László Moholy-Nagy |
ラースロー・モホリ=ナジは、20世紀のハンガリーを代表する芸術家である。絵画と写真を得意とし、教師としても活躍した。彼の作風は、芸術は社会的な目的を果たすべきであり、自律的なものであってはならないという、構成主義の芸術哲学に大きく影響を受けている。また現代の技術を芸術に統合するという考えを強調していた。モホリ=ナジは1895年7月20日、ユダヤ系ハンガリー人の家庭に生まれ、ラースロー・ヴァイシュと名付けられた。その後、父親が家を出て、母親の友人であるナジが子育てを手伝ってくれたことから、ナジに姓を変えた。彼の少年時代の一部は、ハンガリーの町エイダで過ごした。幼少期にはハンガリー改革派教会でカルヴァン派に改宗した。セゲドにあるギムナジウムという高等学校で教育を受けた。第一次世界大戦が勃発すると、ブダペストで法律を学んだ。その直後、徴兵され戦地で大怪我をした。戦場から戻ってきた彼は、療養中に芸術に親しむ毎日を送り始める。そして雑誌 "Jelenkor"(現代)や "Ma"(今日)などを拠点にした芸術活動家グループと親しくなった。
1918年に除隊すると、ハンガリーのフォーヴ芸術家ロベール・ベレニー(1887–1953)が経営する私立美術学校に入学した。共産主義体制が崩壊すると、セゲドに戻り、そこで作品を発表した後、ウィーン、ベルリンへと移った。モホリ=ナジは、1923年にバウハウスの基礎コースの講師に就任した。これ以降、表現主義的な教育は停止し、学校の中心的な目的であるデザインと産業の統合に集中することになる。モホリ=ナジの天才的な創造性を含む、芸術家の多才さはバウハウスで知られていた。写真、タイポグラフィ、工業デザイン、絵画、彫刻、版画など、さまざまな分野での生涯にわたる努力と熟練が認められたのである。
彼が得意としたのはやはり写真だった。彼の信念である「ニュービジョン」によれば、写真とは人間の目では完全には不可能な、まったく新しいスペクトルで現実を捉える手段である。彼の教えは、様々な形の芸術の無限の素晴らしさを探求する生徒たちに大きな影響を与えた。また「素材から建築まで新たなビジョン」と題して、自身の芸術論や教育論などをまとめた本を執筆した。モホリ=ナジは、感光性印画紙の表面に直接物を置いて光を当て、カメラを使わずに撮影するフォトグラムの実験を行った。そして "Lichtrequisit einer elektrischen Bühne"(電動ステージの照明プロップ)という作品は、彼の最も偉大な業績とされている。動くものを通して光を投射し、近くの面に影を作ることを目的とした装置である。
これはドイツ工作機械展のためにハンガリー人建築家と共同で制作した動く彫刻と解釈されることが多い。死後、この装置は「光―空間変調器」と呼ばれるようになった。1927年から1929年にかけて、オランダの前衛的な雑誌『インターナショナル・レヴュー』の写真編集者として活躍した。1920年代後半にバウハウスの教職から退いた後、ベルリンではデザイナーとして高く評価された。モホリ=ナジは、ナチスが政権を握るとイギリスに渡り、教職から商業写真まで様々な仕事をする。その後ニューバウハウスのディレクターとしてアメリカに招かれ、最期までシカゴで過ごした。1946年11月24日、白血病で他界、51歳だった。
László Moholy-Nagy (1895–1946) A Short Biography of the Artist by Hattula Moholy-Nagy
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