とされる点が、批判の的となっています。リングは、世界最大級の木造建築物となる予定ですが、閉幕後は撤去する方針であり、その費用対効果が疑問視されています。
参加国の減少
大阪・関西万博の参加国は、2022年時点で151か国と、当初予定の160か国を下回っています。メキシコやエストニアなど、複数の国が参加を取りやめており、今後もさらに参加国が減少する可能性も指摘されています。参加国の減少は、万博の国際的な注目度の低下を意味しており、経済効果の減少にもつながると考えられます。
テーマの不明確さ
大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」とされています。しかし、このテーマが具体的に何を意味するのか、明確に説明されていないという批判があります。 テーマが不明確なため、万博の目的や意義が理解されづらく、来場者の関心を集めにくいのではないかと懸念されています。

ChatGPT は2022年1月までのデータに基づく返答で、大規模なイベントや博覧会に寄せられる批判を解説している。対する Google Bard は検索のエキスパートゆえか、大阪・関西万博の総事業費、建設費が問題になっている巨大な木造の大屋根「リング」のことにも触れている。両者の特質が比較できて興味深い。いずれも文章表現が自然で、簡潔にまとめていることに感心する。学生が論文などに利用したくなる気持ちが分かる。

Chat Bot  Chat Bot | Google Bard と ChatGPT の違い:AI チャットボットの新たな進化 | AI Japan LAB

2023年11月23日

古川豪「フルッチンのうた」が高額取引されているらしい

フルッチンのうた
AMOEBA 101

収録曲
A1 チンポの毛 (00:19)
A2 おかあちゃんゴメン (06:40)
A3 万年ボッキの社長さん (06:57)
A4 トカトントン (05:01)
A5 ワイセツ節 (03:46)
B1 A少年のバラード (23:21)

このLPは私が制作したアルバムで、リリースしたのはわずか100枚だった。古川豪に出会ったのは1971年、確か神戸商船大学の学園祭だったと記憶している。私はアメリカンルーツ音楽の愛好家だが、お馴染みのメロディに乗せて歌う日本語の歌が印象的で、関西フォークに首を突っ込むきかっけとなった。同年6月26日、神戸YWCA会館で一連の「セックス歌」を聞かせてくれた。アメリカのフォークロリストに憧憬していた私は、彼の歌を記録しようと思い始めた。9月17日、加川良、古川豪、中山ラビを招いて神戸県民会館で開催された「日本の放苦を聞く会を」主催した。最大の目的は古川豪の歌を録音することだった。録音からレコード制作までの手配、ジャケットの印刷など、すべて一人でやった。制作したレコードはわずか100枚、あっという間に売り切れた。

過剰なる自意識の放出=自主制作盤の凶器にして極致とも言えるアルバム遂に復刻! 関西フォークシーンの古川豪の幻にして超レアアイティムである自主制作によるファースト・アルバムがやっと陽の目をみる。1970 初頭の規制された「性」への全てが一挙に大放出!公には販売も厳しいどーしようもないエロ・アルバム、ライブ録音も手伝って即興での下ネタ満開。しかしこれは面白い。生産は僅か100枚のプレスだったためか、原盤は10数万円で取引されている。健全なるR指定商品。

2012年7月4日にCD復刻されたが、これはネット通販アマゾンの紹介文である。一方、音楽ライターの田口史人氏はCD盤のライナーノーツ「日本フォーク、ロックもののレコード・コレクターにとって垂涎の品ともなっている一枚」の中で次のように書いている。

古川豪は1950年3月26日に京都市北区の薬局の息子として生まれました。中学時代からうた作りを始め、人前で初めて歌ったのは1969年、京都フォークゲリラの活動の中でのこと。マウンテンミュージックなどの中にある性の表現に着目したという、過激な風刺でもあった猥歌、替え歌の数々はライヴの現場でバカうけしたり、鼻つまみにされたり、とにかく話題を呼び、そんな中で、たまたま彼のライヴを見たマウンテンミュージックのマニアでもあった朝日新聞社の大塚努が、こんな男が日本にいたのかと驚き、勢いで作ってしまったのがこのファースト・アルバム「フルッチンのうた」でした。とはいえ新聞社とは関係なく、大塚氏の自費で制作された本作は、予算の関係でプレスはたったの百枚。当然レコードが大きな話題になることもありませんでした。(途中略)今回復刻されたこの「フルッチンのうた」のオリジナルであるレコードの現物を見たことのある人はほとんどいないと思いますが、本作はそのとんでもない内容と希少性、後の活動歴などとあいまって、日本フォーク、ロックもののレコード・コレクターにとって垂涎の品ともなっている一枚です。
羅針盤で星占いはできない

