2022年12月31日

イーロン・マスクの<変革>に翻弄されたツイッターの利用者たち

Elon Twitter

イーロン・マスクが買収したツイッターを巡って多くの利用者が翻弄されたが、私もその例外ではない。何しろ今年の11月と12月の2カ月の間で、当ブログで都合6回にわたって取り上げたのだから。

  1. 22/11/13 イーロン・マスクが買収したツイッター の前途に対する懸念
  2. 22/11/13 イーロン・マスクの Twitter 青バッジに赤信号
  3. 22/11/19 イーロン・マスクは自分自身を解雇すべきだ
  4. 22/12/17 イーロン・マスクのツイッターはもはやパーソナルメディア
  5. 22/12/20 イーロン・マスクはツイッターを手放すのだろうか
  6. 22/12/25 イーロン・マスクはツイッターの CEO の座を明け渡すだろうか

マスクはツイッターに対し目まぐるしい<変革>を頻繁に断行したが、最大の問題点は、停止されていたドナルドトランプ前大統領のアカウントを復活させたことである。さらに他の停止アカウントに対し「恩赦」をしたようだが、どのアカウントが復活されたのか、その総数を含め、恩赦の詳細は明らかになっていない。断行の根拠は「人々の声は神の声」を添えて投票を実施したことである。投票なら何でもアリというわけである。民間の調査団体 CCDH(デジタルヘイト対抗センター)は12月初旬、マスク氏の買収後、ヘイトスピーチが急増しているとする調査結果を発表した。マスクは買収後、ヘイトスピーチの減少を主張し、11月3日には下記のような「買収前の3分の1に減った」とグラフを添えてツイートしている。

Hate Speevh

しかし同団体はグラフの根拠となるデータが開示されておらず、検証できないとしている。前エントリ―「イーロン・マスクはツイッターの CEO の座を明け渡すだろうか」に書いたように利用者による投票、つまり「人々の声は神の声」で CEO に相応しくないとされた。後任が見つかれば CEO(最高経営責任者)を辞任すると表明したが、後任が見つからないのか、それとも敢えて探さないのだろうか。ツイッター社で働いていたこともあるという、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のサラ・ロバーツ准教授は NNN ロサンゼルス支局のインタビューに対し、マスクが行った自らの進退をかけた投票を「ただのパフォーマンス」だと切り捨てたという。閑話休題。というわけで、2022年最後のエントリーは、ツイッターの CEO イーロン・マスクの話題になってしまいました。それでは来年も当ブログの購読をよろしくお願いします。

NBC  Elon Musk's 'amnesty' pledge brings back QAnon, far-right Twitter accounts | NBC News

2022年12月25日

イーロン・マスクはツイッターの CEO の座を明け渡すだろうか

Cartoon of Elon Musk

ツイッターのイーロン・マスク CEO(最高経営責任者)は、後任が見つかれば辞任すると表明した。前エントリ―「イーロン・マスクはツイッターを手放すのだろうか」で紹介したように、将来の CEO は「倒産への道を突き進んできた会社を経営するのは、よほど苦痛が好きでなければならない」「ツイッターを存続させるスキルと能力を持つ人なら、おそらくその仕事を望まないだろう」と持論を展開している。マスクは買収当初から暫定的に CEO を務め、後任に引き継ぐ計画だったのかもしれない。ただ「誰もやりたがらない」と悲観的な見解を述べたわけである。言い換えれば、赤字のツイッターを立て直すのは自分にしかできない厄介な仕事であると。マスクは大量解雇を断行したが、これは「暴挙」ではないという見解もあるようだ。つまりツイッターは営業危機に陥ったわけではなく、赤字にいたった費用の多くは人件費であり、さらにコストへかなりの比率を占めたというのである。従って半分の従業員を解雇しても同等の収益を上げられれば、当然ながら利益もキャッシュフローも劇的に改善することになると言うのである。たしか、前 CEO のジャック・ドーシーは「会社の規模を急拡大し過ぎた」と述べていた。この点を踏まえてマスクは買収に乗り出したのではと推測される。

