2022年11月25日

アパッチ族の戦士ジェロニモの果敢な生涯

Group of Native American Chiefs in 1865
Group of Native American Chiefs (front row left) Geronimo in 1865

ジェロニモは部族の土地から追い出そうとするメキシコ人やアメリカ人を、恐れずに抵抗することで知られたアパッチ族の戦士だった。1829年6月16日、現在のニューメキシコ州のターキー・クリーク付近で生まれた。彼は拘束と保留地での生活から何度も逃れ、最後の逃亡の際には、アメリカ常備軍の4分の1が彼と彼の従者を追跡した。1886年9月4日に捕らえられたが、米軍に正式に降伏した最後のネイティヴアメリカン指導者だった。捕虜としてその生涯の最後の23年間を過ごした。ジェロニモは、1829年6月16日、現在のアリゾナ州ギラ川上流域で生まれた。彼の出生時の名前は Goyahkla つまり「あくびをする者」だった。彼は、約8,000人の小さな、しかし強大なアパッチ族の小部族チリカフアに属していた。彼が成人する頃には、アパッチ族は南はメキシコ、北はアメリカ政府、近隣のコマンチ族やナバホ族と戦争状態になっていた。彼は早くから狩猟の才能を発揮し、17歳までに近隣の部族への襲撃を成功させていた。個人的な悲劇が、彼や彼の民族を支配しようとする者への憎しみを生涯にわたって形成した。1851年、ジェロニモが交易の旅に出ている間に、ホセ・マリア・カラスコ大佐率いるメキシコ兵がジェロニモ一家のキャンプを攻撃した。ジェロニモの妻アロペと3人の子供、そして彼の母親は皆、殺害されたのである。悲しみに打ちひしがれたジェロニモは、アパッチ族の伝統に従って家族の持ち物を燃やし、森に向かった。「銃では決してお前を殺さない。私は銃から弾丸を抜き、お前に矢を射るだろう」。彼は家族を殺した犯人を追い詰める。ジェロニモという名前の由来については、異論がある。ジェェロニモとの戦いで怯えたメキシコ人兵士がカトリックの聖ヒエロニムスの名を呼んで叫んだことが起源だという説。また単に本名う Goyahkla の発音を間違えたという説もある。アメリカの西部への進出は、アパッチ族に新しい苦難と敵をもたらし。1848年グアダルーペ・イダルゴ条約が結ばれ、米墨戦争は終結した。

Geronimo
Geronimo by A. Frank Randall circa 1887

メキシコは現在のアメリカ南西部の大部分をアメリカに割譲し、その中にはアパッチ族が何世紀にもわたって住んでいた土地も含まれていた。1854年のガズデン購入により、アメリカは現在のアリゾナ州とニューメキシコ州南西部のさらなる土地を手に入れた。1872年、アメリカ政府はチリカフア族のために、少なくとも彼らの故郷の一部を含む保留地を作ったが、すぐに追い出され、アリゾナのサン・カルロス保留地の他のアパッチ族に加わることを余儀なくされた。ジェロニモは、その後10年間に3度、彼の従者達と共にサン・カルロス居留地を抜け出した。彼は周囲の丘陵地帯を知り尽くしていたため、追っ手から逃れることができたのである。逃げれば逃げるほど、また姿を消せば消すほど、米軍や政治家は困惑することになる。銃弾が自分を傷つけないという信念は本当だったようで、警察、イギリス系アメリカ人、メキシコ人との小競り合いから常に逃れていた。彼は何度も負傷したが、常に回復していた。1886年3月、ジョージ・クルック将軍はジェロニモに降伏を迫ったが、土壇場でジェロニモと40人の従者が暗闇に紛れて逃亡した。常備軍の4分の1に当たる5千人のアメリカ兵と3千人のメキシコ人が逃亡者を追った。1886年9月4日、ジェロニモはアリゾナ州スケルトン・キャニオンでネルソン・マイルズ将軍に自首するまでの5ヵ月間、彼らは持ちこたえた。ジェロニモは14年以上フォート・シルに滞在し、政府が許可した万国博覧会やワイルド・ウェスト・ショーに時折出かけるだけで、かつて無敵だったリーダーを見せびらかしました。セオドア・ルーズベルト大統領の就任式にも参加したが、ルーズベルトはジェロニモの「チリカフワ族が西部の原住民の土地に帰ることを許可してほしい」という嘆願を拒否した。1909年2月17日、肺炎のため死亡、オクラホマ州フォート・シルのビーフ・クリーク・アパッチ墓地に埋葬された。

Native American Geronimo (1829-1909) | Biography by History.com Editors | A&E Television Networks

