2022年12月7日

真珠湾奇襲攻撃秘話ニイハウ島の悲劇

ホノルル空港
真珠湾の航空取材を終えホノルル空港に戻ったイヴランドさんと私(1976年12月)

ちょうど81年前の1941年12月7日、日本時間12月8日未明、日本海軍はハワイ州オアフ島の真珠湾を航空機および潜航艇で奇襲攻撃をした。写真は1976年の12月中旬、ホノルル空港で撮影したもので、私が穿いてるベルボトムのジーンズが時代を感じさせる。フィルムスキャンしたもので、好天下でコントラストが高いのが難点だけど、流石コダクローム、40年以上を経ても変褪色の兆しがゼロである。横にいるのはパイロットのイヴランドさん。この日は旧日本軍の戦闘機の飛行コースに沿って真珠湾に侵入、湾内を何回か旋回し撃沈した戦艦アリゾナの記念館を撮影した。この地域にはアメリカ海軍太平洋艦隊の司令部や太平洋空軍の基地などになっているので、しばらくすると管制塔から無線で「退去せよ!」と怒鳴られ、すぐそばのホノルル国際空港に着陸、ほっとしたところを記念撮影したものだ。イヴランドさんと一緒にハワイの島々を飛び回ったが、彼は飛行機操縦教官の資格があり、風が穏やかな洋上では時々操縦桿を握らせて貰った。だから私は4~5時間の飛行教程を履修したことになっているのである。真珠湾奇襲攻撃を受けた米国は日本に宣戦布告、これがハワイに住む日系人に複雑な影を落としたことは言うまでもない。ところでニイハウ島事件をご存知だろうか。

西開地重徳一飛曹
焼却後の西開地飛曹搭乗のゼロ戦

真珠湾第二次攻撃のため、戦艦「飛龍」を飛び立った零式艦上戦闘機(ゼロ戦)がエンジンの故障で不時着、奇怪な展開を見せた事件である。この島には軍事施設がなく、万が一のために不時着地として日本軍が指定してあったものだ。パイロットは西開地重徳一飛曹(海軍一等飛行兵曹)、軽傷だったようだが住民が手厚く看護したという。ところがその住民の一人が機内から地図と拳銃を盗み出した。地図は帝国海軍の軍人にとってはいわば機密書類、住民との間に緊張感が漂った。間に立ったのがカウアイ島から農場の管理人として働きに来ていた日系二世の原田義雄夫妻だった。最終的には西開地一飛曹は住民との抗争によって殺されるのだが、これによって原田さんも自害する。アメリカ人でありながら日本軍に加担したというジレンマに陥ってしまったからだ。ニイハウ島はロビンソン一家が私有する小島で、先住ハワイアンの生活様式を継承している。許可なしには誰も上陸できなく、私も申請したが無理だった。カウアイ島でヘリコプターをチャーター、上空から島の様子を窺った。礼拝を終えたと思われる住民が教会から出てきたところを見たくらいで、パイロットが低空飛行を嫌がったこともあり、その生活実態を撮影することはついにできなかった。

欧州戦線で名を馳せた第442連隊戦闘団の日系人兵士たち

現在でも島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていないという。移民というのはひとつのプロセスを辿るようだ。まず農業、漁業などの労働に従事する。次に教育を受けた子弟が、教員をはじめ公務員になる。無論企業にも務める人もあれば、起業する人も登場する。スポーツ選手が現れ、政治家も誕生する。音楽や絵画などの芸術家が生まれるが、最後に現れるのはその国の言葉を使う文学者だという。当時、詩で受賞したという日系三世の女子高校生のことを新聞で知り訪ねたことがある。顔かたちが日本そのものなのに、会うと英語しか喋れず、奇妙な感じを抱いたものである。どうして二世たちは三世に日本語教育をしなかったのか。大戦中ハワイから欧州戦線に送られた日系米兵の「第100歩兵大隊」「第442連隊戦闘団」はドイツ軍と果敢に戦い、米軍内では稀にみる大きな戦績を残した。ところが皮肉なもので、戦場で活躍したがうえに「やはり日本人は怖い」と逆の評価も囁かれてしまったのである。すべての日系人がそのようにしたか不明だが、このような苦い経験から、より「アメリカ人」になろうと子弟に日本語を教えなくなったという。これは例えば華僑の世界とはずいぶん違う。ニイハウ島事件から逸れたが、ハワイに住む日系人の複雑な深層心理を一枚の写真から思い出した次第である。

Smithsonian Pieces of a Surviving Zero Tell a Different Pearl Harbor Story | Smithsonian Magazine

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