tweet
私はこの仕事を引き受けてくれる愚かな人を見つけ次第、CEOを辞任するつもりです。その後、私はソフトウェアとサーバーのチームを運営するだけです。

しかしマスク体制になってから、大手広告主が広告出稿を相次ぎ停止したため、経営の足枷になっていると思われる。仮に新しい CEO が見つかったとしても、筆頭株主はマスクであり、傀儡 CEO に過ぎないのではないだろうか。持ち株を売り払わない限り、ツイッターはマスクの「私物」のままなのである。ところでマスクの変革のポイントになったのが、認証バッジの新しい仕様である。サブスクリプションサービス「Twitter Blue(ツイッターブルー)」の再開にあわせ、日本でも首相官邸などの政府機関の公式アカウントのバッジの色を青から灰色に、任天堂などの企業は金色に変更された。ただ国会議員や著名人の青バッジは今のところ変更がない。米国やイギリスなどでは、月額定額の料金を支払えば誰でも青バッジをつけることができる。このシステムはいずれ日本でも導入されると思われるが、なりすまし防止のために生まれた青バッジだが、誰でもつけられるようになれば、ステータスの意味合いが消滅する。以上のようにツイッターは変革の真っ最中であり、果たしてツイート通り CEO の座を明け渡すだろうか。ニューヨークタイムズ紙は「マスクは後任が見つかれば辞任すると言っているが、実際にボスの座を退くかどうかは定かでない」と報じている。同感、私もそう思う。

Twitter  オピニオン | イーロン・マスク買収後のツイッターはどう変化したのか | 田中辰雄 計量経済学

2022年12月23日

写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド

Marlene Dietrich at the Recording Studio of Colombia Records, New York, 1952
Eve Arnold (1977)

写真家イヴ・アーノルドは1912年4月21日にペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれた。両親はロシア系ユダヤ人の移民で、ユダヤ教のラビであるウィリアム・コーエンとその妻ベッシーの9人の子どもの5番目だった。彼女が写真に興味を持ったのは、1946年、ニューヨークの写真仕上げ工場で働いていたときだったた。マンハッタンのニュースクール大学でハーパーズバザー誌のアートディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチから6週間余りかけて写真の技術を習得した。アーノルドは20世紀後半を象徴するような人物を被写体にしてきたが、同時に、社会から取り残された人々や恵まれない人々の生活も記録してきた。彼女にとって、非凡な人間も平凡な人間も分け隔てはなく、ただレンズの前にいるだけの人間だったのである。ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、ゴードン・パークス、アンリ・カルティエ=ブレッソンなどの探検的な写真家による印象的な写真で『ルック』や『ライフ』といった出版物が読者の関心を独占していた、まさにジャーナリスティック写真の黄金期だった。彼女は有名人の信頼を獲得し、その親密な瞬間を撮影した。この戦略によって、マリリン・モンローと独自の理解を深め、その写真はイブ・アーノルドの写真集に収録された。モンローの撮影を開始したのは1951年からだった。

Havana, Cuba, 1954
Bar girl in a brothel in the red light district, Havana, Cuba, 1954

モンローの最も印象的なイメージは、1961年の映画 "The Misfits"(邦題「荒馬と女」)の撮影現場でのものだ。2005年には、ロンドンのハルシオン・ギャラリーで、この女優の隠し撮り写真が展示された。モンローのほか、マルコムX、ジョーン・クロフォード、エリザベスⅡ世などの写真を撮影した。1960年代、息子のフランク・アーノルドとともに米国から英国に移住、サンデー・タイムズ紙の仕事をしながら、色彩を使った写真を撮り始めた。撮影のため、南アフリカ、アフガニスタン、ロシア、中国を訪れる。中国には2度訪れ、石油掘削業者、モンゴルの騎馬民族、共産主義者の役人などを撮影した。

Marilyn Monroe
Marilyn Monroe on the Nevada desert, filming "The Misfits", 1960

1980年にはブルックリン美術館で初の個展を開催し、写真集も出版された。同年、米国雑誌写真家協会は、イブ・アーノルドに生涯功労賞を授与。さらに2010年には、カンヌのソニー・ワール・フォトグラフィー・アワードでも賞を受賞している。1993年には英国王立写真協会から名誉フェローに、ニューヨークの国際写真センターからマスター・フォトグラファーに指名された。その4年後、国立メディア博物館は、アーノルドを西ヨークシャーの諮問委員に任命した。2003年には、その功績を称えられ、英国政府から大英帝国勲章を授与された。

Malcolm X
Malcolm X Collecting Money for the Black Muslims, Washington, D.C., 1960