この解説にある通り限定100枚だった。限定と言うとカッコイイけど、売れる自信ががなかったこと、調達資金が乏しかったというのが真相である。ただこの数だと流石にすぐ売り切れてしまったが。確かに文字通り超レアアイテムですが、現在ではもっと高額らしい。ところでURCレコードの名盤がソニーミュージックより復刻、6月21日より毎月連続リリースされている。URCレコードとは日本のインディ・レーベルの先駆けとして1969年に産声をあげ、70年代末に活動を終了したレコード・レーベル。高田渡、遠藤賢司、五つの赤い風船、加川良、はっぴいえんど、岡林信康…。その他多くの先鋭的な才能が集ったURCは日本のフォーク/ロックの祖と言える存在。古川豪の『羅針盤で星占いはできない』も11月22日に発売になった。1973年に発表された古川豪のセカンド・アルバム。マウンテンミュージックやアイリッシュ・トラッドをベースにした、古き良きアメリカン・フォークの風格を漂わせる名盤である。アルバム・ディレクターおよびバック・ミュージシャンとして、ザ・ディランIIの永井ようが参加している。私もフィドルの伴奏、そして惜しくも焼失した懐かしき京都の喫茶店ほんやら洞前で撮影した写真がジャケットに使われている。

TurnTable  古川豪「羅針盤で星占いはできない」MHCL-30925 | URCレコード復刻シリーズスペシャルサイト

2023年11月20日

前途真っ暗闇の2025年日本国際博覧会

リング
リング(大屋根)完成予想図

大阪市此花区の夢洲で開催予定の2025年日本国際博覧会(大阪府市は費用負担を含め開催責任を国に丸投げするためか「大阪・関西万博」は略称になった)の評判が極めて悪い。その理由は次の通りである。

開催意義の不明瞭さ
万博は、世界各国から集まった人々が、最新の技術や文化を交流する機会として、これまでに数多く開催されてきた。しかし近年では、インターネットやSNSの発達により、情報や技術の共有が容易になったため、万博の開催意義が問われるようになってきている。2025年日本国際博覧会のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だが、このテーマが具体的に何を意味するのか、多くの人々にとってイメージが湧きづらく、開催意義が不明瞭であるという声が上がっている。

費用対効果の低さ
万博の開催には、莫大な費用がかかる。2025年日本国際博覧会の総事業費は、当初約1兆円と見積もられていたが、その後、物価高や人手不足の影響で、約1.8兆円にまで膨らむ見通しである。一方で、万博の経済効果は、開催都市の観光客増加や雇用創出などによってもたらされると考えられる。しかし、近年の国際情勢の不安定さや、新型コロナウイルスの感染拡大などにより、万博の経済効果が期待通りに得られるか、不透明な状況である。そのため、費用対効果の低さを懸念する声が上がっている。

開催への不安感
2025年日本国際博覧会では、海外パビリオンの建設が遅延するなど、開催への不安感が高まっている。また、万博の開催期間中は、大規模な交通渋滞や騒音が発生する可能性もあり、地元住民からは、開催に反対する声も上がっている。このような不安感や反対の声が、万博に対する不評につながっていると考えられる。

Ring
建設中のリング(大屋根)©産経新聞

不評に輪をかけたのが、大阪市民の万博負担「1人1万9,000円」に増額されたことが明るみになったことである。さらに問題視されてるのが、350億円もの巨額費用を使って万博会場に建設されるリング(大屋根)である。完成すれば、高さ12メートル(外側20メートル)で内径約615メートル、1周約2キロに及ぶ世界最大級の木造建築物となる。わざわざ屋根の屋上を歩ける凝った仕様だが、万博閉幕後は更地にするため解体される方針だった。ところが無駄という指摘に慌てたのか、万博協会副会長である大阪府知事のイソジン吉村洋文などが、現地で保存するか、移設する案も検討していると言い出した。しかし会場に保存するといっても雨ざらしでは劣化していくため、維持費や管理の手間がかかり、費用がかかるのは間違いない。それに1周約2キロを丸ごと移設する場所もない。リングに対する批判をかわすため、思い付きで移設・保存案が出てきたのだろうが、費用面も含め新たな困難が生じるのは明らかである。万博開催の前途は真っ暗である。

YouTube  2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)フライスルー公式ビデオ(フルバージョン)1分56秒

