2018年5月19日

ヘミングウェイ『武器よさらば』史実との乖離


新潮文庫2006年
この DVD はいつごろ購入したのだろうか、ワンコイン、500円だった。著作権が切れたため、このような安価な DVD が作られるようになったようだ。1932年に公開された、ゲイリー・クーパー、ヘレン・ヘイズ主演、フランク・ボーゼイジ監督作品のこの映画、メロメロなメロドラマに辟易して、途中で鑑賞を放棄したことを憶えている。思うところがあり、最近再び観たが、やはり最後までは付き合えなかった。野戦病院のセットなど、参考になったが、美男美女のハリウッド映画、またしてもついて行けなかった。転じて今度は原作を手にしてみた。大昔、読んだはずだが、いつだったか、そして内容もすっかり忘れていた。DVD の解説に「ヘミングウェイの自伝とも云われ」とある。一人称で書かれているので私もそう思っていたが、実は違うようだ。物語はカポレットの戦い、すなわち1917年10月24日から11月9日にかけて、イタリアのカポレット(現スロベニアのコバリード)で戦われた戦いを背景にしている。弱体化したオーストリア=ハンガリー帝国軍に対し、ドイツ帝国軍が援軍を派遣、イタリア軍が壮絶な敗走を余儀なくされた戦いだった。
ミラノには早朝到着し、貨物駅の構内で下ろされた。傷病兵搬送車でアメリカ赤十字病院まで運ばれた。搬送車の担架に横たわっていると、町のどの部分を通過しているかわからなかったけれども、最後に担架ごと下ろされたとき、市場とワイン・ショップが見えた。ワイン・ショップはすでに開店していて、若い娘が店の前を掃いていた。道路には水がまかれている最中で、早朝の匂いがした。担架を下ろしてくれた男たちが中に入り、門衛と一緒に出てきた。
アメリカ赤十字は、1917年の時点では傷病兵搬送車部隊をイタリアに派遣していなかったし、病院をミラノに開設していなかったという。従ってこの記述は史実と異なる。ヘミングウェイがイタリアに渡り、傷病兵搬送車要員として前線に配置されたのは、1918年6月だった。つまり『武器よさらば』以降であった。戦争体験はむしろ『日はまた昇る』と重なっている。ヘミングウェイは事実を報ずるジャーナリストでもあった。にも関わらず史実と乖離した記述をなぜしたのだろうか。自らの戦争体験を表現するには、カポレットの敗走こその主題に相応しいと考えたに違いない。つまりフィクションが、物事の真実を顕在化させる、と解釈すべきだろう。彼が描きかったのは、自分の体験ではなく、戦争の悲惨だったからに違いないからだ。読了後、続いてヘミングウェイの、まさに自伝的小説といえる『日はまた昇る』を手にした。これまたかつて少年時代に読んだのだが、再読によって新たな感動を覚えた。史実との乖離を犯して書かれることになる、フィクション『武器よさらば』の戦争体験昇華の秘密を、垣間見たような気がする。

2018年5月17日

音楽ディスク断捨離奇譚

書棚から CD や書籍は消えそうもない

Newsweek July 26, 2004
最近「3,500枚のCDを捨てた話」と題した興味深いブログ記事を読んだ。モノとしての音楽ディスクを捨てる、一種の断捨離なのだろう。なぜ捨てる決心をしたのだろうか。まず最新情報が届かない音楽雑誌を購読しなくなる。そして iPod の登場によってデジタルダウンロードへ移行し CD が脱落したという。さらに Spotify が上陸し、ストリーミングがメインになり「音楽を所有すること」「音楽を購入すること」をやめてしまったそうである。3,500枚の CD を所有した音楽愛好家の大胆な変身である。これを読んで、スティーブ・ジョブスを思い出した。オーディオマニアとして知られ、高価な装置を所有していたようだ。だから MP3 プレーヤーである iPod の音質に満足したとは思えない。にも関わらず、開発販売に踏み切ったのは、ヒット商品になるという予感があったからだろう。ジョブスは自分の子どもに、後に開発されたタブレットを触らせなかったという。つまり信条とビジネスを使い分けた人だった。それはともかく、今日の音楽ストリーミングの魁(さきがけ)が iPod であったことは間違いない。ところで私だが、ネットワーク・オーディオ・プレーヤーを持っているくらいだから、クラウド音源を無視しているわけではない。しかし CD や LP を断捨離する気にはなれない。音楽ディスクは単に聴くだけのものではない。ジャケットの写真やイラストは観るものであり、ライナーノーツは読むものであるからだ。特に LP 時代のジャケットは芸術作品に相応しいものが多々あった。解説書はアーティストや曲目の紹介、歌詞、録音データなど、資料としての価値がある。断捨離できない理由である。とはいえ当該ブログの内容を揶揄する気は毛頭ない。潔い見識にひたすら感心するばかりで、モノを所有することに拘る自分を情ないと痛感する。