2022年11月22日

凍結解除されたトランプ前大統領の Twitter アカウント

Cartoon Trump

ドナルド・トランプ前大統領は Twitter に戻ることを拒否しているようだが、新たな大統領選挙に乗り出すにあたり、我慢できるだろうか。このプラットフォームの新しいオーナーであるイーロン・マスクによって復活させられた彼のアカウントに、何か動きがないか注目されている。Twitter は2021年1月6日の米国連邦議会議事堂への支持者による襲撃事件をきっかけに、トランプのアカウントを凍結した。しかし自らを「言論の自由絶対主義者」と称するマスクは、前大統領の復権を支持する人が過半数を占めるという世論調査を投稿し、凍結を解除した。トランプのフォロワーは今日22日の時点で8,760万人だが、そのうち何人が本物で何人がボットなのかは不明で、同氏がフォローしているアカウントの数は0から49になった。このアカウントは、トランプの2024年の大統領選出馬のための寄付を求めるキャンペーンサイトにもリンクしている。このウェブサイトをアカウントにリンクさせたのは誰か、フォロワー数の変化が何を意味するのかは不明だ。マスクのもとではここ数週間、Twitter のコミュニケーションチームが大量解雇されている。新しい投稿はまだなく、これはトランプの2121年1月8日付け、最後のツイートである。高らかに「私に投票した7,500万人の偉大なアメリカの愛国者は将来にわたって大きな声を持つことになるであろう」と謳っている。

トランプのアカウントは、2024年の大統領選出馬のための寄付を求めるキャンペーンサイトにもリンクしている。このウェブサイトをアカウントにリンクさせたのは誰か、フォロワー数の変化が何を意味するのかは不明だ。マスクのもとではここ数週間、Twitter のコミュニケーションチームが大量解雇されている。トランプは大統領在任中 Twitter を通じて政策発表の投稿、政敵への攻撃、支持者とのコミュニケーションに興じていた。マスクのアンケートでは、1,500万票以上が投じられた。Twitter の1日のユーザー数は2億3,700万人で、物議を醸したトランプのアカウント復活させることに51.8%が賛成、48.2%が反対した。トランプ前大統領の復権に関して「はい」か「いいえ」で簡単に回答するよう求めたのである。

QAnon shaman

トランプは自らが設立したソーシャルメディア Truth Social に頻繁に、時には1日に何十回も投稿し、ここ数ヶ月は、Qアノン陰謀説の推進者からの数十回の投稿など、これまで以上に過激なコンテンツと堂々と関わっている。しかし専門家によれば、彼が流す誤った情報がインターネット上で反響を呼ぶという。2024年の大統領選に再出馬することを発表したが、以前のような熱狂的な支持は得られなかったため、より大規模で主流のプラットフォームである Twitter に復帰したことになる。何百人もの候補者を推薦していた中間選挙の直後に出馬を表明したのだ。しかし、民主党が予想外に健闘し、予測されていた共和党の「赤い波」は実現せず、トランプへの反発や共和党内の過激派が台頭することになった。元副大統領マイク・ペンスは、自身も2024年の共和党候補となる可能性があるが、日曜日に CBS テレビに対し「古いボスよりもより良い選択肢があるだろう」と語ったという。下記リンク先は、ドナルド・トランプの凍結解除され復活した Twitter アカウントである。

Twitter  Donald J. Trump @realDonaldTrump | 45th President of the United States of America

2022年11月19日

イーロン・マスクは自分自身を解雇すべきだ

The end of Twitter

ソーシャルメディア Twitter の CEO(最高経営責任者)イーロン・マスクが、長時間労働を受け入れるか退職するかの選択を社員に迫っていたが、米紙ニューヨーク・タイムズ電子版によると従業員の少なくとも1,200人がその日に退職したという。当初、社員7,500人のうちの半数、3,750人を解雇していたが、これでおよそ5,000人が Twitter から離れたことになる。投稿の安全対策のトップらも辞めており、サービスの安全性への懸念が強まっている。マスクが標榜する「言論の自由」は美しい言葉だが、フェイク情報の温床に成りかねないというリスクがあるからだ。ワントンD.C.のオンラインニュース新聞フォーリン・ポリシーは今月18日「イーロン・マスクは自分自身を解雇すべきだ」という辛辣な記事を掲載した。

救うためには、選択肢は明白で、マスクは緊急に自分自身を解雇する必要があります。彼の前座があまりに無秩序だったからではなく、より深い構造的な理由からである。Twitter の使命が、マスク自身の言葉を借りれば「世界に関する最も正確な情報源」となることだとすれば、マスクの複数の利益相反と Twitter の国際事業が相俟って、その使命が失われることになるからだ。ひとつには Twitter のグローバルな事業展開がすでに不安定であることが挙げられる。第二に、マスク自身の国際的な絡みが問題をより深刻にしている。第三に、Twitter のプラットフォームに対するビジネスの圧力は、マスク氏の下で Twitter の棺桶に最後の釘を打つことになるでしょう。

ロイター通信が確認した電子メールによると、マスクは金曜日、ソフトウェアコードを書く Twitter の残りの従業員に対し、午後早い時間までにサンフランシスコのオフィスの10階に出頭するよう求めたという。このメールは、数百人の社員が、木曜日にマスクから「長時間・高強度」での勤務を命じられ、苦境にあるソーシャルメディア企業を去ることを決めたと見られる翌日に送られてきたものだ。同通信によると金曜日の正午の時点で、同社はマスクの申し出を拒否した従業員の会社のシステムへのアクセスをまだ遮断していなかったという。 ホワイトハウスの関係者も Twitter がどのようにデータを保護しているかをアメリカ人に伝えるべきだと発言している、と CNN の記者がツイートしている。迷走する Twitter だが、何処に漂着するのだろうか。

Twitter  Bhaskar Chakravorti | To Save Twitter, Elon Musk Should Fire Himself | Foreign Policy

2022年11月18日

人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ

© Pedro Luis Raota
Pedro Luis Raota (1934-1986) "Lost Childhood" Argentina, Date unknown

