2022年12月10日

アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド

Central Park Zoo, New York, 1967
Garry Winogrand 

ストリート写真で知られるゲイリー・ウィノグランドは、1928年1月14日、ニューヨークのユダヤ系が支配する労働者階級の地区ブロンクスで生まれた。母親はネクタイを作り、父親は皮革工場で働いていた。ニューヨーク市立大学で絵画を学び、コロンビア大学で絵画の技術を磨き、1948年に写真を学び始めた。3年後、マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにあるニュースクール大学に入り、アレクセイ・ブロドヴィッチのもとでフォトジャーナリズムを学んだ。1955年に MoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された "The Family Man"(人間家族)展でウィノグランドの写真が2点展示された。その4年後、ニューヨークのイメージギャラリーで初の個展を開催する。1963年、MoMAで開催された "Five Unrelated Photographers"(無関係な5人の写真家たち)に参加。この展覧会には、ケン・ヘイマン、ジェローム・リーブリング、ジョージ・クラウス、マイナー・ホワイトの名前も含まれていた。その後、1966年にニューヨーク州ロチェスターののジョージ・イーストマン・ハウスで、ダニー・ライオン、ブルース・デヴィッドソン、デュアン・ミハルス、リー・フリードランダーらとともに作品を発表した。展覧会の名称は "Toward a Social Landscape"(社会的風景に向けて)だった。1967年、フリードランダー、ダイアン・アーバスとともに、MoMA で開催された「ニュー・ドキュメンツ」展に参加した。

Los Angeles, 1964
Los Angeles, 1964

1964年、グッゲンハイム・フェローシップ賞を受賞し、アメリカ各地を撮影旅行した。そして「ニュー・ドキュメンツ」展に作品の一部が展示される。ジョン・ザルコフスキーのキュレーションによるもので、ザルコフスキーが近代美術館の写真部門のディレクターになると、ウィノグランドの写真作品のレビューと編集を担当するようになった。60年代には、ダイアン・アーバス、トッド・パパゲイジ、リー・フリーンランダー、ジョエル・マイヤーウィッツらとニューヨークの街角を撮影した。彼の写真は社会問題やメディアが態度を形成する方法を強調している。1969年、クーニーアイランドの水族館やブロンクス動物園の写真を含む初の写真集 "The Animals"(動物たち)を出版した。この写真集では動物と人間の関連性が描かれている。1969年、2度目のグッゲンハイム・フェローシップを受け、メディアが人々や出来事に与える影響を探求し続ける。

Cape Cod, 1966
Cape Cod, 1966

ゲイリー・ウィノグランドは、公共の場で700本のフィルムを使用し、6,500枚の写真プリントを撮影、1977年の写真集および展覧会 "Public Relations"(広報活動)に選ばれた。アリゾナ大学の "Center of Creative Photography"(創造的写真センター)には、ウィノグランドの作品2万点と、それと同数のコンタクトシートがアーカイブとして保管されている。さらに、30,500枚のカラースライドと100,000枚の写真ネガ、ポラロイド写真といくつかの映画フィルムがある。1975年、国立芸術基金フェローシップを受ける。1979年、3度目のグッゲンハイム・フェローシップを受け、その後、ロサンゼルスでカリフォルニアの記録撮影に従事する。

Connecticut, 1970
New Haven, Connecticut, 1970

そこで彼は8,522本のフィルムを使用した。ウィノグランドは社会派写真以外にも、1952年から1954年までマンハッタンでピックス写真代理店で商業写真を撮り、その後、ブラックマン・アソシエイツに勤務していた。さらに教育現場でも働いていた。1971年から1年間、シカゴのイリノイ工科大学で、同校のデザイン研究所の写真教授を務めた。また、1973年から1978年までテキサス大学オースティン校で教鞭をとっている。結婚したのは1952年で、その後1966年に離婚したが、2人の子供がいた。別居から1年後に再婚するが、1969年に破局した。1972年に3度目の結婚をする。1984年、胆嚢癌のため56歳の若さでこの世を去った。

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