2018年5月13日

スピーカー用インシュレーターの効果

オーディオテクニカ AT6099(左)とコーナン振動吸収材

オーディオテクニカ AT6099 衝撃振動減衰グラフ
メインのオーディオ装置のスピーカーの底面四隅にはホームセンターのコーナン振動吸収材を貼り付けてある。素材はブチルゴムで、天然ゴムの約半分の時間で振動吸収するという。最近パソコン用のスピーカーを買い替えたが、オーディオテクニカの防振インシュレーター AT6099 を購入してみた。6個一組3,000円弱、コーナン製のおよそ5~6倍もする。特長は防振ゴムと真鍮がサンドイッチになっていて、ハイブリッドの名を冠している。防振ゴムはハネナイトとソルボセインが併用されている。前者は「跳ねない」と語呂合わせしたネーミングなのだろうか。ブチルゴムと違って金属との強力な接着が可能だそうである。オーディオテクニカのウェブサイトによると、真鍮はサウンドチューニングに最適で「スピーカーにご使用の場合、一般的にスピーカー間の定位(ボーカルや楽器の位置)や奥行きはクリアーで明確な方向に向かいます(例外もあります)。通常に使用していた時に比べ、スピーカー間の距離を広めにとると効果的です」と説明している。では実際に使ってみてどうか。同サイトには衝撃振動減衰グラフ(左上)が掲載されている。一般ゴムと比べると振幅が小さく振動が素早く収まるのが分かる。しかし周波数特性の比較はない。計測したとしても、接続する機器によって差が出るので、公表できないのだろう。この点が議論を沸騰させる要因になっていると私は思う。購入したネット通販サイト AMAZON のカスタマーレビューには「低域から高域まできちんと聞こえるようになりました」といった具合の好意的な書き込みが多い。少しでもいい音をというマニアの願望がにじみ出ている。しかし「ほとんど音色の変化が解りません」といった感想、そしてさらに「オカルトグッズ」と切り捨てた酷評もあり、評価が真っ二つに割れている。私自身は低音が伸びたような気がするけど、そんな気がするだけかもしれない。重低音用のサブウーファーを外してもウッドベースの音がよく聴こえるようになった。スピーカーの慣らし運転(エイジング)が進み、性能が向上していることと関係しているのだろう。防振効果に限るなら、ホームセンターで売っている安価な振動吸収材と、余り変わらないのではないか。

2018年5月11日

空也上人の西院河原地蔵和讃が脳裡をよぎった

高山寺地蔵塚の小石仏(京都市右京区西院高山町)

高山寺山門
京都の高山寺といえば国宝「鳥獣人物戯画」で知られる、右京区梅ヶ畑栂尾にある寺院を連想する人が多いと思う。世界遺産に登録されている有名寺院だ。ところが阪急電鉄西院(さいいん)駅を降りた交差点の東北角にも同名の寺院がある。山門前の石柱には寺名の上に「旧跡西院(さい)之河原」と刻んである。かつて淳和天皇の離宮があり、皇居からみて西側にあったことから、この地域が西院と呼ばれるようになったという。西院は一般には「さいいん」と読むが、地元では「さい」と呼ぶ人が多いようだ。私には「いん」を省略したというより、語尾に小さく残しているように聴こえる。すぐ近くにある京福電鉄嵐山本線の西院駅は、ひらがな表記では、阪急と違って「さいいん」ではなく単に「さい」となっている。蛇足ながら市バスの停留所名は「西大路四条」と素っ気ない。

石柱の側面には「くろだにをはやたちいでてこうさんじさいのかわらをまもるみほとけ」という寺院の御詠歌が見える。これはむしろ「黒谷をはや立ち出でて高山寺の賽の河原を守る御仏」と漢字交じりにしたほうが分かり易いだろう。黒谷とは東山区にある浄土宗黒谷派の本山金戒光明寺のことである。ところで空也上人の「地蔵和讃」の西院河原(さいのかわら)すなわち賽の河原は、鴨川と桂川が合流する佐比の河原に由来すると言われている。淳和天皇の離宮近くに佐比大路があったことで関連づけられるようだ。少し言葉が錯綜してしまった。要するに「佐比の河原」から「西院の河原」そして「賽の河原」と派生したと考えられる。だからこれらは同音異字と言ってよいと思われる。佐比の河原は鳥辺野(とりべの)蓮台野(れんだいの)化野(あだしの)市原野(いちはらの)と同様、庶民の葬送の地、無常の地であった。
西院の河原に集まりて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり 悲しさ骨身を通すなり かのみどり子の所作として 河原の石を取り集め これにて廻向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んでは故郷の 兄弟我身と廻向して 昼は一人で遊べども 陽も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等はなにをする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が 苦患を受くる種となる 我を恨むることなかれ 黒鉄の棒を差し延べて 積みたる塔を押し崩す その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給ひつつ 汝等命短くて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土は程遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて 哀れみ給うぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲のみ肌に 抱き抱えて撫でさすり 哀れみ給うぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩(空也上人『西院河原地蔵和讃』)
丸彫りの石造地蔵菩薩像
山門をくぐると大きな石造地蔵菩薩像が目に飛び込んできた。丸彫りの花崗岩製で、高さは3メートルはありそうだ。右手が与願印、左手に宝珠を持つ古い形式で、江戸末期の造立と想像される。この地蔵尊は上述の御詠歌にある通り、明治三十五年(1902)本山の金戒光明寺から移されたものである。周囲に阿弥陀などの小石仏が取り囲み、まさに賽の河原の様相を伝えている。中世、庶民は墓を作ることを許されず、小さな石仏を彫って死者を弔ったのである。現在、夥しい数の小石仏をを奥嵯峨野の化野念仏寺に見ることができるが、そのミニチュア版がここにある。さらに本堂には本尊の恵心僧都源信作の地蔵菩薩が安置されている。子どもに恵まれなかった足利義政夫人の日野富子が祈願し、足利義尚を授かったという伝説が残っているという。貞観十三年(871)この地は庶民の葬送の地と定められた。後に庶民の葬送の地は七条に移されたが、15歳以下の子どもはやはり左比の河原に葬ることになっていた。子どもの葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたという。つまり石仏も彫られず、河原の石ころを積み上げて小塔を作り、死者の菩提を弔ったようだ。地蔵尊を見上げていると、空也上人の哀切に満ちた和讃が脳裡をよぎった。