2023年11月19日

寺社の絵馬そして釘抜地蔵の達磨は儚き荼毘に

Cremation
石像寺(京都市上京区千本通上立売上る)
上賀茂神社片岡社(クリックで拡大) loupe

寺社で目につくのが絵馬や御神籤で、ついレンズを向けてしまう。下鴨神社の御神籤は色紙を使い綺麗である。これは縁結びの御神籤を謳ったものだ。女性の参詣客のそれが圧倒的に多いと観察した。縁結びといえば、地主神社が雑誌などに取り上げられて有名だが、上賀茂神社片岡社は見逃せない。このハート型の絵馬と誤解しそうだが、葵の葉をデザインしたものだ。紫式部が「ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし」(新古今和歌集:第三巻 夏歌)と詠んだ和歌がプリントされている。ほととぎすというのは、未来の夫のことで、紫式部は何度もここにお参りしたという。絵馬で連想するのが、北野天満宮の合格祈願のそれである。夥しい数の絵馬が奉納されている。観察すると、絵馬掛けはすぐに満杯になってしまう。一体、その行方はどうなるのだろうか、という俗な興味が湧いてくる。焼却するのだろう。釘抜地蔵の名で親しまれてる石像寺の地蔵堂は、実物大の八寸釘と釘抜きを張り付けた絵馬で外壁が埋め尽くされている。これとは別に寺務所で厄除ミニ達磨を求めることができる。無病息災を願い、家に持ち帰り、一年を経ると寺に返納する。裏の墓地に足を伸ばしたところ、荼毘に付されているミニ達磨が目に飛び込んできた。一瞬ギョっとしたが、普段目にしない光景ゆえ、価値ありという誘惑に負け、カメラのシャッターを切った。撮ってはいけない写真を撮ってしまったという恐れが脳裡をかすめた。人もまた同じ運命を辿るのであるが。

鳥居 厳選5神社:女子に人気の手鏡型から刀剣マニア好き向けのインスタ映えする京都の有名神社の絵馬

2023年11月18日

カウボーイハットをかぶらないブルーグラス音楽家たち

Country Gentlemen1971

下掲のジャケット写真はアールズ・オブ・レスター(The Earls of Leiceste)のファーストアルバムだ。フラット&スクラッグス、そして彼らのバンドだったフォギー・マウンテン・ボーイズの音楽を現代の聴衆に伝えるために、2013年にジェリー・ダグラスが結成したアメリカのトリビュートグループだ。ビル・モンローがドブロを嫌っていたのは有名な話だが、フォギーマウンテン・ボーイズがジョッシュ・グレイヴスをフィーチャーしていたことにダグラスは事のほか惹かれているようだ。従って彼らはカウボーイハットに紐ネクタイという衣裳にしたようだ。普段は無帽のティム・オブライエンがカウボーイハット姿に照れているようにも見える。カウボーイハットを愛用していたのは、ビル・モンロー、フラット&スクラッグス、リリー・ブラザース、ジミー・マーチンなど、いわばブルーグラス音楽の第一世代だった。1950年代末に台頭したグリーンブライヤー・ボーイズやカントリー・ジェントルメンはヒルビリーではなく都会出身で、初めから無帽であった。

Earls of Leicester
The Earls of Leicester: Rounder Records 2014

60年代初頭のケンタッキー・コロネルズは西海岸出身だったし、70年代初頭に登場したニュー・グラス・リヴァイバルも無帽であった。ではどうして彼らは第一世代の衣裳を継承しなったのだろうか。それはブルーグラス音楽の新しいホープたちが、ラングラーのカウボー・カット・ジーンズを着て牛に投げ縄をかけたり、バック・ブロンコに乗ったりするような、農場に住む人々の姿を描くことに、それほど興味がなかったからかもしれない。確かに今でも古い歌が繰り返し歌われているが、それはカウボーイハットが普及したアメリカの西部開拓時代を反映したものでないからである。余談ながらアメリカの政治家の多くが、カウボーイハットを使って、ある種のファンタジーなアメリカへの嗜好を表明してきた。第26代大統領のテディ・ルーズベルトがカウボーイハットを被っていない姿を想像するのは難しい。彼は「19世紀の民主主義は、新世界の表面の最良の部分を白人のために維持してきたという事実以上に、その存在を完全に証明する必要はない」と1894年に書いている。ドナルド・トランプ前大統領など、歴代の大統領がカウボーイハット姿の写真を残している点は特筆しておくべきだろう。なお私が住む京都でもステットソンのカウボーイハットを扱っている帽子店がある。欲しいと思ったこともあるが、購入には躊躇いがある。つばが広い帽子は、背が低い日本人には似合う筈がないと思うからだ。

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2023年11月17日

暗黒のレガシー:1904年セントルイス万国博覧会の人間動物園

Bontoc-Igorrotes
Group of Bontoc-Igorrotes 'Head-Hunters' Philippine Reservation

1904年、ミズーリ州セントルイスはルイジアナ州買収100周年を祝い、アメリカ文明の成果を披露するために盛大な博覧会を開催した。セントルイス万国博覧会(ルイジアナ・パーチェス万国博覧会)には、世界中から2,000万人近くが訪れ、1,200エーカーの土地に1,500以上の建物が展示された。しかし目もくらむようなアトラクションの中に、人間動物園という暗く不穏な光景もあった。見本市の主催者は、さまざまな地域や国から2,000人以上の先住民を見本市会場に集め、彼らの文化、生活様式、発展レベルを示すと称する生きた展示を行うよう手配した。これらの展示は、白人アメリカ人を文明のヒエラルキーの頂点に置き、他民族に対する支配を正当化する人種差別主義的、帝国主義的な前提に基づいていることが多かった。 最大かつ最も人気のある展示のひとつは、47エーカーの敷地にさまざまな民族のフィリピン人1,000人以上が暮らす居留地だった。

