2019年8月8日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その2)

Edward Weston Nudes by Charis Wilson, Aperture, January 1, 1977
カリス・ウィルソン
エドワードも私も共通の友人、ギリシャ人のジェーン・ヴァルダの見方に対し、もっともだと思った。この世には三つの完全な形がある。それは舟の舳先であり、バイオリンであり、そして女性の体だと好んでいうのである。
ドゥニ・ローシュ
鯨たちの大きな灰色の背がいつまでも沖合で行き交っている--エイハブ船長の類は皆ずっと前に溺れ死んでしまったのだ。それはつまり、時として一枚の写真が、たった一枚の写真が「理性」を生じさせるということである。
椹木野衣
フルオートカメラを操る女子高校生の写真に素晴らしいスナップが偶然紛れ込んでいたり、単なる記録のつもりで手当たり次第撮影したもののなかに予想外の奇抜なショットが含まれていたり、ましてや事故でシャッターがおりてしまったところが意外に奇妙な効果をかもしていたりする。
池澤夏樹
ぼくは自分の写真の下手さ加減を糊塗するためにこういう大袈裟なことを言っているわけではない。下手は下手と認めた上で、なぜ人があれほど素直に写真は真を写すと信じているか、そこに関心があるのだ。
エリック・レナー
円形の穴は始まりです 出生のための原初的モチーフ、転換の場であり、象徴的に女性です。多くの古代文化の出現伝説は、先祖が最初に現れた神聖な原産地として、地球の穴か空の穴を指しています。
栗原広太
明治天皇は、どういうわけか、御写真を撮影することを御嫌いになった。随ってこれまで、正面から写真をおうつさせになったことがないと承っている。従来明治天皇の御真影として、官衙学校等に汎く下賜された御写真は、実は真実の御写真ではない。
エリオット・ポーター
アンセル・アダムズが何かを撮影するとき、彼はその対象をただちに白黒の画像として見る。だから白黒で撮影する。私はただちに色を持った画像として見る。
イモジェン・カニンガム
父は写真家を「やくざ」だと思っていたの、本当よ。「やくざな写真家になろうとしているのがわかっているのに、なぜ学校に行きたいんだ」と言ってました。ちゃんとした仕事だと思っていなかったのよ。
ローラ・ギルピン
確かにカルティエ=ブレッソンは並はずれています。けれど、もともと画家だったのですから。私は35ミリというのはアクセサリーだと思っています。大型カメラが復活の兆を見せているのは、面白いことですね。
マヌエル・アルパレス・ブラボ
視覚的芸術家のほうが、作家や哲学者よりも自由に哲学的な考えを伸ばせるように思う。鍛錬されたものではないが。写真というものは、目と心、両方を使って制作するのだ。
ウィン・バロック
写真家より画家、哲学者、科学者からより多くのものを学んだにもかかわらず、私は写真家以上のものになりたいと思ったことはない。なぜなら、写真というのはそういうもの--光のメディアだからだ。
若杉慧
写真のための旅ではなく、旅のついでに撮るのである。
リシュアン・ボジェル
重要な事件が起こったところからはどこからでも、写真、特電、記事が「ヴェ」に届き、我々の読者と全世界を結び付け、人の生活の広がりを「眼」に見せるであろう。
ロナール・E・ギャレラ
私は彼らを悩ませたいと思ってるわけではありません。私は有名人のありのままの姿をとらえてたいと思っているのです。自然でポーズをとってない姿を。これが私の言うパーパラッチ流のやり方というわけです。
パトリシア・ボズワーズ
ダイアンはアヴェドンの手法にひっかかるものを感じていた。彼のやり方はかならずしもフェアでないと思った。印画に修整を加えてぼかしたり誇張したりしているため、フィルムに写った有名人の顔が歪曲されることもあったのだ。
グイド・クノップ
海兵隊は上陸後四日間で、摺鉢山守備隊の日本軍をけちらし、山頂を占領した。ハロルド・G・シャイアー少尉率いる兵士40人は、山頂に大隊旗を立てた。硫黄島の真のヒーローたちが、星条旗に鉄の棒にくくりつけて地面に押し込んだのだ。
ローレンス・キーフ、デニス・インチ
写真がゆっくり侵食され朽ちていくのは、もしかしたら「無駄を間引きせよ」という天の声なのかもしれない。この厳しく必然的な剪定はたしかに枯れ枝を削除していく。ところが、この自然の剪定は気まぐれで、我々の価値観などにはお構いなしなのだ。
サーシャ・ストーン
我々は、写真によって、我々の時代の文化を描写する手段を持っている。ゆえに、写真に帰れ! 唯一の世界語、視覚による言葉に帰れ!