また、スコットランドのセント・アンドリュース大学とスタッフォードシャー大学から、科学博士と文学博士の2つの名誉学位を授与された。アーノルドはいくつかの写真シリーズを制作した。例えば "Eve Arnold's People (2009)"(イヴ・アーノルドの5人の人々)"Handbook (2004)"(ハンドブック)"Film Journal (2002)"(フィルム・ジャーナル)"In Retrospect (1995)"(振り返ってみると)"The Great British (1991)"(偉大な英国人)"All in a Day's Work (1989)"(今日の仕事すべて)"An Appreciation (1987)"(鑑賞)"Marilyn For Ever (1987)"(永遠のマリリン)"In America (1983)"(アメリカにて)など。

Hydrotherapy for political prisoners
Hydrotherapy for political prisoners, psychiatric hospital, 1966

そして "In China (1980)"(中国にて)"Flashback: The 50's (1978)"(フラッシュバック:50年代)"The Unretouched Woman (1976)"(未修整の女)などである。長年、ロンドン中心部のメイフェアに住んでいたが、病気になり、老人ホームに移った。そしてこの頃、彼女はカメラを持つことができなくなり、レオ・トルストイ、トーマス・マン、フョードル・ドストエフスキーなどのの著書を読むようになったという。イヴ・アーノルドは2012年1月4日、100歳を目前に99歳でロンドンで死去した。

magnum  Eve Arnold (1912-2012) | Biography, Selected Works and Most Recent | Magnum Photos

2022年12月20日

イーロン・マスクはツイッターを手放すのだろうか

Twitter Poll Musk

前エントリー「イーロン・マスクのツイッターはもはやパーソナルメディア」でマスクが著名メディアの記者のツイッター・アカウントを凍結したと書いた。その舌が乾かないうちに、あっさり撤回、凍結を解除した。買収直後に解雇した従業員の一部を呼び戻すなど、朝令暮改の連続である。ゴタゴタ続きだが、その経営が危ぶまれる。ビジネスの天才で巨額の財産を保有しているが、どこかに危うさが潜んでいる。素人ながら推測すると、テスラの電気自動車は世間の批判を浴びていない。嫌なら買わなければ良いことだし、むしろ、地球環境に優しく好感が持てる。ところがツイッターは言論プラットフォームであり、経営者の思想いかんでは批判の対象になる。つまりモノを作ってうるのではなう、発言の場を提供するソーシャルメディアである。そのメディアの所有者が玩具のごとく弄べば批判されのは自明の理である。マスクは共和党支持を鮮明にしているが、そのようなプラットフォームに対し、民主党支持者および、その議員たちはどう思っているのだろうか。場合によっては大統領選に大きな影響を与えるし。ロナルド・トランプ前大統領のアカウントを復活したの問題であった。

そのイーロン・マスクが突然、ツイッター社の CEO(最高経営責任者)を退くべきかどうかをユーザーに問う利用者投票を提案した。「私はツイッターの責任者を辞めるべきでしょうか? 私はこの投票の結果に従う」とツイートしたのである。英語の abide とは、受け入れるという意味である。投票は月曜日に締め切られ、結果が出た。1,700万人以上の有権者のうち、57.5パーセントが「イエス」と答えた。この結果について、マスクはまだコメントを出していない。この2ヶ月間の彼の行動と決断により、多くのツイッターユーザーが辞めたり、辞めようと考えたりするようになった。マスクは自らを言論の自由の強力な支持者であると述べている。ツイッターを引き継いだとき、広く異なる意見を持つ人々が利用できるように努めたという。しかし CEO としての彼の最近の行動は、これらの約束に反しているという批判もある。18日に行われたユーザーとの音声交流機能「スペース」で、マスクはツイッターの新しい CEO を見つけるのは難しいという見解を示した。将来の CEO は「倒産への道を突き進んできた会社を経営するのは、よほど苦痛が好きでなければならない」「ツイッターを存続させるスキルと能力を持つ人なら、おそらくその仕事を望まないだろう」と持論を展開した。結果判明後も「引き続きツイッター改革に取り組む」と発言しているし CEO の座に留まる可能性も否定できない。440億ドル(約6兆4000億円)を費やして手に入れた籠の鳥、おいそれと逃がすとは思えないからだ。

asahi  ツイッター「CEO辞任」に沈黙守るイーロン・マスク氏 投票方法は「変更へ」(朝日新聞デジタル)