アルゼンチン出身のペドロ・ルイス・ラオタ (1934-1986) は、20世紀を代表する写真家のひとりである。幼い頃、自転車を売ってカメラを買い、写真術を学ぶことを決意する。アルゼンチン北部のラナ川とサラド川の合流地点近くに位置する、サンタフェ・デ・ラ・ベラ・クルスでポートレート写真を始め、その後ビラグリに移り住み、心血を注いだ自分のスタジオを構えた。1958年に初めて認められて以来、人道的なジャンルでの優れた作品により、150以上の国際的な賞や栄誉を獲得した。彼の写真は、ニューヨーク近代美術館で展示されたほか、世界中の公的機関や個人のコレクションに含まれている。

© Pedro Luis Raota

人間の精神の深さを写真に写し取るラオタのユニークで忘れがたい才能は、他の伝説的な写真家たちと比較されるようになった。ドロシア・ラングやユージン・スミスのように、このアルゼンチンの巨匠は、打ちひしがれた人間の心にしみる肖像を表現している。アンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーに似た、喜びやコミカルな対立、自然発生的な「決定的瞬間」に満ちた写真もある。ラオタのポートレートには、ポール・ストランドの作品と比較されるような、希有な精神の集中が見られる。しかし最終的には、これらの並外れた写真は他の写真家と比較されることなく、強力な傑作として、ユニークで独特な感動を与えてくれるのである。

aperture_bk Pedro Luis Raota | Original Photographs From "Faces of Life" | Photography West Gallery

2022年11月16日

大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット

Colored Entranc
Colored Entrance of Movie House, Belzoni, Mississippi, 1939
Marion Post Wolcott (1940)

マリオン・ポスト・ウォルコットは、1938年から1942年にかけて FSA(農業安定局)のために制作した、9,000点を超える写真でよく知られている。1910年6月7日、ニュージャージー州モントクレアで、ウォルター・ポストとマリオン・ホイトの間に生まれた。父親はホメオパシーの医師で保守的だったが、母親は進歩的な運動を熱心に行う人であった。13歳の時に両親が離婚し、寄宿学校に送られ、学校以外の時間はグリニッジ・ビレッジの自宅で母親と過ごした。教師としての訓練を受け、マサチューセッツ州の小さな町で働くことになった。ここで彼女は、大恐慌の現実と貧困層の問題を目の当たりにした。学校が閉鎖されると、彼女は姉のヘレンと一緒にヨーロッパに留学した。ヘレンはウィーンの写真家、トゥルーデ・フライシュマンに師事していた。マリオン・ポストはフライシュマンに自分の写真を見せたところ「写真に徹するように」と言われたそうである。彼女は大恐慌と農作物の荒廃で最も大きな打撃を受けた人々に対する、連邦政府の支援の必要性を記録して公表するためにカメラを持って米国内を何千マイルも走破した。1930年代に、マリオン・ポストはフォトリーグの講義に出席し、ポール・ストランドやラルフ・スタイナーと知り合い、スタイナーのアパートに集まって非公式に議論する若い写真家たちのグループに招かれた。

Children from Wadesboro
African American Children from Wadesboro, North Carolina, 1938

フリーランスの写真家となったマリオン・ポストだが、仕事を見つけるのは困難だった。しかし雑誌からの依頼を受けることはできた。ウォルコットはすぐに飽きてしまい、ラルフ・スタイナーに頼んで、彼女のポートフォリオを FSA の写真部門の責任者であるロイ・ストライカーに見せた。彼はその場で彼女を雇い、FSA の女性初の写真家に任命した。ドロシア・ラングも1935年からスタッフとして働いたが、パートタイムで、制作した写真の枚数もはるかに少なかった。 1941年、マリオンは、二人の小さな子供を持つ男やもめのリー・ウォルコットと結婚した 。これによってポストをミドルネームに、そしてウォルコットをラストネームにした。夫の子どもを育てながら自分のキャリアも続けようとしたが、戦争で食料、車、タイヤ、ガソリンが配給制になり、女性は従来の低賃金の家政婦から高給の戦争労働へと移行したため、特に彼女がアメリカ西部地域の撮影を担当している今、その計画は不可能であることが判明した。

General Store and Post Offic
Haircutting at General Store and Post Office, Mileston, Mississippi, 1939

マリオン・ポスト・ウォルコットは二度とプロとして写真を撮ることはなかったが、写真制作をやめたわけではない。彼女は隣人のポートレートやバージニア州の田舎での農業の写真をプレゼントしていた。1954年から1959年まで、ウォルコット夫妻はコロラド州とニューメキシコ州で暮らした。夫のリーが1959年から1968年まで国務省に勤務していた間、一家はイラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、エジプトで暮らした。1967年の七日間戦争でエジプトから強制退去させられる直前、マリオン・ポスト・ウォルコットは残された個人資料をほぼ全て破壊したため、捕縛から免れれることができたのである。