Louisiana Purchase Exposition
Louisiana Purchase Exposition, St. Louis, Missouri, 1904

この保留地は米西戦争後にアメリカが獲得したフィリピンにおけるアメリカの植民地支配の恩恵を紹介するために設計された。フィリピン人たちは、自分たちの村のレプリカに住み、伝統的な衣装を身にまとい、踊りや儀式を行い、さらには日常生活の一部として犬を屠殺して食べることを強いられた。彼らはまた、人類学者や科学者によってさまざまなテストや測定を受け、人種カテゴリーや身体的特徴によって分類されようとした。保留地では、フィリピンの反乱軍とアメリカ兵の模擬戦闘も行われ、何千人もの命を奪ったフィリピン・アメリカ戦争を再現した。この戦いは、フィリピン人を野蛮な反乱軍として描き、優れたアメリカ軍になだめる必要があるという演出だった。観客はアメリカ軍に声援を送り、フィリピン軍にはブーイングを送った。人間を好奇心と研究の対象として展示したもうひとつの部門は、芸術宮殿の近くにあった人類学部門だった。

Ainu people
Life of the Ainu people displayed in the St. Louis World's Fair

責任者は W・J・マクギーで、彼は人類の人種はその知性、道徳、進歩によってランク付けできると信じていた。彼はさまざまな大陸の先住民族を、それぞれの進化の段階を反映した環境に再現して展示するよう手配した。アルゼンチンのパタゴニア人、日本のアイヌ、フィリピンのイゴロット、アリゾナのアパッチ、ワイオミングのアラパホ、そしてアフリカのピグミーなどである。パイクとは、乗り物、ゲーム、ショー、屋台、土産物などが並ぶ見本市のアミューズメント・エリアの名称である。また最もセンセーショナルで搾取的な人間の展示物があった場所でもある。そのうちのひとつはダーケスト・アフリカと呼ばれるもので、さまざまな部族から集まった約100人のアフリカ人がジャングルを模した場所に展示されていた。 彼らはライオン、ゾウ、キリン、ワニなどのエキゾチックな動物に囲まれており、野生の原始的な土地であるかのような錯覚を起こさせた。

Pygmies
Pygmies put on display at the St. Louis World's Fair

もうひとつの展示はカイロの路上と呼ばれるもので、約200人のアラブ人やエジプト人がダンス、音楽、アクロバット、蛇使いなど、西洋の観客の東洋主義的空想に訴える演技を披露していた。この展示で最も有名なアトラクションは、挑発的な動きと衣装でセンセーションを巻き起こしたベリーダンサー、リトル・エジプトだった。彼女はアメリカで大流行したフーチークーチーダンスを考案したと噂されている。1904年にセントルイスで開催された万国博覧会の人間動物園は、孤立した現象ではなかった。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパとアメリカ全土の博覧会、博物館、サーカス、動物園、その他の場所で、非白人を珍品や標本として展示するという、より大きな傾向の一部であった。これらの展示は植民地主義、奴隷制度、大量虐殺、隔離、差別を正当化する人種差別的、帝国主義的イデオロギーを反映し、強化するものであった。

history  Human Zoo | How the St. Louis World's Fair Celebrated America by Dehumanizing Others

2023年11月16日

ケンタッキーの我が家は誰の家だろうか

スティーブン・フォスター(1826–1864)作曲の "My Old Kentucky Home"(懐かしきケンタッキーの我が家)は、作者自身の家じゃないか思う人がいるかもしれない。ペンシルベニア州ルイヴィル生まれのフォスターは、1846年にオハイオ州シンシナティに転居、1853年にニューヨークに移り住んだ。翌年ルイヴィルの隣町であるピッツバーグに戻った。1860年に再びニューヨークに出たが1864年、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルで亡くなった。というわけで、ケンタッキー州に住んだ痕跡はない。州北部の町バーズタウンに "My Old Kentucky Home State Park" と名付けられた州立公園がある。私も一度訪ねたことがあるが、敷地にはフォスターの従兄弟で、法律家のジョン・ローアン(1773–1843)が建てた邸宅が保存されている。この邸宅が「我が家」のモデルという説がある。しかし歌とはイメージがかけ離れている。この邸宅にフォスターが訪れたという記録はないようだし、関連性を疑問視せざるを得ない。歌詞を見てみよう。

Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
'Tis summer, the darkies* are gay
The corn top's ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

懐かしきケンタッキーの我が家に太陽が輝く
この夏は、黒人達も楽しそうだ
トウモロコシも実り、草地も茂る
鳥たちは一日中歌を口ずさんでいる

The young folks roll on the little cabin floor
All merry, all happy and bright:
By'n the Hard Times come a knocking at the door
Then my old Kentucky home, goodnight!

