2018年11月19日

上七軒のお茶屋「吉田家」の切ない思い出

勝恵美(北野天満宮)1995年4月

第67回北野をどり(クリックで拡大)
上七軒の「茶ろん」にふらりと立ち寄った。歌舞練場の中庭に面する一角に喫茶室として佇んでいる。上七軒は北野天満宮の東側に軒を並べる小さな花街だが、懐かしくも切ない思い出がある。京都には祇園甲部、先斗町、上七軒、宮川町、祇園東の五つの花街があるが、このうち歴史的に一番古いのが上七軒である。かれこれ35年も前になるだろうか。こじんまりしたたたずまいに惹かれた私は、大正時代、同じ舞妓同士だった仲の祇園甲部の女将に紹介してもらい、上七軒のお茶屋「吉田家(よしだや)」に通うようになった。その当時は「おっきいおかあさん」こと大女将の吉田悦子さん、そして「ちっちゃいおかあさん」こと娘の泰子(ひろこ)さんが切り盛りをしていた。上七軒は戦後舞妓が途絶えたが、泰子さんがその復活一番バッターになった。舞妓を卒業したあと、東京新橋の「金田中」に修行に出た。新橋演舞場のすぐ横にあるが、佐藤栄作元首相がここで倒れて有名になった料亭である。大女将の悦子さん自身も昔は舞妓だったが「ウチは舞妓極道どす」というくらい舞妓好きであった。

福鶴と勝喜代さん(1997年4月)
そして待望の舞妓を生み出したのである。それが勝悠喜(かつゆき)さんだった。泰子さんには子どもがなく、この勝悠喜さんを養女にして、将来の女将にするつもりだったようだ。しかしそれは夢のまま終わることになる。2001年の春ごろ吉田家は店仕舞いをした。泰子さんの健康状態が悪化したためだった。その前年の12月、私は「イスタンブル素描」という個展を開いたが、唯ひとりプリントを購入してくれたのが彼女だった。翌秋になって泰子さんは他界した。脳腫瘍だった。数年後、母親の悦子さんもこの世を去った。そして祇園、先斗町、上七軒と流転した、私のお茶屋遊びに終止符が打たれたのである。吉田家は医師・藤村直樹さんの斡旋で売却され、現在は豆腐料理店になっているが、お茶屋の趣はそのまま残っている。ふたりを看取っ藤村直樹さんもこの世にいない。亡き人といえば、勝喜代(かつきよ)姐さんも懐かしい。80歳代後半に至るまで踊り続けた、京都では最高齢の現役芸妓だったが、2016年に他界した。来年3月25日から「北野をどり」が始まる。鬼に笑われそうだが、観覧しようかなと思っている。

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