Hotel
Pahokee "Hotel", Pahokee, Palm Beach County, Florida, 1941

その後、一家はカリフォルニアに移住し、ウォルコットはカウンターカルチャーを記録した。サンタバーバラ美術館で写真の解説員をしていた彼女は、スタッフに作品を見せ、展示するようになりました。オークランド美術館のドロシア・ラング賞、写真教育者協会の生涯功労賞、全米報道写真家協会の生涯功労賞など、晩年の10年間に多くの賞を受賞しています。1986年にシラキュース大学で開催された「写真における女性」では基調講演を行い、彼女の写真が展示された。1990年4月にニューヨークの国際写真センターで開催された写真展には、体調不良で出席できなかった。1990年11月24日、肺がんのためカリフォルニア州サンタバーバラで死去した。

The Library of Congress  Marion Post Wolcott (1910–1990) | A Biographical Essay | The Library of Congress

2022年11月13日

イーロン・マスクの Twitter 青バッジに赤信号

Fake Nintendo
任天堂の偽アカウントが投稿した画像

映画やアニメなどでおなじみの中指を突き立てるポーズは、アメリカを中心とした欧米では、相手への最大級の、極めて侮辱的、攻撃的で卑猥ななサインとして知られている。もともとは男性器を現した形に由来するものだと言われている。従って欧米人ならこのマリオの画像に違和感を持つに違いない。しかも何故任天堂がこんな画像を掲載するのかと不思議がるだろう。画面上部のアカウントの部分を見て欲しい。よく見ると Nintendo of Amerika の右の ID が @nlntendoofus となっている。@nintendoofus とは紛らわしい一字違い。

nlntendoofus

任天堂米国法人の正式 ID は @NintendoAmerica だが 、青い認証バッチをつけているので、偽アカウントによる仕業と気付く人は少ないかもしれない。バッジは著名人や公的機関、団体などの Twitter 上での著名なアカウントが「本物」または「公式」であり、アカウントの信憑性を保証するシステムである。本物の著名なアカウントと、なりすましアカウントを区別するために使用されてきたが、一般ユーザーには「あこがれ」のバッジでもあったようだ。ところが Twitter を買収したイーロン・マスクは赤字回避のため、従業員の半数を解雇すると共に、青色バッジを課金月額8ドル(約1,180円)で売ることにした。問題はこれまでの青色の認証バッジが灰色になって消え、本物となりすましの区別がつかなくなってしまったのである。青バッジを買えるのは今のところ米英豪カナダ・ニュージーランドの iOS アプリケーションだけのようである。アプリケーションのプロフィールから Twitter Blue をタップすると、一番上に「Blue サブスクライバーのみなさまには認証済みアカウントと青バッジが付与されます」と表示され、一番下の Subscribe ボタンを押すとチェックがつくしくみで、あっけないほど簡単だそうだ。ただこの青バッジ、本人認証は一切ないようだ。

Blue Mark
売り出された青バッジ

一般に本人確認は身分証明書の提示など、二重三重の手続きが必要なので、新しいバッジは認証バッジとは言い難く、単なる「有料会員証」に過ぎないと言える。この点が偽アカウントを生む要因になっている。以上の点の他に、マスクは米国の共和党支持を鮮明に打ち出し、剥奪されたドナルド・トランプ前大統領のアカウント復活を示唆している。民主党の議員や支持者はどう対応するのだろうか。日本の政治家も他人事ではないだろう。ソーシャルメディアは、今やその言葉通り社会性を持った言論プラットホームの色彩が強くなっている。前エントリ―「マーク・ザッカーバーグのメタバースへの苦闘」で「儲からなければあっさり手を離すかもしれない」と書いた。マスクは倒産の可能性もほのめかしているが、すでに多額の株を売却したという報道もあるし、その可能性は十分ある。万が一そうなったら、言論ツールとして利用している政治家など、広報ツールとして利用している芸能人や企業、あるいは交流ツールとして使っている一般ユーザーなどはさぞかし困るに違いない。

Twitter  任天堂と Valve の偽 Twitter アカウントが既に出回っています、皆さんもご注意を。(英文)

2022年11月12日

マーク・ザッカーバーグのメタバースへの苦闘

Mark Zuckerberg
メタバースに巨額を投じたマーク・ザッカーバーグ

アメリカの巨大ソーシャルメディアが揺れ動いている。440億ドル(約6兆2,500億円)でツイッターを買収したイーロン・マスクが、同社がより多くのキャッシュフローを生み出し始めない限り、破産は可能性としてあり得るとの見解を示した。どうやら米自動車最大手 GM などが、Twitter への広告出稿停止を発表したため、先行きに暗雲が垂れ込め始めたかららしい。たしかに Twittwer は赤字を抱え、従業員の約半数を解雇して経営安定を計ったようだ。ただ一連の動向をみると、ビジネスに重点を置いていることが窺える。いまやソーシャルメディアは文字通り言論機関の様相を見せている。マスクはビジネスの天才だが、儲からなければあっさり手を離すかもしれない。ところで米 Meta(旧Facebook)社は9月末時点の禅従業員数は約8万7,000人で、全従業員の約13%にあたる1万1,000人を超える解雇を発表した。これは同社がいわゆる「メタバース」プロジェクトに150億ドルという途方もない金額を費やしたことを受けてのことである。

