2021年1月6日

ダニーボーイの故郷を訪ねて

Derry
夕闇迫るデリー(尖塔は聖ユージーン大聖堂)

英国北アイルランドのデリーは屈指の歴史を誇る城塞都市である。私が初めて訪ねた時は、英国で発行された地図には「ロンドンデリー」と記されていた。ところが南のアイルランド共和国で発行された地図には、単に「デリー」となっていた。古くはゲール語で "Doire" と呼ばれ、これはオークの森という意味だそうだ。だから元々はデリーであったが、1623年にロンドン市領となった際に改名されたのである。地名に関する訴訟が起きたが、2007年に英国の高等裁判所は、ロンドンデリーが正式名称であるという判決を下した。この街で会った古老に「デリーですね」と話しかけたら「そうだよ、ここはロンドンじゃないよ」という答えが返ってきた。ロンドンという綴りを省いた地名に、英国の圧政に苦しんだアイルランド人の怨念を感ぜざるを得ない。前書きが長くなってしまったようだ。いま私は「ダニーボーイ」の原曲について書き出そうと思っているのだが、果たしてそれを「ロンドンデリーの歌」としていいのか迷っている。しかし曲名はともかく、地名はデリーと書くことにする。1851年、ダブリンに創設されたばかりの「アイルランドメロディ保存出版協会」のジョージ・ペトリ(1789-1866)の元に楽譜が送られてきた。送り主はデリーの東約25キロにある町、リマヴァディに住むジェーン・ロス(1810-1879)だった。ペトリはこの曲を含め、1855年に「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」と題する本を出版した。その57ページには、この美しいメロディが、膨大な曲の蒐集をしているリマヴァディのジェーン・ロスから送られてきたものだと紹介している。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディであるが、大事なのは、曲名がついてないことだった。

The Petrie Collection of the Ancient Music of Ireland (First edition 1855)
Cork Univ Press (2002)

雑誌の取材で、このリマヴァディにあるジェーン・ロスの生家を訪ねたのは、1987年のことだった。濃い青紫色に塗られた2階建ての1階右側は商店になっていたが、左側の壁に丸いプレートがあった。それには「民謡ロンドンデリーエアを記録したジェーン・ロスがここに住んでいた」と書かれている。中に入ると、気品ある老婦人が迎えてくれた。クローディ・マクルーニさんは当時すでに76歳だったが、48年前にこの家を買ったと話してくれた。計算してみると、1938年ということになる。ジェーンの遺品はなかったが、近くの墓地でその墓と対面することができた。彼女は生涯独身を通したようだが、いったいどんな女性だったのだろうか。その軌跡を求めて、国境を超えたダブリンの国立図書館を訪ねたのである。天井が高い閲覧室を抜け、奥の古文書保管室に案内された。最初に見せてくれたのは、ジョージ・ペトリ自筆の楽譜集だった。その中にジェーン・ロスから送られてきたとういう但し書きがついた曲があった。しかし残念ながらあのメロディではなかった。次に1855年に出版された「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の初版本を館員が抱えてきた。その57ページに、昔のアイルランド音楽と題し Name unknown つまり曲名不詳と書いた楽譜が印刷されていた。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディである。この曲を送ってきたロス嬢によれば「かなり古い」という簡単な注意書きのみで、彼女は曲名を確認できなかったようだという意味のことをペトリは書いている。この本は2002年、アイルランドのコーク大学から復刻版が出版されたので、現在は入手可能である。

ジェーン・ロスの生家

世界中に広まったこの美しいメロディを採譜したのは、旅のフィドル弾きからだというのが定説になっているようだ。あるいはイレアンパイパーではないかという説もある。楽器の携行性を考えると、フィドルのほうに説得力がある。ジェーンがこの曲を耳にしたのは、彼女が40歳のころだったと推測を加えることもできる。しかしながら、これらはあくまで文字通り推測であって、確かな記録はない。だから文献歴史学の立場に立てば、ペトリが書き残した以外のさまざまなダニーボーイ物語は、すべてフィクションということになる可能性が高い。いわば文学の世界である。しかし人間というのは面白いもので、史実より、時にフィクションを好むようだ。そのほうがロマンに満ちてるからかもしれない。もっとも魅力あふれる逸話は、ジェーンが盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリー(1830-1910)から教わったというものである。もうひとつは、実はジェーンが作曲したものではないかというものである。これらは果たして史実に切迫したものなのだろうか。これは先に紹介した「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の復刻版である。ペトリの原本、メロディー、および彼の序論のすべてを含んでいるが、いわゆる完全復刻版ではなく、新たに版を組んでいるからだ。古いアイルランドのスペルが、現代のそれに置き換えられている。日本でもよく行われてる、旧かなづかいを現代かなづかいに直す作業と同じである。一番残念なのは譜面が省略化されてることだ。例えば前回掲載した楽譜は、ペトリの娘が編曲したピアノスコアがついていたのだが、これが省かれ、主旋律のみとなっている。なぜこのようにしたか不明であるが、だから正確には復刻というより新版と呼ぶべきかもしれない。

ロス家の墓

前述した通り、ジェーンが旅回りの盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリーから教わったという逸話が、リマヴァディにあるサイト「ダニーボーイの起源」に詳述されている。それによると、ある日バーンズ&レアード運送会社の事務所の外でジミーが美しいメロディを奏でているの聴いた。そして彼に何度も弾いて貰った。そのお礼にとコインを貰ったジミーが、それを擦ってみると、ペニー銅貨だと思っていたのが実は2シリングのフロリン銀貨であった。高価なので間違いじゃないかと追って質すと、ジェーンは感謝の気持ちであるからと、そのまま持って行くようにと返却に応じなかったという。非常にドラマチックな物語であるが、これは著名な民謡蒐集家サム・ヘンリー(1870-1952)が「民衆の歌」に書いているという。ジミーの子孫であるウォレス・マカリーから1996年に聞いたもので、信憑性が高いと主張している。魅惑的な逸話である。しかし出来過ぎた話はともするとフィクションが含まれている。文献歴史学の立場からすれば、ジェーンに関する記録は、ペトリのそれだけであって、その資料は余りにも乏しい。アイルランドの音楽関係者の話では、わずかに残ってるのは、当時の中流家庭に育ち、音楽好きであったことぐらいである。せめて彼女が送った楽譜が残っていればと思う。彼女自身が実は作曲者ではなかっただろうか、というのはさらに魅力ある想像だが、これは考え難い。私はリマヴァディのクライスト教会あるロス一家の墓地を訪ねた。墓碑には一番上に父親ジョンの名が刻まれ、次に4人の娘の名がある。いずれも結婚をしなかったようだ。彼女がペトリに送ったメロディに「ダニーボーイ」の詞をつけた作詞者は、弁護士でもあったソングライター、フレデリック・エドワード・ウェザリ(1848-1929)と言われている。この歌は世界中に広まり、今でも多くのミュージッシャンが歌い、無数のレコーディングがある。無名のまま68歳でこの世を去ったジェーンがそれを知るよしはない。

YouTube  Deanna Durbin sings 'Danny Boy' for Charles Laughton from film 'Because of Him' 1945

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