2022年12月17日

イーロン・マスクのツイッターはもはやパーソナルメディア

Elon Musk

イーロン・マスクが、著名メディアの記者達のツイッター・アカウントを凍結したという。TMZ によると、今年巨額でツイッターを買収した米電気自動車大手テスラの最高責任者であるマスクは、新たに手に入れた力を行使し、CNN のドニー・オサリヴァン、ワシントン・ポスト紙のドリュー・ハーウェル、マッシャブルのマット・バインダー、ニューヨーク・タイムズ紙のライアン・マック、ザ・インターセプトのミカ・リーなどを沈黙させようとしているという。これについてツイッターの信頼・安全部門責任者、エラ・アーウィンはロイター宛ての電子メールで「ジャーナリストのアカウントに焦点が当てられているが、ツイッターはジャーナリストとジャーナリストでない人々のアカウントに対し平等にポリシーを適用している」と述べたという。もっともらしい言い訳だが、これは言論の自由を騙った言論弾圧で、ジャーナリズムの否定である。国連のドゥジャリク事務総長報道官も16日、定例記者会見で、言論の自由に対する「危険な先例になる」と述べた。欧州連合(EU)も制裁の可能性に言及するなど、同社の対応に懸念が高まっている。時計の針を戻すと、マスク個人が株式の100%を買い取る形で10月27日にツイッター社の買収を完了したことを受けて、翌日から取り引きが停止されていた。

Just Elon

買収によってツイッター社は11月8日、ニューヨーク証券取引所への株式の上場が廃止となった。非上場の会社には、株主の意向に左右されない形で経営判断を迅速化できるメリットがある一方 CEO に就任したマスク氏への権力の一極集中がさらに進むことになったのである。想像するに、ツイッターは彼の頭の中では個人の持ち物、すなわち「私物」「玩具」となり、批判に対してはアカウントを凍結するという暴挙に出たのだろう。マスクは、ツイッター買収の理由に「言論の自由の絶対主義」を掲げ、投稿削除などの規制を緩和する方針を示してきた。その典型がロナルド・トランプ前大統領の凍結解除だった。大統領選の投票結果を認定する上下両院合同会議が開かれている連邦議会に侵入した自分の支持者たちに向けて「皆さんが大好きだ」などと投稿し、アカウントが凍結されていたが、これを翻したのである。トランプに対し「言論の自由」を認め、ジャーナリスに対しては認めないのである。ツイッターは言論の場としての役割を果してきたが、その公共性が失われ、ソーシャルメディアからパーソナルメディアに転落してしまった。政治情報のツイートがいよいよ危険になってきた。

CNN  Elon Musk bans several prominent journalists from Twitter | Oliver Darcy, CNN Business

2022年12月16日

没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真

Self-Portrait
Self-Portrait, New York, NY, October 18, 1953

ヴィヴィアン・マイヤーは1926年2月1日、ニューヨーク州ブロンクスでオーストリア人の父とフランス人の母の間に生まれた。シカゴ郊外で乳母や介護者として無名で暮らしながら、膨大な写真作品を発表し、死後2年近くたった2010年末、メディアを騒がせることになったアメリカのアマチュアのストリート写真家である。2007年にプリントされていないネガや未現像のフィルム、未編集の動画などが発見され、彼女の物語が公開され、人々を魅了した。幼少期の大半をフランスで過ごし、幼い頃から写真に興味を持ち始めたようだ。最初の写真は1940年代後半にフランスでコダックのブローニーカメラで撮影されたものである。1951年にアメリカに戻り、最初はニューヨークに住み、1956年にシカゴ近郊に移り住み、そこで生涯を終えた。シカゴ北部の郊外、ハイランドパークに住み、ゲンスバーグ家の乳母として働き始め、1970年代初めまで一緒に暮らした。

Grenoble, France
Grenoble, France, 1959

シカゴの街を歩き、写真を撮り始めたころには、二眼レフのローライフレックスを使っていた。30年以上にわたって、都市の人間風景を撮影してきた。被写体は、子供、貧しい人々、疎外された人々、高齢者などで、彼女について知っている人も知らない人もいる。またポートレートも数多く撮影している。1970年代初頭までは、モノクロのドキュメンタリーのスタイルで活動していたが、カラーに移行し、より抽象的なアプローチをとるようになった。彼女のことを語る資料には、矛盾した伝記もあるが、雇い主やその子供たちとのインタビューから、彼女がほとんど友人を持たない、強烈な孤高の人であったことは明らかである。彼女は自分の仕事を自分だけのものにすることを選んだ。何万点もの写真資料に加えて、マイヤーは生涯を通じて拾い物を集め、借りた2つの倉庫に非常に膨大な量の持ち物を保存していた。