Meta

ウェブサイトへの投稿で確認されたことだが、億万長者のマーク・ザッカーバーグは、悔しそうな口調で従業員に「Meta の歴史の中で最も困難な変更をお伝えします」と語り1万1,000人以上の優秀な従業員を手放すことにしました」と続けた。ザッカーバーグは、なぜこのようなことが必要なのかを説明し、その責任を便利な万能薬である新型コロナウィルス感染症 COVID‑19 に負わせた。ロックダウン中に人々がオンラインでより多くの時間(とお金)を費やした結果「桁外れの収益の伸び」があったとし、ボス(彼は減給されていない)は「多くの人が、これはパンデミックが終わった後も続く、恒久的な加速になるだろうと予測していました。私もそう思っていたので、投資を大幅に増やす決断をしました」と弁解したのである。しかし「残念ながら、そうならなかった」とザッカーバーグは言う。そして「マクロ経済の悪化、競争の激化、広告のシグナルロス」に言及し、これらすべてが予想よりもはるかに低い収益につながったと述べている。そして重要なのは「私はこれを間違っていた、その責任を取る」と付け加えたことである。

technology.png The Metaverse: What It Is, Where to Find it, and Who Will Build It by Matthew Ball

2022年11月10日

絵画・小説・映画がアメリカ先住民を悪役にした

American West
American West by Frederick Remington 1902-1906

この絵は画家フレデリック・レミントンが20世紀初頭に描いたアメリカ西部のイメージである。幌馬車で開拓者を襲うアメリカ先住民を描くことで、アメリカ西部に関する多くの典型的なステレオタイプと呼応しているため、やや驚かされる。幌馬車は開拓者がもたらした文明を、川に浮かぶ帽子は西部開拓が文明の再定義を迫ったことを象徴してる。おそらく単に西部へ移動しようとする開拓者を狙う凶暴なアメリカ先住民というステレオタイプを助長するため、この絵には歴史学者のフレデリック・ターナーが1893年の論文でアメリカの民主主義の形成におけるアメリカの辺境の重要性について指摘した矛盾が多く含まれている。幌馬車で川を渡ろうとする開拓者の姿は、開拓者が文明から逃れようとすると同時に、西部辺境の荒々しさを手なずける」ために文明を持ち込もうとしているという、ターナーの指摘を強調している。この絵は西部の荒々しさと、フロンティアに移住した開拓者たちの文明といわれるものとの相互作用をとらているのである。

マーク・トウェインの児童文学『トムソーヤの冒険』は1876年に出版された。ミシシッピ河に臨む港町ハンニバルでの少年時代の思い出を題材にした伝記的小説で、大人から見た子供の世界がありのままにユーモアを交えて描かれている。登場するインジャン・ジョーは白人とアメリカ先住民のダブルだった。インジャン(Injun)はインディアン(Indian)が訛ったスラングで、人種差別のニュアンスが強い。物語はあくまで白人の視点から書かれたもので、従ってインジャン・ジョーは悪役といて登場している。1851年から1886年にかけてアパッチ族をはじめとする先住民の部族と米軍が交戦したインディアン戦争の真っ最中だったので、白人社会にあるアメリカ先住民への偏見は今より相当ひどかったと思われる。トムとハックは猫の死体を使ったイボ取りの魔術を使おうと、夜中に墓地へ行く。そこで酒飲みのマフ・ポッターとロビンソン医師をインジャン・ジョーが殺すのをふたりは目撃する。インジャン・ジョーは最初から最後まで、完全に悪人として書かれていたのである。多くの少年少女に読み継がれている作品だけに、その影響力は底知れないものがある。

Stagecoach
"Stagecoach" directed by John Ford & starring Claire Trevor and John Wayne

映画『駅馬車』は1939年にジョン・フォードが監督し、クレア・トレバーとジョン・ウェインが主演してブレイクしたアメリカの西部劇映画である。ダドリー・ニコルズの脚本は、アーネスト・ヘイコックスの1937年の短編小説「ロードスバーグへの舞台」を映画化したものである。映画は、危険なアパッチ領を駅馬車で行く見知らぬ一団を描いている。西部劇というジャンルは、文明の名の下に荒野を征服し自然を従属させたり、開拓時代のアメリカ先住民の領土権を没収することを描くことがある。西部劇は名誉の規範と個人的、直接的または私的な正義である銃撃戦によって処されることを中心に組織される社会を描いている。これらの名誉の規範は、しばしば確執や、自分を陥れた人物に対して、個人的な復讐や報復を求める個人の描写を通して演じられる。このような西洋の個人的な正義の描写は、都市に存在する合理的で抽象的な法律を中心に組織された司法制度とは対照的で、社会秩序は主に法廷のような比較的非人間的な制度によって維持される。西部劇の一般的なイメージは、半遊牧民の放浪者、通常はカウボーイやガンマンの生活を中心とした物語である。2人以上のガンマンによる真昼の対決や決闘は、西部劇の一般的なイメージのステレオタイプなシーンである。二丁拳銃や早撃ちなどのガン捌きがあざやかなヒーローの活躍で人気を博し、アメリカ先住民を悪役にした点は見逃せない。

Dances with Wolves
"Dances with Wolves" starring, directed, and produced by Kevin Costner