若者たちは小さな小屋にやって来て
みんな陽気で明るく楽しそうにしている中
苦難の時が戸を叩く
懐かしき我がケンタッキーの家よ、おやすみ
Weep no more, my lady
Oh, weep no more today!
We will sing one song for the old Kentucky home
For the old Kentucky home, far away

もう泣かないで、お嬢さん
おお、今日はもう泣かないで
我々は歌う ケンタッキーの我が家のために
ケンタッキーの我が家よ、はるかに
They hunt no more for the possum and the coon
On the meadow, the hill and the shore
They sing no more by the glimmer of the moon
On the bench by the old cabin door

彼らはもうオポッサムもアライグマも狩らない
草原や丘、岸辺でも
彼らはもう歌わない 月明かりの下でも
小屋の戸のそばのベンチの上でも

The day goes by like a shadow o'er the heart
With sorrow, where all was delight:
The time has come when the darkies* have to part
Then my old Kentucky home, good night!

喜びに満ちた日々は去り、
心に悲しみの影が落ちる
黒人達の別れの時がきたのだ
懐かしきケンタッキーの我が家よ、おやすみ

The head must bow and the back will have to bend
Wherever the darkey may go:
A few more days, and the trouble all will end
In the field where the sugarcanes grow

黒人達はどこへ行くにも
頭を下げ腰をかがめなければならない
しばらくすれば、苦難の日々も終わる
サトウキビが育つ畑で

A few more days for to tote the weary load
No matter, 'twill never be light
A few more days till we totter on the road
Then my old Kentucky home good night!

どんなにしても軽くならない重荷を
よろめきながら運んでゆく
そんな うんざりする日々も もうすぐ終わる
懐かしきケンタッキーの我が家よ、おやすみ

Stephen Foster

米語 darkies* はアフリカ系アメリカ人に対する差別用語なので、1853年に people に書き換えらた。ところで歌の原題が "Poor Uncle Tom, Good Night!"(可哀想なトムおじさん、おやすみなさい)だったことは案外知られていないかもしれない。1851年に反奴隷制度運動の機関誌 National Era に連載された後、1852年に単行本として刊行された、ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811–1896)のベストセラー小説『アンクル・トムの小屋』に触発されて作詞したことを窺わせる。奴隷制度にまっこうから反対した小説だったが、フォスターは強い衝撃と、賛同の気持ちを抱いたに違いない。小説はケンタッキーを舞台にした奴隷生活を描いている。それゆえ、フォスターは歌の舞台もケンタッキーにしたのでないだろうか。上掲のイラストは音楽の絵本で知られるオーリリアス・バタグリア(1910–1984)が描いた作品だが、この歌が白人を対象にしたものではなく、黒人奴隷のために作られたことを、直感的に理解できる表現になっている。蛇足ながら現代のスタイルに近いバンジョーが描かれている。白人が顔を黒く塗って演じた、都会のミンストレルショーで使われていたものの、南部の農園で暮らしていた奴隷たちは、まだは瓢箪に絃を張ったバンジョーを手作りしていたと想像される。この辺りの時代考証については、個人的に興味が尽きない。

YouTube  Listen to "My Old Kentucky Home" sung by the Edison Male Quartette 1902 on YouTube

2023年11月15日

死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品

Still Life, Marseilles
Still Life, Marseilles, 1992
Joel-Peter Witkin

ジョエル=ピーター・ウィトキンはニューメキシコ州アルバカーキ在住のアメリ人写真家。1939年9月13日、ニューヨークのブルックリンに生まれた。彼は物議を醸す、病的で、ぞっとするような、ゴシック的な風貌の被写体を扱い、死や死体を描写することで知られている。彼の写真には、ニューハーフ、両性具有者、小人、その他の奇形の人々の切断された部分も描かれている。ウィトキンの作品の多くは、社会の基本的な規範や基本的な感性に反した暗い題材を扱っている。ウィトキンはローマ=カトリック教徒の母とユダヤ人の父を持つ。双子の兄弟ジェローム・ウィトキンと息子のカーソン・ウィトキンは画家。幼い頃、宗教の違いから両親の離婚に直面。その後、ブルックリンのセイント・セセリアに通い、グローバー・クリーブランド高校を目指す。1961年から1964年までは戦場カメラマンとしてベトナム戦争を記録。1967年には、シティ・ウォールズ社の公式フリーカメラマンとなる。1964年、ニューヨークのクーパー・ユニオンで彫刻を学び、美術学士号を取得。その後、アルバカーキのニューメキシコ大学で美術修士号を取得した。彼の写真に対する感覚は、幼い頃に目撃した、少女が首を切断された車両を置き去りにした事件から生まれたとウィトキンは断言する。