New York, NY, 1954
New York, NY, 1954

これらの遺品は、彼女の伝記を再構築するために使用された。2007年、シカゴの不動産業者ジョン・マルーフは、未現像のロールフィルムとネガが入った箱をオークションハウスで400ドルで購入した。この箱は、不払いで売却された倉庫から回収された品物の一部としてオークションにかけられたものだった。倉庫の中身はいくつかに分けられていたため、マイアーの遺品は複数の買い手に売られた。特に3人のバイヤーがマイヤーの作品の大部分を集めました。マルーフは約10万枚のネガ、3,000枚以上のプリント、数百巻のフィルム、ホームムービー、インタビュー音声を、ジェフリー・ゴールドスタインは約1万9,000枚のネガ、1,000枚のプリント、30のホームムービー、いくつかのスライドを、ロン・スラッタリーは1,000巻以上のフィルムを、このオークションで入手したのだった。

Chicago, IL, December 1962
Chicago, IL, December 1962

このように彼女の資料が私物化されたことで、死後の作品の使用、利益、分析について、法的、学術的、倫理的な疑問が生じた。出版・展示されているマイヤーの作品のうち、作家自身が加工・プリントしたものがほぼ皆無であることを考えると、彼女の個人的な美意識や芸術的ビジョンがひとつの決定的な疑問となっているのである。マイヤーは、高度な眼力と鋭い写真センスを持っていたと評価されている。ロバート・フランク、ゲイリー・ウィノグランド、ダイアン・アーバスといった20世紀を代表する写真家たちと、彼女の作品を比較する批評家もいる。マルーフとゴールドスタインのコレクションの展覧会は、全米各都市をはじめ、カナダ、中国、ヨーロッパ諸国を巡回している。2008年、マイヤーはシカゴのダウンタウンで氷の上に転び、頭を打った。回復が期待されたが、体調は悪化し、2009年4月21日、膨大なアーカイブを残してこの世を去った。

aperture_bk Vivian Maier (1926–2009) | Portfolios | Books | Film | About | Faq's | Exhibitions & Events

2022年12月10日

アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド

Central Park Zoo, New York, 1967
Garry Winogrand 

ストリート写真で知られるゲイリー・ウィノグランドは、1928年1月14日、ニューヨークのユダヤ系が支配する労働者階級の地区ブロンクスで生まれた。母親はネクタイを作り、父親は皮革工場で働いていた。ニューヨーク市立大学で絵画を学び、コロンビア大学で絵画の技術を磨き、1948年に写真を学び始めた。3年後、マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにあるニュースクール大学に入り、アレクセイ・ブロドヴィッチのもとでフォトジャーナリズムを学んだ。1955年に MoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された "The Family Man"(人間家族)展でウィノグランドの写真が2点展示された。その4年後、ニューヨークのイメージギャラリーで初の個展を開催する。1963年、MoMAで開催された "Five Unrelated Photographers"(無関係な5人の写真家たち)に参加。この展覧会には、ケン・ヘイマン、ジェローム・リーブリング、ジョージ・クラウス、マイナー・ホワイトの名前も含まれていた。その後、1966年にニューヨーク州ロチェスターののジョージ・イーストマン・ハウスで、ダニー・ライオン、ブルース・デヴィッドソン、デュアン・ミハルス、リー・フリードランダーらとともに作品を発表した。展覧会の名称は "Toward a Social Landscape"(社会的風景に向けて)だった。1967年、フリードランダー、ダイアン・アーバスとともに、MoMA で開催された「ニュー・ドキュメンツ」展に参加した。

Los Angeles, 1964
Los Angeles, 1964

1964年、グッゲンハイム・フェローシップ賞を受賞し、アメリカ各地を撮影旅行した。そして「ニュー・ドキュメンツ」展に作品の一部が展示される。ジョン・ザルコフスキーのキュレーションによるもので、ザルコフスキーが近代美術館の写真部門のディレクターになると、ウィノグランドの写真作品のレビューと編集を担当するようになった。60年代には、ダイアン・アーバス、トッド・パパゲイジ、リー・フリーンランダー、ジョエル・マイヤーウィッツらとニューヨークの街角を撮影した。彼の写真は社会問題やメディアが態度を形成する方法を強調している。1969年、クーニーアイランドの水族館やブロンクス動物園の写真を含む初の写真集 "The Animals"(動物たち)を出版した。この写真集では動物と人間の関連性が描かれている。1969年、2度目のグッゲンハイム・フェローシップを受け、メディアが人々や出来事に与える影響を探求し続ける。