ところで1990年に公開された『ダンス・ウィズ・ウルブス』が西部劇の範疇に数えていることに違和感を感ずるのは私だけだろうか。長編監督デビュー作となるケビン・コスナーが主演・監督・製作を務めている。1988年に発表されたマイケル・ブレイクの小説『ダンス・ウィズ・ウルブス』を映画化したもので、アメリカ開拓時代に駐屯地を求めて旅立った北軍のジョン・J・ダンバー中尉がラコタ族の一団と出会う物語である。特筆すべきは従来のハリウッドの西部劇に見られるステレオタイプ的な物語とは違うことだ。アメリカ先住民との交流をちゃんと描いているからだ。従来は先住民を悪として描いた作品がほとんどで問題になっていた。なぜなら、彼らの土地に勝手に現れたのが白人で、略奪の限りを尽くしているのに悪役を先住民に設定するという誤った歴史認識だからである。本映画にも先住民に対する差別的な表現はあるが、それは敢えて逆説として入れ込んでいいる。だから映画を観ていると白人の極悪ぶりが如実にわかるのである。もちろん過去にも先住民の人たちに敬意を評した映画はあったが、本映画のように劇中の言葉もちゃんと用いる作品はあまりみられなかった。そういった意味でもケビン・コスナーの挑戦は成功し、先住民の人権を守ることにも繋がっているのである。コスナーは1994年の『ワイアット・アープ』で主演、製作も兼任した。「OK牧場の決闘」で知られる伝説の保安官を主人公とした伝記映画で、伝説とは違った本当の姿を描いている。年老いた主人公が昔を偲びつつ、アラスカに向かう船上の姿を映したラストシーンが印象的だった。かくして「西部劇」の幕は降ろされた。

Native American フレデリック・J・ターナー(1861–1932)著『アメリカ史における辺境の意義』1893年(英文)

2022年11月8日

アメリカ先住民の精緻なビーズ細工のバッグ

Seneca Type Beaded Bag
Seneca Type Beaded Bag 1800-1830

Ah-Weh-Eyu (Pretty Flower)1908 loupe

アメリカ東北部先住民のビーズ細工研究者であるジェリー・バイロンは、自らのブログ「イロコイ連邦とワバナキ連邦の歴史的なビーズ細工」に、アーティストの立場から次のように書いている。イロコイは五大湖湖畔のカユーガ族、モホーク族、オナイダ族、オノンダーガ族、セナカ族、タスカローラ族の連邦国家である。一方ワバナキはミクマク、マリシート、パサマクォディ、ペノブスコットの4つの主要な東部アルゴンキン語群の北米先住民とネイティブアメリカンの連合である。西部アベナキ族もメンバーと見なされており、ソコキ族、カワサック族、ミシコイ族、アルシガンテゴク族など、多くの同盟部族の人々のゆるいアイデンティティとなっている。

以下は私が取り組んでいる最新のデザインの一部で、新型コロナウィルスが蔓延している間の暇つぶしです。世界中の先住民にとって、盾は肉体的・精神的な危害から身を守るためのものでした。 また盾は良薬の象徴でもあります。私の意図は北東部ウッドランドの古いビーズバッグのデザインからインスピレーションを得たものや、動物やその他の自然界の側面からインスピレーションを得た盾のシリーズを作ることです。古いビーズ細工のデザインの多くには、隠された意味が織り込まれており、後世に残すべき文化的モチーフなのです。最古のビーズ細工には、ファインアートのような精神的なクオリティがある。北東部の森林地帯の人々が困窮し、壊滅的な文化的損失の状況下で存続に苦心していた時期に発足したビーズ細工は、ひとつひとつが努力の結晶であるだけでなく、文化的抵抗と存続のための戦略であった。それは生き残るための芸術だったのです。

右上の写真は前エントリ―「絵葉書のモデルになったセネカ族の美しい女性」で紹介したアレガニー居留地出身の Ah-Weh-Eyu(可愛い花)英語名 Goldie Jamison Conklin(ゴルディー・ジャミソン・コンクリン)である。赤い丸で囲んだビーズ細工のバッグに注目して欲しい。彼女は腰のベルトから、彼女自身が作ったビーズのバッグを下げている。フラップがないため、モデル活動をしながら同時進行で彼女自身が作ったバッグと思われる。中央には、セネカ族の作品によく見られる大きなハートのモチーフが描かれている。アメリカの文化人類学者ルイス・ヘンリー・モーガンは「目と味が最大の頼りだ、色の組み合わせにおいては、経験と観察の結果である一定の一般的なルールに従うが、それを超えて各自が自分の好みを追求する」と報告している。

Seneca Style Beaded Bag
Tonawanda Seneca Style Beaded Bag Mid-19th Century

ニューヨーク州西部トナワンダ居留地のセネカ族スタイルのビーズ細工バッグは、決して強いコントラストを求めず、白を挟むことでその力を弱め、色彩を調和させている。水色とピンクのビーズに白のビーズを挟むのは好ましい組み合わせであり、濃い青と黄色に白を挟む組み合わせ、赤と薄い青に白を挟む組み合わせ、そして薄い紫と濃い紫に白を挟んだ組み合わせなどである。このビーズ細工を批判的に調べると、これらの一般的な規則が厳格に守られていることがわかる。花の芸術と呼ばれるものは、ビーズ細工の中で最も難しい部分である。なぜなら、花の外観と、植物が表現される段階での構造と状態についての正確な知識が必要とされるからである。バッグはアーティストが技術や芸術的なビジョンを表現するためのキャンバスだった。しかしその裏側には、美しいものに内在するパワーが生活の中心にあった。 ビーズ細工は、アーティストたちが宇宙に対する深い信仰を表現するための言語だったのである。しかしそのデザインの中には、自然界との神聖な関係を表すシンボルやモチーフで語られる人々の物語が埋め込まれている。なおジェリー・バイロン著『歴史的なイロコイ連邦のお土産用ビーズバッグ』は、日本でも下記リンク先の通販サイト Amazon で購入できる。