内野博子
バザンの写真論的な意義は、基本的には「写真画像の存在論」に集約されていると言えるだろう。この短い論考は、写真のメディウム的な特性と写真の受容経験との密接な関係を論じるものであり、その意味で写真の根本的な問題を扱うものである。
深川雅文
写真は、とうとうここまできた。そして、われわれもとうとうここまできた。生々しい現実からの乖離 -- ハイパーリアルへの離陸がそろそろ始まろうとしていたのである。
マイナー・ホワイト
私は写真家になれるでしょうか、そうきくと、スティーグリッツは「君は恋をしたことがあるかね」そう言った。「はい」と答えると、「なら写真家になれるだろうと」という言葉が返ってきた。
バーモント・ニューホール
近代美術館その他私が関わったあらゆる機関のおかげで様々な素晴らしい機会を与えられ、それによって写真を認めることに微力を割くことができる地位を与えられたことを、私は非常に誇りに思う。しかし、まだ始まったばかりなのだ。
ジョイス・テニソン・コーエン
言葉であれ絵画であれコラージュであれ彫刻であれ、そして写真であれ、自分史的な見解を示すことは現代女性作家のメイン・テーマになっている。それは自己を追求せざるをえない流れというものだろう。
金森敦子
その人は時計をちらりと見ると、時間がせまっているのかと聞いてきた。この辺りの石仏の写真を撮って歩いてるだけなので乗る列車は別に決めてないと答えると、少しは乾くだろうとヒーターのスイッチに手を伸ばした。
キャロル・ダンカン
ヌードは、他のテーマよりも、芸術が男性のエロティックなエネルギーに起源を持ち、そこに支えられている、ということを証明しえた。時代の「種子=精子」となる作品の多くが、ヌードであることの理由である。
鈴木和成
写真のクールさは感覚的にも確かめられる。試みに何冊も写真集を長い時間をかけて眺めてみれば、このクールさを存分に味わうことができる。これは画集では決して体験することができない特殊なクールさである。
開高健
どうして巨大魚かだって? そりゃ写真のためだよ。大きな魚ほど写真の見栄えが良い。だからだんだん大物釣りになってしまったんだよ。
福原信三
それにしても現在使っているカメラでは、自分がその時に感じた印象とは、似ても似つかないものがいつもできる。考えているうちにレンズの角度が、自分の眼の角度と合わないことに気づいた。
木村伊兵衛
カルティエ=ブレッソンのマチスその他の報道写真を突きつけられたときは、ぞっとしてすっかりまいってしまった。俺はこれを忘れていたのだ、どうしても写真の行くべき道はここにあるのだ。
フランシス・ウェイ
アカデミー派の画家や批評家たちの眼には、誰が最も罪ある者として映っているのであろう。誰が現代美術の革命家で、情け無用の水平主義者なのであろうか。写真である。
清水穣
私を空にしていけば、あるがままの世界が立ち現れるというのではない。写真の「リアル」とは、私と、私が想定している「あるがままの世界」の両方を消去してしまうのであり、この消去そのものなのだ。
ジョン・モリス
日本人もまた真珠湾攻撃によって不具にされた人の写真を見せられることはなかった。彼らが見せられたのは、上空から撮影された壮大な勝利の光景だったのである。ちょうど我々の側が国民にヒロシマ上空の美しいキノコ雲の写真しか見せなかったと同じように。
湯川豊
僕たちは南相木川の上流にいた。渓流を歩く植村(直己)の写真をとるためだった。撮影が終ったあと、僕はフライ・ロッドを手にして上流に向って歩きだした。彼が20メートルほど離れて後についてきた。
大島洋
カメラを手にして写真を撮っているときにはほとんど何も考えない。私がそう言うと、たいがい「ウソをつくな」というような返事が返ってくる。グジャグジャといろいろ考えめぐらせて撮っているに決まっている、というのである。
上野俊哉
写真が浮上しつつある。いや正確に言うとそうではない。浮上しつうあるのは写真についての言説であって写真そのものではない。
森村泰昌
世の中にステキな写真というものは確実に存在するのではないだろうか。ではなぜそれがステキに感じられたのか。「なんとなくステキだと思ってしまった」というのがほんとうのところだと思う。

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