2022年3月23日

ウクライナの反体制詩人ヴァシル・ストウスの生涯

The poster of Ukrainian poet Vasyl Stus
The portrait of Vasyl Stus on the wall of the building, 2018. Kyiv, Ukraine. Photo © Yurii Zushchyk

ヴァシル・ストウス(1938-1985)は、ウクライナの詩人、翻訳家、文芸評論家、ジャーナリスト、そしてウクライナの反体制運動で活動した人物である。ハンガーストライキを宣言し、当時ソ連の政治犯強制労働収容所で死亡するまで13年間拘留された。2005年11月26日、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ元大統領からウクライナの英雄という最高の称号を死後に授与された。

Vasyl Stus (1938-1985)
たくさんの言葉 それはまるで不自由な幽霊のようだ
遠くから 近くから 弾丸のように襲ってくる
しかし いつも私は人生の本質を見逃す
彼らは列をなしてやってくる
これらの欺瞞に満ちた言葉の中を 私は歩き 恥じる
戦いがある 私は戦場にいる
私の兵士は皆 私が振るまう言葉である
そして反逆は かき乱す記憶によって蒔かれる
善いものを信じているときに 騙されて終わらないように
そして 苦悩の泥沼に迷い込まないように
人は思い出せば思い出すほど 疲れてくる
疲れた日には 私は死に こうして
人知れず夜の色に隠れる
幸せも怒りも知らないところで
生きるのではなく 自らの死を噛みしめる場所
たくさんの言葉 それはまるで不自由な幽霊のようだ

これは彼が残した一篇の詩である。ヴァシル・ストウスは、1938年1月6日に、ウクライナのヴィーンヌィツャの農家に生まれた。翌年、彼の両親はスタリーノ(現在のドネツィク)に引っ越した。彼らの子供たちは1年後に彼らに加わった。中学校を卒業した後、ストウスはスタリーノの教育研究所(現在のドネツィク大学)の歴史文学科に入学する。1959年に研究所を卒業、キロヴォフラート州のタウジニア村で、ウクライナ語とウクライナ文学の高校教師として短期間働き、その後2年間ソビエト軍に徴兵された。

Ukrainian dissidents
Ukrainian dissidents calebrate Chrismas in Lviv before the 1922 arrests

大学で勉強している間、そしてウラル山脈での兵役中に、彼は詩を書き始め、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749–1832)とライナー・マリア・リルケ(1875–1926)による100以上の詩をウクライナ語に翻訳した。彼の翻訳の元のコピーは後にKGBによって没収されてしまう。兵役後、ストウスは1960年から1963年にかけて新聞 "Sotsialistychnyi Donbas"(社会主義ドンバス)の編集者として働いた。1963年に彼はキエフのウクライナ科学アカデミーのシェフチェンコ文学研究所で博士号(PhD)プログラムに参加、と同時に、彼は自選の詩集を出版した。1965年9月4日、キエフのウクライナ映画館でのセルゲイパラジャーノフの映画「火の馬」の初演中に、ストウスはウクライナの諜報機関の逮捕に対する抗議に参加した。その結果、彼は9月30日に研究所から追放され、後に州立歴史アーカイブでの職を失ってしまう。その後、彼は建築現場、消防士、そしてエンジニアとして働き、詩の集中的な仕事を続けた。1965年に作品を出版社に提出したが、ソビエトのイデオロギーと芸術スタイルとの矛盾のために却下されてしまう。詩人のイヴァン・ドラック(1936–2018)からの肯定的なレビューにもかかわらず、彼の次の詩の「冬の木の本」も拒否される。しかし1970年にこの本はベルギーで出版された。1972年1月12日、ストウスは「反ソビエトの扇動とプロパガンダ」の罪で逮捕された。1980年11月にソビエト連邦ペルミ地方クチノ村近くの、政治犯強制労働収容所ペルミ36(後に政治弾圧歴史博物館)に移送された。1985年9月4日にハンガーストライキを宣言し死亡、47歳だった。

Ukraine  Vasyl Stus | Biography by Danylo Husar Struk | Internet Encyclopedia of Ukraine

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