Native American Girl A Cherished Curiosity; The Souvenir Beaded Bag in Historic Haudenosaunee (Iroquois) Art

2022年11月6日

アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス

An Oasis in the Badlands, South Dakota, 1905
Edward Curtis

1868年2月19日、ウィスコンシン州ホワイトウォーター近郊の農場で生まれたエドワード・カーティスは、後にアメリカ屈指の写真家、民俗学者となる。1887年にカーティス一家がワシントン州ポートオーチャードに移住すると、カーティスは写真の才能に恵まれ、シアトルのウォーターフロントに住む、アメリカ先住民(ネイティヴアメリカン)を調査することになった。彼の写真 "Homeward"(家路へ向かう)は、写真展のコンテストで最高賞を受賞した。アメリカ先住民との仕事で有名になったカーティスは、エドワード・ヘンリー・ハリマン(1848–1909)による1899年のアラスカ遠征に写真家として参加した。その後 "Forest and Stream"(森と小川)の編集者ジョージ・バード・グリネル(1849–1938)のモンタナ州北部への旅に同行した。そこで彼らは、ピーガン族とブラックフット族の深く神聖なサンダンスに立ち会った。馬に乗り、荷を負った馬を引き連れて、彼らは断崖絶壁で立ち止まった。 眼下には1,000を超えるティピー(天幕)が立ち並ぶ谷底の景色が広がり、カーティスはその光景に圧倒された。この出来事は彼の人生を大きく変え『北アメリカのインディアン』の制作にインスピレーションを与えることになった。

Standing on a whale, Mantana, British Columbia, ca 1927

700点以上の大型ポートフォリオ画像、1,500点以上のボリュームサイズの画像、7,000ページ以上のテキストで構成された『北アメリカのインディアン』は、その画像と創作の両方においてアメリカの歴史的遺産となっている。1492年、アメリカ先住民の人口はおよそ5千万人だったが、1900年には、わずか23万人しか残っていなかった。カーティスは、この巨大な仕事を引き受けるにあたり、アメリカ先住民の部族の文化や生活様式が「永遠に失われる」前に記録することを目指した。しかし今日では、彼の写真は、アメリカ先住民の生活と文化をロマンチックに表現し、彼らが生きていた厳しい現実をないがしろにしたという批判もある。写真は人間によって作られるものであり、完全に真実であったり客観的であったりすることはあり得ないのだが。

Sunset on Puget Sound
Sunset on Puget Sound, State of Washington, 1898

写真家は、ストーリーのどの要素を伝えるか、構図の中で物理的に何をフレームに入れるか、写真が提示されるべき文脈を決めなければならない。真実とその操作の問題は、しばしば一筋縄ではいかないものである。作品を作るとき、あるいは消費するとき、私たちは、この写真はどのように情報を隠し、見る人を誤解させるかもしれないかを考えなければなりません。その結果、撮影された人々にはどのような影響があるのだろうか。『北アメリカのインディアン』は、私たちが消費するイメージの背後にある動機を認識し、写真が有害な視覚的物語を作り出す可能性があることを認識し、倫理的慣行に警戒し続けることの重要性を例証している。カーティスは1952年10月19日、カリフォルニア州ロサンゼルスの娘ベスの自宅で心臓発作のため死去した。84歳だった。

Native American Edward Curtis and "The North American Indian": An Exploration of Truth and Objectivity

2022年11月4日

マイナンバー制度ゴリ押しで四面楚歌の岸田文雄

普及しないマイナンバーに焦る岸田政権
普及しないマイナンバーに焦る

私はマイナンバーカードを持っている。浪人の身になってから、運転免許証もパスポートもなく、写真付き身分証明書がないと困ることもあるので作ったという経緯がある。要するに「任意」であったが、政府は唐突に「義務化」に舵を切った。2021年3月の衆院内閣委員会で、当時首相だった菅義偉は、マイナンバー制度に関して国が支出した費用は過去9年間で8,800億円に上ると明らかにした。野党から「コストパフォーマンスが悪過ぎるのではないか」と指摘されると菅は「確かに悪すぎる」と語った。それから1年、総務省のPDF「マイナンバーカード交付状況について」によると2022年9月末現在、全国の人口に対する交付枚数率は49.0%で、半数に満たないのである。カード普及のため、さらに1兆8,000億円を投じようとしている。カードのメリットを盛んに強調するが、その費用対効果にまで言及することはほとんどない。しかも政府は健康保険証を2年後に廃止し、マイナンバーカードと一体化するという方針を打ち出している。これには大半の国民だけではなく、医療関係者や専門家団体からも反対意見が多く見られ、2年以内に普及する可能性は不透明である。

