石造金剛夜叉明王像 平等寺(京都市下京区不明門通松原上る)
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平等寺(京都市下京区) |
5月に投稿した拙文「
広沢池十一面千手観音像奇譚」に、御室の五智山蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつが、広沢の池の畔にあると書いた。そしてさらに京都市下京区の平等寺にも二仏があるようだとも。その平等寺に出かけてみた。因幡薬師の名で親しまれているが、十一面観音像を安置した観音堂は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。本尊の重文薬師如来立像は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来と共に日本三如来のひとつに数えられて信仰されている。京の町衆の会堂として、猿楽、芝居、歌舞伎の興業が行われ、浄瑠璃発祥の地ともいわれている。観音堂の右、本堂の西側に回り奥まで進むと、ブロック塀を背にした二体の石仏があった。右は毘沙門天像、左は金剛夜叉明王像である。金剛夜叉明王は怒髪忿怒相の三面、そして六本の手、所謂三面六臂像である。佐野精一著『京の石仏』には「金剛杵(こんごうしょ)などを持つ」とあるが、側面の手は形を失い、その様相は窺えない。同書には「どちらも例の背面銘があるが、何者かの仕業かセメントで塗り潰してある」とあるが、その通りである。何とか解読しようと思ったが、ちょっと無理であった。しかし佐野精一氏は、坦称上人が作像、樋口平太夫が寄進したものに間違いないと書いている。広沢の池の観音像は蓮華寺から借り出されたもので、借用状が寺に残っているという。しかしこの二体についてはどうだろうか。いかなる経緯でこの寺に流出したのだろうか。背面銘を消そうとした行為に疑惑めいたものを憶えるが、やはり余計な推測は避けよう。
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正嫡橋(京都市山科区の琵琶湖疎水) |
京都市山科区御陵大岩の本圀寺に出かけてみた。御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の音羽山から流失した二体の石仏があるという。京都市営地下鉄東西線御陵駅で降り、三条通から案内標識を頼りに急勾配の坂道を上ると、琵琶湖疏水に出た。桜の名所だが、その葉が濃緑に変じている。疏水沿いに東へしばらく歩くと、朱塗りの正嫡橋が目に飛び込んできた。近代化遺産ともいえる疏水の素朴なコンクリートと好対照だが、とにかく目立つ。橋を渡り赤色の開運門をくぐり、仁王門の前に立つ。日蓮正嫡の道場を意味するのだろう「正嫡付法」と浮き彫りした篇額は金色、屋根の上には一対の金色の鯱鉾。これで驚いてはいけない、仁王像や梵鐘も金色なのである。宗祖日蓮上人の像は流石に青銅だが、背後の本堂はこれまた朱塗りである。なにもかもが派手な伽藍だが、風雪に絶え忍んできたものの、一部に欠損が見られる石仏二体を見つけることができた。境内東隅の客殿横に勢至菩薩(せいしぼさつ)像と十一面観音像がひっそり立っていたのである。ちょっと言い方を変えれば「あっけなく見付けた」といって良いかもしれない。とういうのは佐野精一著『京の石仏』に「山積みの石材の中に二仏があることに気付いた」という記述があったからである。もしかしたら境内の何処かに紛れ込んでいるのではと思っていたが、いらぬ危惧だったようだ。両像の背面には銘文が刻んであるが、平等寺のそれのようにセメントで塗り隠されてるようなことはなかった。
石造勢至菩薩像 本圀寺(京都市山科区御陵大岩)
左側の勢至菩薩像には「願主樋口平太夫家次(花押)作者 但稱(花押)」と彫ってあり、広沢の池十一面千手観音像の銘文と同意である。すなわち五智山蓮華寺の復興に寄与した豪商樋口平太夫が、木喰僧坦称上人に依頼して作像したもので、紛れもなく音羽山から流失した五体の石仏のうちの二体であることは確かである。ではどうしてここにあるのだろうか。本圀寺の寺伝によると、1253(建長五)年に日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとし、後に本国土妙寺として最初の祖跡寺院が創立された。ところが光厳天皇の勅諚を受けた四世日静聖人により、1345(貞和元)年に京都堀川通六条へ移遷したのである。広大な伽藍を構えたが、戦後になって荒廃し、昭和三十年代に国宝級の仏像や美術品が一部の僧侶によって勝手に売却され、境内地が借金の担保になったという。そこで土地を売却して、1971(昭和四十六)年に山科の現在地に移転することになった。堀川警察署裏の墓地に蓮華寺から消えた石仏二体が置かれていることが知られていたが、これは何者かによる「盗品」であったことを寺院も知っていたようである。伽藍移転の際、本圀寺本寺の土地売却にあたっては、西本願寺等の間でスキャンダルや訴訟の類があったようだ。平等寺に安置されている毘沙門天像と金剛夜叉明王像の銘文が消されてることに関し、ある種の疑いを抱きつつ、前回曖昧に書いた。ところがその後、病床の佐野精一氏にお会いして真相を訊いた。やはり「盗品」だったそうである。移転先の二寺との間に金銭的な取引があったかどうかは知る由もない。ただ重文指定の仏像などなら、元の鞘に収まるだろうけど、寺宝という観点から石仏は価値が低いのだろう。雨ざらしの野仏ゆえ、流浪の旅を強いられたのかもしれない。