2020年5月1日

広沢池十一面千手観音菩薩像奇譚

石造十一面千手観音像(京都市右京区嵯峨広沢町)

広沢池の西側を北へ少し歩くと、京都市の案内板が立っている。それによるとこの辺りは旧遍照寺の境内であったとある。史書によると遍照寺は平安時代中期、989(永延三)年に宇多天皇の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものだという。

蓮華寺の五如来石仏(右京区御室大内)
池中の観音島へは橋が架けられ、金色の観世音菩薩を祀る池の寺として繁栄したという。応仁の乱で廃墟と化したが、奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音像は草堂に移され、1830(文政十三)年に舜乗律師により復興された。現在の伽藍は広沢池のおよそ200メートル南、右京区嵯峨広沢西裏町にある。ところで観音島だが、十一面千手観音像が静かに立っている。金色のそれではなく無彩色の石造で、高さはおよそ160センチ、安山岩製である。頭上には十一面の化仏を表し、千手脇手を持った丸彫りの石仏である。宇都宮市の大谷寺にある千手観音のように、岩山に仏像を刻む磨崖仏ならともかく、丸彫りの石造ゆえに脇手を伸ばすことが不可能のようだ。遠目には何やら荷を背負っていると錯覚しそうな姿であるが、空中の千手を想像するのも一興であろう。背面には「願主本国伊勢生武州江戸住家家次〔花押〕寛永十八年月日造立之・作但称〔花押〕」とある。願主、樋口平太夫は、五智山蓮華寺の寺伝によると「豊臣家の家臣で、大阪落城後は同士とともに海外に雄飛したが、罪科に問われ同士は悉く斬られて、彼だけは死を免れた。その後江戸の材木商として財を為したが、日夜安堵に得ず、亡き同士一族の冥福を祈るため諸国遍路の旅に出る。1635(寛永十二)年入洛し、鳴滝音羽山にあった蓮華寺の荒廃を知るや再興を発願、六年の歳月をかけて寺院、石仏群を完成した」という。

金剛夜叉明王像(因幡薬師平等寺)
その五智山蓮華寺の境内には薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦の五如来石仏がある。これは樋口平太夫が木喰僧坦称上人に彫刻を依頼したものである。音戸山山頂に安置されていたが、戦後、現在の場所に移動したという。ところで広沢池の十一面千手観音像はその銘から推測できるように、蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつで、明治以降に借り出されという。寺には借用状が保存されているという。要するに観音島に観音像が欲しい、ということだったのだろう。それでは他の四体はどうしたのだろうか。佐野精一著『京の石仏』(サンブライト出版1978年)を読んで、二仏は下京区不明門通松原上る、通称因幡薬師の平等寺本堂の西に安置されてることを知った。毘沙門天と金剛夜叉明王で、以上の三仏は早くから分かっていたという。そして残る二仏を発見したのは、1975(昭和五十)年秋のことで、山科区御陵大岩の本圀寺にあったという。山積みの石材の中に、十一面観音と勢至菩薩像があることに気づき、背面には例の銘があったという。ぜひ一度訪問してお目にかかりたいが、何しろ1970年代に出版された古書なので、現在どうなっているかは不明である。

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