2015年1月27日

近代科学を切り拓いたムスリム学者アルハゼン

エジプトのカイロでカメラオブスクラを操作するイブン・アル=ハイサム(アルハゼン)

イスラームいう言葉に接すると、日本人は何を連想するだろうか。産油国の為政者の豪奢絢爛な暮らしぶりだろうか。それとも左手に聖典クルアーン、右手に剣という比喩に代表される、宗教的攻撃性だろうか。イスラームの結束力は時空を超えて、アジアからアフリカに至るまで、繋がりを持っている。多くの人々がプラスのイメージを持たず、負のそれを抱いてるのではと想像する。そしてそれをいわば激怒と共に激増させたのが、やはり最近起きた過激派原理主義集団IS(イスラーム国)による日本人人質事件だろう。この事件によってイスラームの名は大きく浸透したが、その文化に対する認識は立ち遅れてるような気がしてならない。だから10世紀において、イスラーム圏の科学がヨーロッパより遥かに進んでいたという史実が、日本人の認識の中に欠落しているかもしれないのである。下の写真はイラク中央銀行が2003年に発行した10000ディナール紙幣で、史上最も偉大な科学者の一人であるイブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haitham 965-1038)の肖像が描かれている。ヨーロッパ諸国でアルハゼン(Alhazen)と呼ばれていたため、この名が広く世界に浸透しているようだ。日本では数学の円周角「アルハゼンの定理」を思い出す人がいるかもしれない。


イラクのバスラで生まれ、バグダードで科学を学んだ。アリストテレス、ユークリッド、アルキメデス、そしてプトレマイオスの業績を研究考察した。そして目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るというといった、彼らの視覚論を批判する。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出した。かなり正確な眼球の構造を記していて、現在も伝わっている眼球内部の部分の名前は彼の命名したものによる処が多いという。実験というメソッド使用することで科学へのアプローチを開発したのであるが、特に光学の分野での功績は大きい。ロジャー・ベーコン(1214-1294)からピエール・ド・フェルマー(1608-1665)までの中世ヨーロッパの科学者と数学者、そして天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に影響を及ぼしたのである。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いたのである。

眼球の構造(イブン・アル=ハイサム)

このことからは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目した。像の左右の入れ替わりに触れているが、像が倒立することには言及していない。エジプトのファーティマ朝の第6代カリフ・ハーキムによってカイロに招かれ、ナイル川の洪水を治める研究をするよう指示された。しかしそれが困難と知った彼は独裁者の逆鱗を買ったが、気が触れたと偽る。結局カリフが没するまで幽閉されてしまうが、最終的に釈放されバグダッドに戻る。死ぬまでに科学に関する90冊もの本を書いたと言われる。幽閉中に書かれた『光学宝典』は1572年に出版されたが、上記ケプラーを筆頭に、ルネ・デカルト(1596-1650)、クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695)、アイザック・ニュートン(1642-1727)などが更に光学を発展させて行ったのである。少なくとも10~11世において、イスラーム圏は科学の先進を走っていたのである。

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