Cape Cod, 1966
Cape Cod, 1966

ゲイリー・ウィノグランドは、公共の場で700本のフィルムを使用し、6,500枚の写真プリントを撮影、1977年の写真集および展覧会 "Public Relations"(広報活動)に選ばれた。アリゾナ大学の "Center of Creative Photography"(創造的写真センター)には、ウィノグランドの作品2万点と、それと同数のコンタクトシートがアーカイブとして保管されている。さらに、30,500枚のカラースライドと100,000枚の写真ネガ、ポラロイド写真といくつかの映画フィルムがある。1975年、国立芸術基金フェローシップを受ける。1979年、3度目のグッゲンハイム・フェローシップを受け、その後、ロサンゼルスでカリフォルニアの記録撮影に従事する。

Connecticut, 1970
New Haven, Connecticut, 1970

そこで彼は8,522本のフィルムを使用した。ウィノグランドは社会派写真以外にも、1952年から1954年までマンハッタンでピックス写真代理店で商業写真を撮り、その後、ブラックマン・アソシエイツに勤務していた。さらに教育現場でも働いていた。1971年から1年間、シカゴのイリノイ工科大学で、同校のデザイン研究所の写真教授を務めた。また、1973年から1978年までテキサス大学オースティン校で教鞭をとっている。結婚したのは1952年で、その後1966年に離婚したが、2人の子供がいた。別居から1年後に再婚するが、1969年に破局した。1972年に3度目の結婚をする。1984年、胆嚢癌のため56歳の若さでこの世を去った。

MoMA  Garry Winogrand (1928–1984) | Works | Exhibitions | Publications | Licensing | Feedback

2022年12月9日

老朽原発の再延長を指示した岸田文雄の危険

放射能汚染水
海洋放出される大量の高濃度の放射能汚染水

岸田内閣の支持率が過去最低を更新し34.2%と、菅内閣末期の水準にまで低下したことが最新の JNN の世論調査で分かった。この1か月あまりで3人の大臣が辞任、そして統一教会をめぐる法案に対する実効性の健衛、防衛費の大幅増額、などなど様々な要因が考えられる。岸田文雄の失政の端緒は安倍晋三の「国葬」を強行したようだ。弔問外交などを謳ったが、海外からの要人の参列は叶わず、幻と化した。旧安倍派の議員の顔色を伺ったのだが、莫大な国費を無駄遣いしただけだった。この誤算が、国民の岸田文雄への不信に繋がったのである。去年10月に就任したとき「特技は『人の話をよく聞く』ということだ」とぶち上げた。重なる失政批判に対し「謙虚に受け止め、検討したい」を繰り返しているが、支持率を気にしながらも、聞く耳は国民に向いてなく、とりわけ旧安倍派議員を忖度、自民党内の議員に向いてるだけである。その悪しき典型が差別を煽る杉田水脈を更迭しない、いや、できないことだ。最大の問題点のひとつが原子力利用に一歩を踏み出したことである。

tepco

2022年9月22日、ニューヨーク証券取引所で講演した岸田は「ロシアの暴挙が引き起こしたエネルギー危機を踏まえ、原子力発電の問題に我々は正面から取り組む。10数基の原発の再稼働、新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発など集中的な専門的検討を指示した。専門家の意見も踏まえ、年末までに具体的な結論を出せるよう検討を加速して行く」と演説した。その最たる暴挙が老朽原発の再延長を指示したことである。既存原発の運転期間の再延長を岸田から指示された経産省が何と「稼働していなかった期間は累計年数から除外する」と提案したのである。福島第1原発事故からずっと垂れ流し続けられている、高濃度の放射能汚染水について、菅義偉前首相が国会で審議もせずに「海洋放出」を閣議決定した。国民の声を聞こうとしない岸田文雄もこれを継承、原発推進を、とりわけ目先の老朽原発再稼働をやみくもに押し進めようと目論んでいる。

