2018年5月11日

空也上人の西院河原地蔵和讃が脳裡をよぎった

高山寺地蔵塚の小石仏(京都市右京区西院高山町)

高山寺山門
京都の高山寺といえば国宝「鳥獣人物戯画」で知られる、右京区梅ヶ畑栂尾にある寺院を連想する人が多いと思う。世界遺産に登録されている有名寺院だ。ところが阪急電鉄西院(さいいん)駅を降りた交差点の東北角にも同名の寺院がある。山門前の石柱には寺名の上に「旧跡西院(さい)之河原」と刻んである。かつて淳和天皇の離宮があり、皇居からみて西側にあったことから、この地域が西院と呼ばれるようになったという。西院は一般には「さいいん」と読むが、地元では「さい」と呼ぶ人が多いようだ。私には「いん」を省略したというより、語尾に小さく残しているように聴こえる。すぐ近くにある京福電鉄嵐山本線の西院駅は、ひらがな表記では、阪急と違って「さいいん」ではなく単に「さい」となっている。蛇足ながら市バスの停留所名は「西大路四条」と素っ気ない。

石柱の側面には「くろだにをはやたちいでてこうさんじさいのかわらをまもるみほとけ」という寺院の御詠歌が見える。これはむしろ「黒谷をはや立ち出でて高山寺の賽の河原を守る御仏」と漢字交じりにしたほうが分かり易いだろう。黒谷とは東山区にある浄土宗黒谷派の本山金戒光明寺のことである。ところで空也上人の「地蔵和讃」の西院河原(さいのかわら)すなわち賽の河原は、鴨川と桂川が合流する佐比の河原に由来すると言われている。淳和天皇の離宮近くに佐比大路があったことで関連づけられるようだ。少し言葉が錯綜してしまった。要するに「佐比の河原」から「西院の河原」そして「賽の河原」と派生したと考えられる。だからこれらは同音異字と言ってよいと思われる。佐比の河原は鳥辺野(とりべの)蓮台野(れんだいの)化野(あだしの)市原野(いちはらの)と同様、庶民の葬送の地、無常の地であった。
西院の河原に集まりて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり 悲しさ骨身を通すなり かのみどり子の所作として 河原の石を取り集め これにて廻向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んでは故郷の 兄弟我身と廻向して 昼は一人で遊べども 陽も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等はなにをする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が 苦患を受くる種となる 我を恨むることなかれ 黒鉄の棒を差し延べて 積みたる塔を押し崩す その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給ひつつ 汝等命短くて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土は程遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて 哀れみ給うぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲のみ肌に 抱き抱えて撫でさすり 哀れみ給うぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩(空也上人『西院河原地蔵和讃』)
丸彫りの石造地蔵菩薩像
山門をくぐると大きな石造地蔵菩薩像が目に飛び込んできた。丸彫りの花崗岩製で、高さは3メートルはありそうだ。右手が与願印、左手に宝珠を持つ古い形式で、江戸末期の造立と想像される。この地蔵尊は上述の御詠歌にある通り、明治三十五年(1902)本山の金戒光明寺から移されたものである。周囲に阿弥陀などの小石仏が取り囲み、まさに賽の河原の様相を伝えている。中世、庶民は墓を作ることを許されず、小さな石仏を彫って死者を弔ったのである。現在、夥しい数の小石仏をを奥嵯峨野の化野念仏寺に見ることができるが、そのミニチュア版がここにある。さらに本堂には本尊の恵心僧都源信作の地蔵菩薩が安置されている。子どもに恵まれなかった足利義政夫人の日野富子が祈願し、足利義尚を授かったという伝説が残っているという。貞観十三年(871)この地は庶民の葬送の地と定められた。後に庶民の葬送の地は七条に移されたが、15歳以下の子どもはやはり左比の河原に葬ることになっていた。子どもの葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたという。つまり石仏も彫られず、河原の石ころを積み上げて小塔を作り、死者の菩提を弔ったようだ。地蔵尊を見上げていると、空也上人の哀切に満ちた和讃が脳裡をよぎった。

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