2019年8月10日

写真に纏わる言の葉を集めてみた(その4)

Slightly Out of Focus by Robert Capa, New Ed edition, June 12, 2001
ロバート・キャパ
怪我をしたり、殺されたりしている場面ぬきで、ただのんびりと飛行場のまわりで坐っているだけの写真では、人々に、真実とへだたった印象を与えるだろう。死んだり、傷ついたりした場面こそ、戦争の事実を人々訴えるものである。
ボブ・ディラン
バリー・フェインステインの写真はとても好きだった。ロバート・フランクの写真を思い起こさせるね。両者に共通する荒涼とした雰囲気がね。言うまでもなく題材のせいだったけどね。バリーが写真を撮るときのアングルが好きだったな…光と影、そういったことがね。
片岡義男
女性たち、特に若くて美しい女性たちは、そのようなデザイン行為にとって、おそらくもっとも使いやすい素材なのではないだろうか。若く美しい女性がにっこり微笑している顔の写真は、ほとんどあらゆる商品の広告に使えるからだ。
ウィリアム・アルバート・アラート
大切なのは時間をかけて撮影の対象となる人々と親しくなること。言葉や身振り、声の調子を通じて、自分が信頼に値する人間であることを人々に訴える必要がある。それができなければ、目撃者になることも、その場に居合わせることもできない。
林容子
実在する被写体をできるだけ明瞭に、美しく撮るための適正なピントの調整、露出時間やアングルのなどではない。写真家ならぬ写真アーティストが写真を使って表現しようとしているのはコンセプトという目に見えない被写体だからだ。
ジュリアーノ・サルガド
父(セバスチャン)との最初の思い出は、酢酸のにおいのする暗室で現像し、写真が像を結んでいくのを見ていたことを覚えています。家族みんなで彼の仕事を分かち合いましたし、彼も家族をとても愛していましたが、いつも不在がちでしたね。
高橋周平
おそらくX線写真ほど実用的なものはないだろう。しかしあまりに実用的すぎるためか、誰も写真と思っていない節がある。
パティ・スミス
もしこれが映画なら、振り返ればそこにいる。露出計を合わせ、長い腕を震わせ、シャッターを切ろうとしている彼(ロバート・メイプルソープ)が。その直前「いいねぇ」というような眼差しを、私に向ける彼が。そしてすべては、写真の厳粛な静粛の中に溶けてゆく。
上野千鶴子
カメラのアングルを全部入れ替えて女性視点にして、男性の顔をアップに写したりというふうな形で撮りなおしたとして、それで女性が同じように興奮するだろうかと考えてみます。興奮するかもしれないけれど、でも、少しちがうのではないのかな、という気がするのです。
梅宮典子
人類は長い時間をかけて欲望を現実化してきた。周囲に集められた事物にはずっしりと重く欲望が付加されている。もう画面に人は必要ない。ファインダーをどこに向けても、どの断面を切り取っても、そこには人間が投影されているのだから。
エド・ファン・デア・エルスケン
我々の時代の非人間性を表現し提示し、来るべき世界のビジョンをカメラの目の中に、そしてプリントのマチエールの中に保持しておくことは、大型か小型かの愛すべきお喋りや、デーライトフラッシュや他の黄金律などより遥かに重要である。
辻惟雄
もともと中国の画論からきた概念であるが、中国では花鳥を対象とする「写生」と、 道釈人物を対象とするこの「写真」という言葉が使い分けられていたものであったが、 日本ではどちらの言葉も山水花鳥人物のいずれにも用いられてきた。
ウィリアム・J・ミッチェル
画像も、食刻法で画像を作ってから刷るエッチング、ネガを露光させ、現像してからプリントする写真、そしてまず画像をコード化し、それから表示するデジタル画などのように、2つの段階を経て作られるものが多い。
林宏樹
基本的に自分が人間であるから、裸の写真というより、裸体の持つ「肉体の美しさ」や「形」に、花の写真、風景写真などと同様に美の対象としての興味がある。それゆえ女性だけではなく、男性の持つ逞しい肉体の美しさも撮っている。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
望遠レンズ附きの写真機が、ここ(偵察機)では顕微鏡の役に立つ。人間ではなくて、人間の存在を示す道路や、運河や、列車や、艀船を捕捉するにさえ顕微鏡が必要なのだ。
奈良原一高
ドキュメントから出発してドキュメントに帰ってゆくのが写真の世界でもあるのだと私は思ってます。だが対象への攻めの姿勢いかんによってアクチュアル・ドキュメントを生むことが出来るのではないかと思っているのです。
フォックス・タルボット
写真家は、その撮影時に、少しも気がつかなかった多くのものを表現しているということを、おそらくずっと後になって、写真を調べてみて、発見することがしばしばある。そしてこれは写真の魅力の一つである。
スーザン・バック=モース
原理主義は、バイブルであれコーランであれ、テクストに頼り、世界を意図をもった運命として解釈する。このような解釈は、写真の物質的な痕跡を排除する。写真の意味は、大いなることばによるあらかじめの決定を乗り越えてしまう。
