2019年8月9日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その3)

Diane Arbus by Doon Arbus, Aperture, First Edition edition, 1972
ダイアン・アーバス
奇妙なことにファインダーグラスをのぞいている時は恐いと思ったことは一度もないのです。銃を持った人が近づいてきても、ファインダーをのぞいている限り、自分が弱い存在であることなど考えもしないのです。
濱谷浩
その日の正午私は高田の市川さんの家でラジオを聞き、日本降伏を知った。私は善通寺の裏二階に駆け戻り、カメラを取り出し、本堂の前に飛びだして、真天井の太陽に向かってシャッターを切った。
アンドレ・ケルテス
写真が私の人生に影響を与えたのではなく、私の人生が写真に反映しているのだ。写真は私自身を表現する道具となった。絵画や版画や執筆以上のものがあったのだ。はじめたばかりの頃は、写真は自分自身に対する語りかけだった。
マヌエル・アルバレス・ブラボ
写真を撮っている時には、その写真のタイトルのことは頭にない。撮影の最中は、観念でなくイメージを追求しているのだから、タイトルを考えるというのはおかしなことだ。
ハリー・キャラハン
写真は重要な意味を持っているので、他の気晴らしなど余りやらない。と言っても私は行うことすべての理由を理性的に把握してわけではない。それはつまり自分が明日何をしているだろうかと考えた時の答えが分っているということだ。私は写真を撮っているだろう。
ヘルムート・ニュートン
私が欲しいのは、いかなる点でも安手の雑誌を想起させないようなモデルだ。その人ならではの特性を持った、生身の存在としての女性を望んでいる。そんな女性は完璧に整った体に及ばないかもしれない。
マン・レイ
「どんなカメラを使うのですか」と尋ねられると、「どんな絵の具と絵筆を使うのか画家に尋ねますか。どんなタイプライターを使うのか作家に尋ねますか」と答える。
エルンスト・ヘロ
映像を保持していながらそれをいまだに提示していない板の上に現れている事物が残したこのポートレイトは、魂が受け取った漠たる印象に、他者にも魂自身にもその事物をはっきりとは示さない印象に、驚くほど似てはいないか?
ケネス・ジョセフソン
ある写真を撮る必要に迫られたとしたら、私は何であれ手近なカメラを、すぐさま手にするだろう。ところが、ある種の絵柄については、ある種のカメラのほうがより適切だとはっきり言えるのだ。
浜田優
絵画における主体の表象行為が、経験的直観による継起的な手の作業であるのに対して、写真の場合、主体の役割は構図を決めてピントを絞ったところで終っていると言っていい。シャッターを切ることは、いわば我にかえるための、空虚な行為なのだ。
藤田省三
通常の写真家は完全に透明人間化することを恐れ且つ避けて何とかして自己を表現しようと工夫を凝らす。角度をつけたり、わざと暈かしたり、色をつけたり、褪色させたり、光と陰の対照を極端にしたり、して自分の眼の審美的特徴を誇示しようとする。
デュアン・マイケルズ
写真のメカニズムに関することが、写真制作のしかたに入り込むべきではない。写真を撮るという行為がそんな厄介なことであってはならないのだ。そうでないと作ることから楽しみが奪われてしまう。
ジャン=クロード・ルマニー
彫刻家は光を活用するが、彼にとってそれは第一義的なものではなく、中心的なものではない。写真家にとっては、光こそが肝心なのであり、本源的な素材は光なのである--だが、この光は、さまざまな量感を開示して見せ、量感によって調子を変える。
アラン・セイヤ
写真はどんなイマージュをもその自然の支持体から取り出し、かつ自分自身の支持体の重荷を打ち捨てて他のどんな出現圏にも、スクリーンとなるどんな表面にも備給し、それを占拠するというあの二重の性向を備えているのである。
ジョアオ・シルバ
見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。
ウィリアム・アレン
美しく、悲しみに満ちたこの少女のまなざしは、私たちの魂に訴える。果たして少女は生き延びたのだろうか? この写真を撮った写真家は何度も彼女を探したが、手がかりはなかった。少女の行方は永遠に分からないかもしれない。
E・O・ウィルソン
カメラは(火星の)クリュセ平原を、探査機の脚元から地平線までくまなく走査し、最大解像度1ミリ以下という精度でカラー映像を送ってきた。だが結果は失望すべきものだった。送られてきた風景には、どこにも植物群落らしきものは見えず、動物がレンズの前を横切ることもなかった。
パブロ・ピカソ
今日の絵画は少数者のためのファインスポーツである。しかるに写真は、かつて歌謡と舞踏において示されたのと同様の美的な力を、最も原始的な人々にさえ与えるのである。
アンリ・マティス
現在では機械的方法によって、瞬間的に写真乾板の上に、形象を固定せしめることができる。それは人間が能う限り描いたものよりも精密で正確な形象である。それゆえに、写真の誕生と共に、芸術における正確なる再現の必要が消滅した。
ドゥニ・ローシェ
モード写真が見せるさまざまな奇術の不透明さ、うわべの輝き、不変の部分--その衰弱した軍勢か? その生硬さ、メトロームの如きへつらいの身振りか? ここにあるのは、今でも我々を打ち負かし続ける純化作用、我々を憔悴させる日々のミルフィーユ、数々の命令の陰鬱なのか?
