Man Ray (1890–1976) |
マン・レイは主に、ダダイズム運動とシュルレアリスム運動の両方にまたがる写真作品で知られている。1915年、フランスの芸術家マルセル・デュシャンと出会い、共に多くの発明を行い、ニューヨークでダダ芸術家のグループを形成した。1921年、レイはフランスのパリに移り、ダダイジムやシュルレアリスムの芸術家や作家たちと交流を深めた。写真の実験では、レイヨグラフと呼ばれる「カメラのない」写真を作る方法を発見した。マン・レイは、ロシアからのユダヤ人移民の息子として、エマニュエル・ルドニツキーとして、1890年8月27日に生まれた。父親は仕立て屋をしていた。幼い頃、一家はブルックリンに移り住んだ。レイは幼い頃から優れた芸術性を発揮していた。1908年に高校を卒業すると、フェレールセンターでロバート・アンリ(1865–1929)にデッサンを習い、アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)のギャラリー291にも出入りするなど、芸術への情熱を燃やした。スティーグリッツの写真に影響を受けたことが明らかになったのは後のことである。レイはパブロ・ピカソ(1881–1973)ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)マルセル・デュシャン(1887–1968)などの作品が展示された、1913年のアーモリーショーでもインスピレーションを得る。
同年、彼はニュージャージー州リッジフィールドの急成長しているアートコロニーに引っ越した。キュービズム風の絵画を試した後、抽象的な表現へと移行してゆく。1914年、ベルギーの詩人アドン・ラクロワ(1887–1975)と結婚したが、数年後に破局を迎えた。 この頃、芸術家仲間のマルセル・デュシャンと親しくなり、より長く続く友情を築いてゆく。デュシャンやフランシス・ピカビア(1879–1953)らとともに、ニューヨークのダダイズム運動の中心 人物となった。ダダとはフランス語で「揺り木馬」を意味し、既存の芸術や文学の概念を覆し、自発性を重んじるものである。この頃のレイの代表作のひとつが、2つの拾い物を組み合わせた彫刻 "The Gift"(贈り物)だった。アイロンの作業面に鋲を貼り付けて制作したものである。1921年、レイはパリに移り住んだ。ガートルード・スタイン(1874–1946)やアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)などの著名人と交流し、前衛芸術の一翼を担っていた。そして芸術家や文学者たちのポートレートで有名になる。またファッション写真家としても活躍し『ヴォーグ』などの雑誌に作品が掲載された。
これらの商業活動は、彼のファインアート活動を経済的に支えたことは言うまでもない。p>写真の革新者であるレイは、暗室で偶然に面白い画像を作り出す新しい技法を発見した。感光紙の上に物を置き、光を当てることで物体の形を焼き付ける方法である。この時期のレイの有名な作品に、1924年の "Violin d'Ingres"(アングルのヴァイオリン)という作品がある。これは、フランスの新古典主義画家ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780–1867)の絵画『ヴァルァルパイソンの浴女』のモチーフにした作品である。彼の恋人であるパフォーマーのキキの背中ヴァイオリンのf字孔を描いた写真である。また映画の可能性を追求し "L'Etoile de Mer"(海の星)などのシュルレアリスムの名作を生み出した。また、この頃、サバティエ効果(ソラリゼーション)と呼ばれる、画像の一部が反転、銀色のゴーストのような質感を加える技法を試している。
パリ時代で特筆すべきは、無一文の老写真師ウジェーヌ・アジェ(1857–1927)の「発見}である。アジェは40年近くもの間、パリの建物やモニュメント、風景などを撮影し、そのプリントを芸術家や出版社に売って貧しい生活を送っていた。彼の作品を雑誌にレイは掲載した。そしてレイの助手をしていたことがあるベレニス・アボット(1898–1991)は今までで一番美しい写真と称するパリの写真に心打たれる。アボットはその写真に独創性を見出し、老人と親交を深めていった。1927年にアジェが亡くなると、アボットは彼のすべてのプリント、スライドグラス、ネガを購入することにした。この膨大なコレクションに夢中になり、その後40年間、アジェの作品の普及と保存に努め、展覧会や本の出版、資金集めのためのプリントの販売などを行なった。レイは今度はリー・ミラー(1907-1977)という別のミューズを見つけ、作品に登場させた。1932年のファウンドオブジェクト彫刻「破壊されるべき物体」には彼女の目が切り取られており「天文台の時間」(1936年)の空には彼女の唇が描かれている。
1940年、レイはヨーロッパでの戦争を逃れてカリフォルニアに移り住んだ。翌年、モデルでダンサーのジュリエット・ブラウナー(1911–1991)と結婚し、マックス・エルンスト(1891–1976)およびドロテア・タニング(1910–2012)とのダブル結婚式をあげた。1951年、パリに戻ったレイは、さまざまな芸術的メディアを探求し続けた。彼は絵画と彫刻に多くのエネルギーを注いだ。そして、新たな方向性として、レイは回顧録の執筆に着手する。自伝「セルフ・ポートレート」が1965年に出版された。晩年のマン・レイは、亡くなるまでの数年間、ニューヨーク、ロンドン、パリなどで展覧会を開催し、芸術作品を発表し続けた。1976年11月18日、愛するパリで逝去。86歳であった。彼の革新的な作品は、世界中の美術館で展示されており、その芸術的なウィットと独創性が記憶されている。かつてレイはインタビューに対し「どんなカメラを使うのですか」と尋ねられると「どんな絵の具と絵筆を使うのか画家に尋ねますか。どんなタイプライターを使うのか作家に尋ねますか」と答えている。けだし名言である。友人のマルセル・デュシャンは「絵筆を扱うように、カメラを心の奉仕のための、単なる道具として扱ったことが彼の功績である」と述懐している。
Man Ray (1890–1976) Biography, Works and Exhibitions | The Museum of Modern Art
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