Nuclear  福島原発告訴団 | お知らせ | 宣言・声明 | 裁判報告・資料 | 刑事裁判傍聴記 | 提出書面等 | 書籍

2022年12月7日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

ホノルル空港
真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど81年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年以上を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦

真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち

現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

Smithsonian Pieces of a Surviving Zero Tell a Different Pearl Harbor Story | Smithsonian Magazine

2022年12月5日

アメリカ先住民代表団によるホワイトハウスでの抗議行動

Lakota delegation
Lakota delegation in Washington, D.C., photographed by Charles Bell in 1891

ヨーロッパ人の到来、アメリカ合衆国の成立、そしてホワイトハウスの建設より何千年も前に、多くの植民者がこの地に降り立ち、後に合衆国の首都となるポトマック川とイースタンブランチの間の土地を含む、アメリカ先住民から土地を押収した。200年以上にわたり、そしてほとんど全ての大統領政権の間、アメリカ先住民の代表者たちはホワイトハウスを訪れ、部族の主権を主張し、土地割譲に反対し、戦時同盟の交渉、文化的権利と資源の保護、そして連邦政府に対して条約合意の条項の遵守を要求してきた。アメリカ先住民外交と連邦政策の形成は、最終的に先住民から奪った土地にあるホワイトハウスで形作られたのである。ホワイトハウスの建設が完了する前に、アメリカ先住民の代表団はペンシルバニア州フィラデルフィアで副大統領と会談した。1796年12月、ジョージ・ワシントン大統領とジョン・アダムズ副大統領は、チェロキー族の戦争指導者ジョン・ワッツと食事をした。アダムズは連邦政府の役人と交渉することを好んだ「チェロキー族の王」そして「大勢の族長とその妻たち」と書いた。さらに、チェロキー族の戦争指導者で、連邦政府との関係において、より過激なアプローチをとったハンギング・マウの未亡人と子供たちも加わっていた。ワッツと代表団は、ワシントンとアダムスに会い、ホープウェル条約で定められた領土の境界を、連邦政府が守るように要求した。 1785年11月28日に調印されたホープウェル条約は、フレンチ・ブロード川とホルストン川沿いのチェロキーの土地の大部分、現在のノースカロライナとサウスカロライナの大部分をアメリカに割譲し、白人の西部への拡大を許した。

White House
Oglala leaders with Northern Arapaho leaders delegation in Washington, D.C., 1877

この条約は、サウスカロライナ州のキョウエ川のホープウェルで、チェロキー族の首長とアメリカ合衆国の全権委員であるベンジャミン・ホーキンス、アンドリュー・ピケンズ、ジョセフ・マーチン、ラクラン・マッキントッシュによって調印された。ラコタ族の代表団は1875年にホワイトハウスに到着し、ユリシーズ・グラント大統領と面会した。大統領はにインディアン準州に移住し、ブラックヒルズの土地権利を放棄するよう説得した。「あなた方が今住んでいる場所の南側には、気候が非常に良く、草が非常に豊富で、バッファローのような大型の狩猟動物も生息している領土があります」。代表団はグラント大統領の申し出を拒否し、ブラックヒルズに戻った。代表団が連邦政府に対してララミー条約の条項を遵守するよう要求したにもかかわらず、白人探鉱者達は連邦政府の保護下にあるグレートプレーンズ北部への侵入を続け、1876年と1877年のブラックヒルズ戦争に至ったのである。現在のモンタナ州、ワイオミング州、ネブラスカ州、サウスダコタ州で、ティトン・スー族、ノーザン・シャイアン族、米国陸軍の間で15回の戦闘と遭遇が続いた。 グレートスー戦争後、連邦政府は今日でも争われているブラックヒルズを接収し、アメリカ先住民の国々はインディアン準州に強制的に分散させられたのである。1963年にジョン・F・ケネディ大統領と会談した際、NCAI(アメリカインディアン国民会議)は、ウィスコンシン、ミネソタ、ネブラスカ、カリフォルニア、オレゴン、そして後にアラスカの保留地に民事および刑事裁判権を付与した1953年公法83-280を改正するよう議会に求めた。NCAIのメンバーは、管轄権を持つ多くの州において、先住民に対する偏見が強すぎて、法廷での公正で公平な扱いを許さない、と主張した。

JFK
President John F. Kennedy speaks to Native Americans at the White House in 1963