Studio of the Painter
Studio of the Painter, 1990

また両親の不仲による家庭内の困難やその後の環境も、彼の心に大きな影響を与え、作品に描くような世界を思い描くことを可能にした。中世後期のイタリア人画家ジョット・ディ・ボンドーネは、彼がこよなく愛する画家である。ウィトキンスの写真技術は、ニューオーリンズの歓楽街であるストーリービルの売春婦の写真で知られるアーネスト・J・ベロックの作品の影響を受けている。芸術的な技法に集中し、プリントの調色と漂白を取り入れ、ネガを削り、手で化学プリントを行った。作品制作にコンピューターを使うことを避け、伝統的な方法を用いている。彼は1960年代の二眼レフカメラを使い、従来のフィルムを使用する。

Anna Makhmatova
Anna Makhmatova, 1998

彼が他の写真家と異なるのは、ネガを多用すること、そして彼のイメージに描かれる内容が、世界についての彼のビジョンや空想に基づいていることである。また、ウィトキンの作品から影響を受けた人もいる。英国のファッションデザイナー、アレキサンダー・マックイーンの2001年夏/春コレクションのクロージング・プレゼンテーションは、ウィトキンの写真「サニタリウム」にインスパイアされたものだった。 このほか、2011年にはドキュメンタリー映画 "Joel-Peter Witkin: An Objective Eye"(ジョエル=ピーター・ウィトキン:客観的な眼)が制作され、2013年7月に公開された。

Face of a Woman
Face of a Woman, 2004

トーマス・マリノが監督を務めたこの映画は、ウィトキンの私生活と仕事に焦点を当て、瞑想的な視点で描かれている。このドキュメンタリーには、ウィトキンへの詳細なインタビューや、ウィトキンの作品が現代文化に与えた影響を実感している著名なアーティスト、写真家、学者、ギャラリーオーナーへのインタビューが含まれている。一方、原理主義者をはじめとする一部の人々は、彼を反吐が出るような変態写真家兼アーティストと見なしている。彼の作品の性質は、世間の目には不快でショッキングなものとして映っている。しかし美術界はジョエル=ピーター・ウィトキンを深遠な現代アーティストとして認めている。

Raft of George W. Bush
Raft of George W. Bush, 2006

そのため、彼の限定版はポストモダンの作品の中で最も高値で取引されている。彼が光と戯れ 、ネガを虐待する方法には魔法があると感じられる。彼の写真が好きな人は、ウィトキンが自分の作品について、たとえ自分がカメラを持ってその場にいなくても(多くの人が残虐と呼ぶような)出来事は間違いなく起こるだろうと擁護していることが想像できる。人々の身体的特徴に対する彼の魅力は多くの人々を刺激し、彼の作品が礼儀正しさや規範意識と対峙していると感じる人々もいる。

aperture_bk  Joel-Peter Witkin (born1939) | Artwork | Introduction | Biography | Public Collections

2023年11月13日

アメリカ先住民の参政権のために戦ったルーシー・ニコラー・プーロウ

Lucy Nicolar Poolaw
Lucy Nicolar Poolaw as Princess Watahwaso (1882–1969)

ルーシー・ニコラー・プーロウは1882年6月22日、メイン州インディアン島の先住民居留地で、ペノブスコット族のジョセフ・ニコラーとエリザベス・ジョセフの娘として生まれた。父親は講演家でメイン州議会議員、作家で1893年に "The Life and Traditions of the Red Man"(レッドマンの生涯と伝統)を出版した。子どもの頃、ルーシー・ニコラーは籠細工を習い、メイン州ケネバンクポートで家族とともに手作り品を売った。彼女と姉妹たちは観光客のために歌も歌った。10代の頃、彼女は島のワバナキ・クラブのチャーター・メンバーのひとりで、それは1897年にメイン州女性クラブ連盟に加盟した女性クラブであった。10代後半になると、ルーシー・ニコラーはスポーツマンショーなどの公の場に出るようになり、そのような旅行中にハーバード大学の運営者の目に留まった。彼は彼女にボストンとニューヨークで音楽を学ぶ機会を用意した。ルーシー・ニコラーはしばしば政治活動と娯楽を結びつけた。1900年1月、17歳のルーシー・ニコラーはニューヨークで移民をテーマにした討論会に出席した。彼女は「私はここにいる唯一の真のアメリカ人だと信じています」という声明で出席者を沈黙させた。そしてピアノの前に座り、悲しい歌を歌い、ショパンを弾き、その場にいた全員の心を揺さぶったのである。ルーシー・ニコラーは、1916年からプリンセス・ワタワソという芸名で、チャウタウクアやリセウムのサーキットで、歌を歌い、ピアノを弾き、ダンスをし、フリンジのついた衣装を着て全米をツアーした。ショトーカ団体の年次宴会では国歌「星条旗」を歌った。ニューヨークのエオリアン・ホールで演奏し、1920年にはニューヨークのウーマンズ・プレス・クラブでミュージック・デイのプログラムに出演した。

