2021年1月19日

ファーブルの昆虫写真を撮影した息子のポール

昆虫を撮影するジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)の息子ポール(1888-1967)1912年頃

新樹社 (2008/9/1)

迂闊なことにファーブル父子が昆虫の写真を撮っているのを知らなかった。それを知ったのは岩波文庫版『完訳ファーブル昆虫記』全10冊を買い揃え、第1分冊の序文を読んでからからだった。昆虫記は1879年から1910年に渡って刊行されたが、その最終版刊行にあたり写真を使用したことを次のように述べている。「本書の出版に当り、出版社は何一つなおざりにしなかった。私は息子のポール・ファーブルと協力して前版で非難された欠陥を埋めることにつとめた。この版は本書の研究の対象をなす大部分の登場者と場景とを示す200枚以上の写真で飾られることになる。その大半は自然の中で生きているものをそのまま写した」とある。巻末には訳者の「ファーブルの旧地を訪ねて」という紀行文が寄せられているが、そこにも「ポールは昆虫写真に興味をを持ち、ドラグラヴから昆虫の生態写真集を出版しているので」という記述が見られる。ポールは父ファーブルの優れた助手であった。そして写真が父の『昆虫記』を客観的に実証するために撮られたことは興味深い。つまり図鑑ではなく、観察写真なのである。私は昆虫に関しては疎いが、野鳥の写真に関しては若干頼りない知識を持っている。つまり野鳥においても、図鑑写真と観察写真を緩やかに線引きすることができる。つまり前者は鳥の特徴が顕著でなければならない。だから往々にしてイラストのほうが分かりやすいことがある。しかしイラストによる図鑑には落し穴がある。

Family of Fabre
ファーブルの後妻ジョゼフィーヌ(前列左)と愛犬トムと娘たち
ポール・ファーブルと娘たち?

つまり捕獲し剥製にした死骸、W・H・ハドスンが批判した「ガラスケースの中の鳥」である可能性があるからだ。私は山科鳥類研究所が所蔵する19世紀英国の超大型図鑑を見せてもらったことがある。ポスターサイズの豪華本で、庶民が手を出せる代物ではない。蛇足ながら英国の博物学は貴族との繋がりがあったようで、日本の皇室はそれを模倣したと私は推測している。それはともかく飛び回る野鳥を鮮明にカメラで捉えるのはなかなか難しいというのが私の実感である。だから、動き回る昆虫を、あの時代に撮影したファーブル父子には頭が下がる。ニエプスが光の像を定着させるのに成功したのは1824年で、ダゲールのダゲレオタイプは1839年にフランス学士院で発表された。タルボットがネガポジ法のカロタイプの特許を取ったのが1841年である。1887年、ファーブルは64歳で再婚したが、ポールが生まれたのはその翌年であった。写真術発明から半世紀もたっていなかった計算になる。息子のポールが写真を撮り始めたのは18歳ごろだったと推測されるという。仮に1906年とすれば、コダックのブラウニは生まれていたものの、ライカはまだ影も形もない時代だった。撮影風景が残されているが、硝子乾板を使った旧式の木製暗箱であり、感光材料の感度も低かった時代でもある。それにも関わらず、大胆な接写を含め、それぞれ昆虫が生き生きと写されているのに驚く。父ファーブルが強調しているように「自然の中で生きているものをそのまま写した」のなら、尚更驚愕せざるを得ない。蛇足ながらファーブルに指示されながら昆虫を撮影している上掲写真の息子ポールを、アルバート・ハーリンゲ(1879-1963)と誤表記しているウェブサイトが多い。ハーリンゲはパリの人々を活写した写真家だが、有名な写真ゆえに誤用の拡散が懸念される。

WWW L' équipe de l'Association du musée virtuel Jean-Henri FABRE | Association loi 1901

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