寺山修司
皆で写真を撮りあって遊んだ。全員で七人。皆が撮り皆が撮られることにすると、六人が並んでいる写真が七枚できることになる。写っていないひとりがつまりその写真の撮影者というわけになるわけだ。
カリン・セケッシー
生と死のあいだ、としての写真。写真は常に死を意識させる、という言い回しではなく。まだ、ともかく、ここにある、ということに対しての<生>の証拠。<あいだ>を遅延させること。
鈴木志郎康
写真を撮るというとき、一方では自分の内的な動機にこだわり、また一方では光学的な空間の把握ということにこだわっている自分がいるのがわかる。これを統一的に解釈するということが、問題としては考えられるが、私はそんな面倒なことはしたくない。
福原信三
写真の光律は、音楽のようにつぎつぎに時間的に奏でられる訳にはいかない。すなわち空間的に動くものである。それをわけもなく捕え得るということが写真術最大の長所で、時々刻々変わる光律の種々相を時々刻々撮影することができる訳だ。
エドワード・ウェストン
微妙な諧調の豊かな写真でありながら、写真としては少しも面白くないものをたくさん見ているし、また反対に、諧調は全体の画面の比較的小部分に限られていながら、本当の写真美を持っているものを見ている。
南正人
駅の人ごみを見た時、みなさんは「人がたくさん居る」と思うだろう。いっぽう、自分の卒業アルバムを見た時、みなさんの頭の中にはたくさんの友人の名前とともに、ひとりひとりの性格やいろいろな思い出が湧き出てくるだろう。この違いはどこにあるのだろう。
日高敏隆
カタクリの花にとまってみつを吸っているギフチョウの姿はとてもかわいらしく、その写真はすばらしく美しい。けれど、飛んでいるギフチョウは、ただせわしく飛ぶ蝶とみえるだけで、写真から想像する「春の女神」の優美さはない。
アイリーン・美緒子・スミス
ユージンは"integrity"(清廉潔白であること)とそれを守るための頑固さをもっとも大切にしていました。ユージンが主張するこの信念を尊重するために、私は著作権者として(入浴する智子と母)の写真を今後発表しないと決断したのです。
植田正治
モノクロームの世界こそが、自分の住むところと信じ切って、それ以外に写真は考えられないといっても過言でないぐらいに、今だに、それを主力に、ひたすら自分を賭けている毎日なのです。
オリバー・ウェンデル・ホームズ
美術家が描き落としたり、不完全に描いたりしたものを、写真は限りなく細心に注意し、そしてその映像は完全にする。たたかれて皮の黒くなった痕のない絵などは、なんてつまらないのだろう。
田中長徳
普通のクローム仕上げのM3を使っていれば、50歳過ぎのオヤジのそこそこの趣味に見られるのに、すぐにブラックペイントのM3なんかを持ち出して、ライカで「武装」しようとする悪い癖がある。
アンセル・アダムズ
ゾーンシステムは科学的なコミュティでは広く認められていません。理由は、科学者たちが、正確な物理量の実験室規格と異なるとして、イマジネーションによる形なき品質に関わるこの種の写真に関心を持たないからです。
モホリ・ナジ
写真的処理の本質的な道具はカメラではなくて、感光膜層である。そして特に写真的な法則と方法は、あらゆる材料によって、影響されて--材料の性質の明暗祖密に従って--起こる光線の効果に対する感光膜層の反応から生まれ出るのである。
ジュディス・ゴールデン
私の作品には理想化されたシンボルや仮面や幻想や現実が現れます。自我と社会と、社会が期待する役割を探っていくうち、この個人的作品が現代アメリカ文化によって形成された女性に共通する側面を写しているのではないかと思うようになりました。
レニ・リーフェンシュタール
私は女たちから身を振りほどくとラコバの反対側へ走って行ったが、そこで私に気づかず、ある少女がちょうど彼女が選んだ男性の前で踊っているところであった。興奮に震える手で露出と距離を合わせると、カシャカシャ撮り続けた。
C・A・マッキノン
ポルノグラフィはポルノグラフィ援護者の言うように、ただの人間の作る出した物、ただのシンボルではないのだ。ポルノグラフィを止めることは不可能に近いが、同時に、自由と平等を現実のものとするにはポルノグラフィを阻止することは必要不可欠のことなのである。
インカ・G・インゲルマン
1990年代、写真は最終的に芸術表現として確立していたが、同時にこの写真メディアは、デジタル化とコンピュータによる画像処理能力によって、発明以来最大の変化を遂げてきた。その変化とともに、根本的なパラダイム変換が起こっている。
安井仲治
ああ小生もいいオッサンになりにける哉です。しかし写真そのものは、だんだん若くなって来ます。旗こそ立てぬシュールのエスプリも吸収してゐる積り。ややホルモンの効きすぎかも知りませんが、凡百の未完成のハン濫を冷眼して「俺が」と思っていゐる点正に雅気満点に候はずや。

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