first ballot
Lucy Nicolar Poolaw cast the first ballot in 1955

ニューヨーク・タイムズ紙は、1920年の彼女のショーについて「ワタワソの生まれつきの才能と後天的な才能は、原始音楽ではあまり聴かれることのない魅力を生み出している」と評している。プリミティブ・ミュージックとして紹介されたものの、プリンセス・ワタワソのレパートリーのほとんどは、サーロー・リューランスやチャールズ・ウェイクフィールド・キャドマンなど、ネイティブ以外の作曲家によって書かれたものだった。また、ルーシー・ニコラーは1917年から1930年にかけて、ビクター・トーキング・マシン社に十数曲の録音を残している。下記リンク先はそのディスコグラフィーである。1929年以降、彼女はプラットフォーム・ショーから引退し、ルーシー・ニコラー・プーロウは夫とともにメイン州でバスケット・ショップ "Chief Poolaw's Teepee"(プーロウ酋長のティーピー)を経営した。彼女はまた、姉妹のエマとフローレンスとともに、メイン州の先住民の権利のために活動した。1955年、メイン州の保留地に住むペノブスコット族が選挙権を獲得すると彼女が最初の投票を行った。1905年にボストン出身の医師と結婚、1913年に離婚。1918年にマネージャー兼弁護士のトーマス・F・ゴーマンと結婚した。3番目の夫はブルース・プールロー(1906-1984)で、同じエンターテイナーだった。二人は一緒にメイン州に引退した。ルーシー・ニコラー・プーロウは1969年3月27日、故郷のインディアン島で他界、87歳だった。プーロウのギフトショップは "Princess Watahwaso's Teepee"(プリンセス・ワタワソのティーピー)と改名され、現在はルーシー・ニコラー・の甥であるチャールズ・ノーマン・シェイが運営する記念館となっている。

Turn Table Princess Watahwaso (Lucy Nicolar Poolaw) Discography of American Historical Recordings

2023年11月10日

クルディスタンの民俗音楽に惹かれる

カウィス・アクサ『クルド民族音楽の歴史的録音』1932–1936年

初めてクルディスタンの音楽を聴いたのは、ユルマズ・ギュネイ(1937-1984)が獄中から指示して制作された映画『群れ』(1978年)だったと思う。哀調を帯びた旋律に心が揺さぶられたと記憶している。クルド人が住むクルディスタンはトルコ東部、イラク北部、イラン西部、シリア北部とアルメニアの一部分にまたがる山岳地帯で、芳醇な伝承音楽を受け継いでいる。私はアメリカンルーツ音楽に心酔しているが、クルディスタンの音楽にも強い関心を持っている。東西に伸びるシルクロードと、南北を貫くスパイスロードとの交差点に位置し、音楽文化の淵源と言えるからである。広範な地域ゆえ、その全貌を語る資格は私にはない。所持している音源は貧弱そのものだが、二つのアルバムを紹介してみたい。上に掲げた『クルド民族音楽の歴史的録音』のカウィス・アクサ(Kawîs Axa 1889-1936)はトルコとの国境に近いイラク北部の村に生まれ育った。1915年に羊飼いの仕事を辞め、歌うたいになる。1930年に首都バグダードを訪れて録音をする。アメリカのカントリー音楽事始めの所謂「ブリストルセッション」が1927年だったことを想起すると、文明の利器、レコードがいち早く中東に伝播したわけで、驚きを禁じ得ない。以後、録音を繰り返したが、まさに歴史的遺産を残したと言える。蛇足ながらカバーの写真はクルドの女性をモデルに撮影したもので、アクサ自身は男の演奏家である。

YouTube  Kawîs Axa: Sheikh of Zırav [Sheikh Mahmud Berzencî] 1932–1936
ケルマンシャーのクルド音楽(2008年)

セイエド・アリ・ハーン・アンサンブルは長男の名前をグループ名にした音楽集団で、出身はイラン西部、アゼルバイジャンの南にあるケルマンシャーである。イラン最大のクルド人地区で、ペルシャとクルド、二つの文化がぶつかり合う豊かな音楽土壌を持ち、スーフィー音楽の中心地でもある。クルド音楽の花形楽器はタンブールだが、同名の楽器がトルコから中央アジア、アフガニスタンまであるが、それぞれ形状や弦の数が異なっている。クルドのタンブールの形は、トルコのサズやシリアやレバノンのブズクに似ているそうだ。グループのリーダーであるセイエド・アリ・ジャーベリー・ハーンは1974年生まれという若さだが、この楽器を担当、超絶技巧と忘我の熱唱を残している。3弦の簡素な構造のタンブールを使用しているが、複雑精緻、極めて豊かな表現力を発揮している。ダフと呼ばれる太鼓はセイエド・アヒアルディン・ジャーベリーが担当している。なお、この CD は日本のキングレコードが1994年、同社の第2スタジオで録音し『イラン・ケルマンシャーのクルド音楽~セイエド・アリ・ハーン』(英名 "The Art of Seyed Ali Khan")と題し「ワールド・ルーツ・ミュージック・ライブラリー」の1枚としてリリースされた。このシリーズは現在150タイトル、世界に誇ることができる、まさに「音楽の世界遺産」とも言える貴重な音源だ。下記リンク先の動画共有サイト YouTube でその片鱗を窺うことができる。