ルシアン・クレイグ
私は売春婦にモデルになってくれるよう頼んでみた。だが、売春婦に写真を撮っていいかどうか訊いてみるといい。彼女はこう答えるだろう。「あんた、私を何だと思ってんの」。これで一悶着起きた。
ヴォルフガング・ティルマンス
人々は僕が、表面的に身近なものを片っ端から写真に撮っているように言うけれど、それは違う。何回も繰り返し現れている主題というのがある。それは、自然や光や、様々な現象、観察、社会の中での「生」を考えることだと思う。
グレゴリー・コルベール
写真を撮っている間は、被写体となる動物が生息している世界に強く惹かれる。元々は人間も大自然の一部だった。だから、被写体をとても身近に感じる。ときには血縁関係があるくらいに見えるんだ。
ラルフ・ギブソン
写真のなかに三次元的な感じをどの程度出せるかで、私の表現したいことが影響を受け、またその写真がどのように知覚されるかかも変わってくることはわかっていた。だから、私は深いパースペクティブを捉えたかったのだ。
田沼武能
当時は写真の被写体に選ばれると皆大喜びでモデルになってくれました。一般の人で肖像権を言う人はいませんでした。写真は高価で自分で撮る機会が少なかったし、また、写真を悪用する人もいなかったからでしょう。
エディー・アダムス
後で分ったことだが、私がシャッターを切ったのは、ちょうど弾が発射されたときだった。そんなこと、あの瞬間には分からなかった。やつは相手の頭部を撃っていた。ベトコン兵が倒れ込み-ああいうのは見たことがない-血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。
セルジュ・ティスロン
シャッター・ボタンを押すという動作にとって、瞬間を停止させたいという欲望は本質的なものである。しかしこの動作の意味は、世界の絶えざる運動が私たち一人一人に否応なく惹き起こす並外れたフラストレーションと切り離して考えることはできない。
矢沢栄吉
写真ってカメラのために自分を用意しなきゃいけないじゃん。だけどマイク持ってロックしていれば、用意した自分じゃなくて本音の自分が出るものね。
松重美人
(原爆投下直後)「ひどいことをしやがったな」といいながら一枚、写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーが曇っていたのを、今でも脳裏のどこかに、はっきりと記憶している。一息ついて時間を見たら十時半だった。
アンドレ・ケルテス
ニューヨーク近代美術館の学芸員が言うところでは「性器があればポルノだが、性器がなければ芸術だ」。これがアメリカの歓迎の挨拶だった。最終的に私は同意した。あまりにも青二才だったのだ。
和辻哲郎
だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇大する写真には、この像(法華寺十一面観音像)の面影は伝えられないのである。
荒木経惟
要するにね、死ぬときにどんどんあれだね、子供になっていくんだよね。おっぱいとか言ったりしてね、どんどん赤ちゃんになっていくわけだな、どんどん、ね。どういう事かツーと『センチメンタルな旅』で胎児を撮っちゃったんだ、俺はね。
ウィージー
私はピカピカの真新しい1938年型のえび茶色のシェビイ・クーペを買った。それからプレスカードを取り、パトカーと全く同じ警察無線を私の車につける特別許可を署長からもらった。警察無線を持っている報道写真家は私ひとりだけだった。
ジョージ・ロジャー
いいつき合いだった。キャパの前ではずいぶん気後れしたが、それはキャパがスター写真家だったからだ。私はよちよち歩き始めたばかりだった。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

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