2015年1月30日

要趁著農曆春節來京都走走的粉絲們

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あっという間に2月がやってくる。図はフェイスブックの台湾向け京都観光案内ページ "Visit Kyoto Tw" に掲載された2月のカレンダーである。中国語は不案内だが、表題を訳せば「京都ファンが中国の旧正月を利用するには」いったところだろうか。2月といえば節分祭だが、各寺社であるので何処にお参りしたら良いのか迷ってしまう。吉田神社で2月2日夜に執り行われる追儺式(ついなしき)、俗にいう「鬼やらい」を観たことがあるが、狭い境内にびっくりするような参詣客。行ってみたい気持ちはあるのだが、ちょっと躊躇ってしまう。それはともかく昨年来、海外からの観光客の増加を肌で感ずる。アジアからが多いが、欧米からのバックパッカーが目立つのが特長だ。ザックを背に旅行した、若かりし自分とイメージがダブる今日この頃である。

京都観光NAVI  京都2015年2月のイベント情報(日本語)

2015年1月27日

近代科学を切り拓いたムスリム学者アルハゼン

エジプトのカイロでカメラオブスクラを操作するイブン・アル=ハイサム(アルハゼン)

イスラームいう言葉に接すると、日本人は何を連想するだろうか。産油国の為政者の豪奢絢爛な暮らしぶりだろうか。それとも左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される、宗教的攻撃性だろうか。イスラームの結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。そしてそれをいわば激怒と共に激増させたのが、やはり最近起きた過激派原理主義集団IS(イスラーム国)による日本人人質事件だろう。この事件によってイスラームの名は大きく浸透したが、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。下の写真はイラク中央銀行が2003年に発行した10000ディナール紙幣で、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haitham 965-1038)の肖像が描かれている。ヨーロッパ諸国でアルハゼン(Alhazen)と呼ばれていたため、この名が広く世界に浸透しているようだ。日本では数学の円周角「アルハゼンの定理」を思い出す人がいるかもしれない。


イラクのバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出した。かなり正確な眼球の構造を記していて、現在も伝わっている眼球内部の部分の名前は彼の命名したものによる処が多いという。実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、特に光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。

眼球の構造(イブン・アル=ハイサム)

このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関する90冊もの本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行ったのである。少なくとも10~11世において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

2015年1月24日

墓標なしで葬られたサウジアラビアのアブドラ国王

アブドラ前国王が埋葬された場所の周囲に集まった人たち ©AFP/MOHAMMED MASHHUR

昨日の23日、同日未明に死去したサウジアラビアのアブドラ(アブドラ・ビン・アブドルアジズ)前国王の葬儀が、首都リヤドのイマーム・トルキー・ビン・アブドッラー・モスクで執り行われた。AFP通信日本語版によると、葬儀にはトルコのレジェプ・タイップ・エルドアン大統領や、パキスタンのナワズ・シャリフ首相のほか、スーダン、エチオピア、湾岸諸国の首脳が参列し、アブドラ国王の異母弟で、王位を継承したサルマン新国王とともに祈りをささげた。遺体は葬儀の後すぐに近隣の公共墓地に運ばれ、2005年に死去したファハド国王と同様にサウジアラビアの厳格なイスラームの伝統に従い墓標なしで埋葬されたそうだ。過激派組織IS(イスラーム国)による日本人人質事件が起きたせいか、日本の報道機関は葬儀の様子を詳報しなかったようだ。写真は前国王が埋葬された場所を囲んだ会葬者の様子で、様々なサイトに掲載されたようだが、アメリカのNBCニュースは「宮殿に住んでいたサウジのアブドラ国王が無銘の墓に葬られた」という見出しを付けて報じた。クルアーン(コーラン)によれば墓を華美にかざりたてることは禁じられている。しかし廟建築が、その矛盾を含みながら各地で発展したのは興味深い。預言者ムハンマドの教友にエユップという聖者がいたのだが、彼を祀った廟がイスタンブルにあり、訪ねたことがある。タイル貼りの立派な廟だった。インドのタージ・マハル廟はさらに華美、一口にイスラームと言っても地域いによる多様性があるようだ。フランスの風刺新聞シャルリー・エブド紙編集部襲撃、ISの日本人人質事件と続いたが、私たち日本人の多くにイスラームについての知識が欠如していると言えるかもしれない。もしこの葬儀が意外なら、その典型的な例だろう。

YouTube  Saudi Elite gathers for funeral of King Abdullah(アブドラ国王の葬儀)

2015年1月18日

シャルリー・エブド紙襲撃事件と表現の自由

預言者ムハンマドの出生地マッカ(メッカ)のカーバ神殿 (Islam Explorer)

フランスの風刺新聞シャルリー・エブド紙襲撃テロは、改めて表現の自由について考えさせられた事件であった。ここでイスラームと「教」を付けないのは、教えそのものがイスラームであり、重ねて「教」を付けるのは屋上屋を架す感が強いからである。事件後「私はシャルリー」というスローガンを掲げた大規模なデモがあったが、シャルリー・エブドの論調に反対であっても、シャルリー・エブドの表現の自由がテロに屈してはならないという意志表明であったようだ。これはヴォルテール(1694-1778)の有名な言葉「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を踏襲したものだろう。エリザベート・バダンテール女史はジュルナル・デュ・ディマンシュ紙(JDD)のインタビューに応えて「2007年のムハンマドの諷刺画の裁判のときには、シャルリー・エブドはイスラモフォビアすれすれで、表現の自由を悪用しているというものもいました。でもここで再確認する必要があるのですが、思想に関する限り、表現の自由にはまったく制限がありません」と断言している。ここに私はフランスの啓蒙思想の潮流を垣間見るような気がする。
表現の自由は思想としてその権利があるということなのだろう。しかしイスラームとは元々「帰依する」という意味で、アッラーに絶対帰依し、その教えに従って生きること。すなわちライフスタイルなのだが、表現の自由を基にその点を揶揄していいのかという疑問は残る。襲撃事件で犠牲となった警察官アフメド・メラベさんに関するツイートが興味深い。「私はシャルリーではなくアフメド、死んだ警察官だ。シャルリーは私の信仰と文化を嘲笑、そうする彼の権利を守って死んだ」と。風刺画は英語でCartoonと言うが、要するに漫画である。時に痛烈な風刺はマスメディアに不可欠なもので、その表現の自由は守るべきである。しかし信仰と文化と生活様式を嘲笑することは慎重にすべきである。特に異教徒に対するそれは、新たな紛争の呼び水になるからだ。