YouTube  The Sayed Ali Khan Ensemble "Goruh-Nawazi, Sheydaii" (World Music Library) 1996

2023年11月9日

ニューヨークのアパートの窓から四季の移り変わりをなどを撮影したルース・オーキン

Card Players
The Card Players, New York, 1947
Ruth Orkin

ルース・オーキンはフォトジャーナリストであり、映画製作者だった。オーキンは1921年9月3日、マサチューセッツ州ボストンでサイレント映画女優のメアリー・ルビーとオーキンクラフトというおもちゃのボートを製造していたサミュエル・オーキンの間に生まれた。彼女は1920年代から1930年代の全盛期のハリウッドで育った。10歳の時に39セントのユニベックスをプレゼントされ、被写界深度の浅いコンパクトな折りたたみ式カメラで、学校で友人や先生を撮影することから始めた。14歳のとき、オーキンは1ドルのベイビー・ブラウニーに乗り換えた。しかし、初めて「本物の」カメラ、中判のパイロット6一眼レフ(なんと16ドルで購入!)を購入したのは16歳の時で、1939年の万国博覧会を見るために、ロサンゼルスからニューヨークまでアメリカ横断の記念碑的な自転車旅行に出かけ、その道中を撮影した。彼女はすぐに35mmに移行し、コダック・インスタマチックやニコンFなど、いくつかの異なるバリエーションを使用したが、キャリアの大半はより小さなフィルムフォーマットを好んだ。1943年にニューヨークに移り、ナイトクラブのカメラマンとして働きながら、昼間は赤ちゃんの写真を撮り、初めてプロ用のカメラを購入した。1940年代には主要な雑誌の仕事をこなし、夏にはタングルウッドに通って音楽祭のリハーサルを撮影した。

 Teargas Drill
WACs in Training, Teargas Drill, Ohio, 1950

アイザック・スターン、レナード・バーンスタイン、アーロン・コープランド、ヤッシャ・ハイフィッツ、セルゲイ・クーセヴィツキーなど、当時世界で最も偉大な音楽家の多くと仕事をすることになった。1951年、グラフ誌『LIFE』が彼女をイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とともにイスラエルに派遣した。その後、オーキンはイタリアに渡り、フィレンツェで、"American Girl in Italy "(イタリアのアメリカンガール)の被写体となった、美大生で同じアメリカ人のニーナ・リー・クレイグと出会った。

American Girl
An American Girl, Florence, Italy, 1951

この写真は、戦後のヨーロッパを女性一人で旅する彼女たちが遭遇したものについて、当初『一人旅を恐れないで』と題されたシリーズの一部であった。 ニューヨークに戻ったオーキンは、写真家で映画監督のモリス・エンゲルと結婚。1953年にアカデミー賞にノミネートされた名作『小さな逃亡者』を含む2本の長編映画を共に制作した。オーキンは1970年代後半にスクール・オブ・ビジュアル・アーツで、そして1980年にはインターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィーで写真を教えた。

View From My Window
The View From My Window at 53 W. 88, NYC, 1952

セントラルパークを見下ろすニューヨークのアパートの窓から、オーキンはコンサート、マラソン、パレード、デモ、四季の移り変わりの美しさなどを撮影した。これらの写真は "A World Through My Window"(私の窓からの世界)と "More Pictures From My Window"(私の窓からのその他の写真)という2冊の本の題材となり、広く称賛された。ガンの長い闘病生活の後、1985年1月16日、オーキンは窓の外に広がるセントラルパークを眺めながら、彼女が残した素晴らしい写真遺産に囲まれ、アパートで息を引き取った。

Central Park
Central Park South Silhouette, NYC, 1955

2023年のベルリン映画祭では、マーティン・スコセッシ監督やティルダ・スウィントンら国際的な映画監督や俳優たちに「映画における青春」をテーマにした作品の中から個人的に好きな作品を選んでもらい、回顧上映部門の作品を発表した。ウェス・アンダーソン監督は、ルース・オーキン、モリス・エンゲル、レイ・アシュレイが共同監督した『リトル・フュージティブ』を選んだ。オーキンは、1953年にヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したこの作品の編集も担当した。

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