1963年の代表団の他の目標は、インディアン局およびアメリカ公衆衛生局インディアンヘルス部との関係を改善すること、アメリカ先住民諸国から土地を取り上げるいかなる提案にも反対し、部族主権の終結を防ぐこと、公共事業促進法、青年保全隊法案、国家奉仕隊などの立法提案を支持すること、などであった。アメリカインディアン国民会議代表団の中でケネディ大統領は「インディアンの自治と部族評議会の尊重と彼らとの密接な協力の重要性、教育機会の拡大と職業訓練の必要性、インディアン居留地の経済発展と雇用拡大の必要性、過去の不公平に対する未払いの請求権の迅速かつ公正な解決の必要性」を強調した。2世紀以上にわたって、アメリカ先住民の代表者や活動家たちは、自らの自治を主張し、環境、経済、政治、文化の権利を要求するためにホワイトハウスを訪問してきた。最高経営責任者は外交を監督し、他国との条約を結ぶ権限があるため、アメリカ先住民の代表は大統領に直接訴え、これらの目的を追求してきた。しかし、大統領令は、しばしばアメリカ先住民の主権を十分に認めず、アメリカ先住民に対する過去の不公平を認めませんでした。近年、アメリカ先住民の国や活動家は、これらの目標を達成するために、司法手続きによってより大きな成功を収めてきた。しかし、ホワイトハウスの知名度、民主主義と平等の象徴であることを考えると、アメリカ先住民の外交と抗議は、おそらくその門の外で継続されるであろう。以上は「ホワイトハウス歴史協会」の文書の抄訳です。

Newsweek  先住民迫害の過去から目をそらすアメリカは変わるのか | ニューズウィーク日本版 | 渡辺由佳里

2022年12月3日

アメリカ憲法のルーツとなったアメリカ先住民

Governor William Burnet of New York meets with Native American leaders in 1721

9月17日は、1787年に米国憲法が調印されたことを記念する憲法記念日である。学校では憲法の知的系譜を古代アテネからヨーロッパの啓蒙主義にたどることが多い。しかしオクラホマ州イースタン・ショーニー族の法律学者、部族裁判所判事、市民であるロバート・ミラー(1950年生まれ)は、その多くの思想のもう一つの源は、誕生したばかりの米国政府の最も身近な存在であった部族の政治団体であると書いている。憲法に署名した建国の父たちの多くが、先住民族と深い親交があり、中には条約を結んだり外交関係を結んだりしていた人もいたと説明している。ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)はイロコイ族をはじめとする先住民との条約交渉や印刷に深く関わり、その統治システムを研究していた。18世紀のアメリカ全土の部族政府は「比較的複雑な政府から単純な政府まで、独裁的な政府から高度に民主的な政府まで」さまざまなな政府モデルを有していた。

Native American

ところで「建国者」たちが最も親しんだ北米東部の政府は、ニューヨーク州北部の強力なイロコイ族連合を含む、部族国家の連合体であった。イロコイ族、ショーニー族、チェロキー族などの政治体制は、一般的に軍と市民の指導者を分け、宗教の自由を含む一定の個人の自由を守り、国民投票、拒否権、罷免など、ある程度民主的な政策がとられていた。しかし女性にも大きな役割を与えたが、これは合衆国憲法には1世紀以上反映されなかった。ミラーによれば、フランクリンはイロコイ族を含む先住民との条約交渉や印刷に深く関わり、その統治システムを研究していたという。1751年に書かれた文章で、フランクリンは次のように主張している。

もし無知な野蛮人である6つの国が、このような連合の計画を立て、昔から続いているような方法でそれを実行することができ、しかもそれが不分明に見えるとしたら、非常に奇妙なことだ。

初代副大統領ジョン・アダムズ(1735–1826)は憲法起草にあたり「古代ゲルマン人と近代インディアン」の政府を研究することを提案した。彼らは、行政、司法、立法の3部門に権力を分割して統治していると考えたからである。特にモホーク族を例に挙げ、彼らは「完全な個人の独立」を享受していたが、部族のリーダーは宣戦布告などの重大な決定を「国民議会」に持ち込んでいたと主張した。いずれにせよ「建国」の名のもとに、アメリカ合衆国は先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州により北アメリカの西部へ拡大したという史実を看過してはならない。より身近なアイヌ民族に関してもいずれ取り上げてみたい。

The Library of Congress  The Constitution United States of America Analysis and Interpretation (LOC) PDF 18.5MB