2021年2月22日

日系米国人の強制収容を記録したドロシア・ラング

The Mochida Family Awaiting Evacuation Bus at Hayward, CA. May 8, 1942 ©Dorothea Lange
Franklin D. Roosevelt (1944)

第二次世界大戦中の米国で、日系米国人強制収容の根拠になった大統領令 9066 号署名から79年となった2月19日、ジョー・バイデン大統領(1942-)は声明を発表し、改めて謝罪した。「こうした政策によって苦しんだ日系米国人への連邦政府の公式な謝罪を再確認する」と表明した。このニュースに接し、日系米国人の強制収容を記録した写真家ドロシア・ラング(1895-1965)を思い出した。

Dorothea Lange
Dorothea Lange (1935)

日系米国人のモチダさんは、カリフォルニア州エデンで、2エーカーの農地に種苗場と5つの温室を持っていた。そのモチダさん一家が、強制収容所に送られたのは1942年5月だった。ヘイワードで収容所行きのバスを待つ一家を撮影したのはドロシア・ラングだった。彼女は1930年に農業安定局 の FSA プロジェクトに参加、農民の写真撮影に取り組み、1936年の『出稼ぎ労働の母』は大恐慌時代を象徴する写真となった。そしてグッゲンハイム財団の奨学金受給を辞退して撮影を始めた、日系米国人の強制収容が新たな重要テーマになった。強制収容は1942年2月19日にフランクリン・D・ルーズベルト(1882–1945)が大統領令 9066 号に署名、発令したことに始まった。第二次世界大戦中に収容されたのは日系人は12万を超えたが、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられたのである。真珠湾攻撃により日本と米国が交戦状態なったためだったが、大統領令 9066 号に対する反対意見はあった。大統領夫人のエレノアがそのひとりだった。40年後の1982年になって大統領令は否定されたが、ルーズベルトの失政としてその汚点が歴史に刻まれたのだ。リベラルな政治家として、今でも米国では人気があるようだ。しかしレイシストで日本人に対する人種差別的感情を背景に、第二次世界大戦に突き進んだという指摘がある。この世に完璧な人間は存在しないし、誰もが闇を抱えているのである。なお日系米国人強制収容所を記録したもうひとりの写真家がいる。カリフォルニア州ヨセミテ渓谷の写真で有名な巨匠、アンセル・アダムス(1902-1984)である。

iris Dorothea Lange's Censored Photographs of FDR’s Japanese Concentration Camps

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