マイナンバー

岸田文雄は記者会見で「紛失などの何らかの事情により手元にカードがない人が保険診療を受けられる制度を用意する必要がある」と述べている。また加藤勝信厚生労働大臣は、保険料を支払っていれば、カードを持っていない人も保険診療を受けられるよう、関係省庁と連携して制度の検討を進める考えを示した。「保険料を納めていれば、保険診療を受けられる制度を用意する」のは当然だが、被保険者であることを示す証明書の発行などを検討しているようだ。紙の保険証でもなく、マイナンバー保険証でもなく、さらに保険証が手元になくても保険診療を受けられる「資格証明書」でもない「第4の方法」を作ると答弁、まさに支離滅裂、一体何を考えているのだろうか。安倍晋三の「国葬」を強行し支持率を落としたが、息子の岸田翔太郎を首相秘書官に起用するというはなはだしい公私混同。最近では統一教会との濃厚接触で経済再生相の椅子から転がり落ちた山際大志郎を、わずか4日後に新型コロナウイルス対策本部長に任命するという悲喜劇を演じた岸田文雄は「聞く力」を備えた「検討使」ではなく、ただの風見鶏、人の意見に耳を貸さない独裁者もどきのようだ。支持率低下により失脚しても、次に誰が首相になるかと思えば、暗澹たる気持ちに陥ってしまうのは私だけだろうか。

PDF_BK  総務省「マイナンバーカードの市区町村別交付枚数等について」(PDFファイル 811KB)

2022年11月3日

イーロン・マスクが買収したツイッター の前途に対する懸念

Rahma Cartoons

米起業家のイーロン・マスクがツイッターを440億ドル(約6兆4,900億円)で買収、ブレット・テイラー会長やパラグ・アグラワル前 CEO(最高経営責任者)ら9人の取締役全員を解任し、自ら CEO に就任した。マスクは宇宙開発企業スペースX創設者および CEO、電気自動車企業テスラの共同創設者である。これに反駁したのが 米自動車最大手 GM で、ツイッターへの広告出向停止を発表した。ただし有料の広告出稿を一時的に停止するのは、プラットフォームに大きな変化があったときの通常の慣行に従ったものだという。ツイッターを介したカスタマー対応の発信は、これまでどおり続けるという。日本のトヨタ自動車も広告を出稿しているが、テスラはいわば競合企業、何らかの措置をとるのだろうか。ロイター通信によると注目すべきは、マスクがアカウントが本物であることを示す青色の「認証済みバッジ」を有料化すると発表したことである。ブルーのバッジの課金月額8ドル(約1,180円)は「購買力平価に比例して」国ごとに調整されるとしたようだ。

Twitter

ところで取締役を解雇されたヴィジャヤ・ガデは、2021年1月の米連邦議会議事堂の襲撃事件を受けて、ドナルド・トランプのアカウントを永久凍結する決定を下した委員会のトップも務めていた。一方のマスクは2022年5月、自分ならドナルド・トランプのアカウントの凍結を解除すると語っている。コンテンツの規制は、あらゆるプラットフォームにおいてユーザーのセキュリティに大きな影響を与える。ヘイトスピーチや暴力的な誤情報を対象とする場合はなおさらである。ツイッターを政治家をはじめ、著名人、そして多くの一般ユーザーが言論の道具として使っているという現実がある。セキュリティ対策に対し重大な懸念を禁じ得ない。今後の推移を見守りたいが、成り行き次第ではアカウント放棄も視野に入れる必要に迫られかもしれない。下記リンク先は「イーロン・マスクのツイッター買収を批評家が地獄に例える」と題したニューズウィーク誌の記事である。

Newsweek  Emma Mayer | Elon Musk's Twitter Takeover Compared to Hell by Critics | Newsweek

2022年11月1日

絵葉書のモデルになったセネカ族の美しい女性

Seneca girl
Ah-Weh-Eyu (Pretty Flower) aka Goldie Jimerson Conklin ca.1910

写真のモデルはニューヨーク州南西部カタラウガス郡にある、アレガニー居留地出身のセネカ族の女性 Ah-Weh-Eyu(可愛い花)別名 Goldie Jamison Conklin(ゴルディー・ジャミソン・コンクリン)である。1891年生まれ、1910年ごろ撮影とされているので、18歳前後だったと想像される。彼女はインディアンブランドのナイフを含む、さまざまな家庭用品の販売のための広告絵葉書のモデルとして、ニューヨーク州リトルバレーのカッタローガス・カトラリー社に採用された。先住民が米国文化で人気を博した時代に一世風靡した美しい女性である。当時の多くの企業が、新奇な広告として先住民族を利用した。映画の世界では「高貴な野蛮人」「インディアンの王妃」といったステロタイプが流行ったが、王様はいなかったし、従って「インディアンの王妃」は存在しなかった。カナダのノバスコシア州のミークマック族が先祖の芸術家ジェリー・バイロンのブログ 「イロコイ族とワバナキ族の歴史的なビーズワーク」 に、ゴルディーの絵葉書の写真が多数掲載されている。

Post Card
カッタローガス・カトラリー社の広告絵葉書(1910年頃)

ワバナキというのはり4つの主要な東部先住民族、すなわちミエックマク族、マリシート族、パッサマクオディ族、ペノブスコット族の連合のことである。そのビーズ細工をテーマにしているブログだが、ゴルディーが自作したと思われるビーズ細工のバッグに注目している。ゴルディーは1912年頃にチャールズ・コンクリンと結婚したが、かなり貧しい生活を強いられたようだ。1913年に長男チェスター、そして1918年に次男ロバートを出産、さらに4人の男の子が生まれた。ロバートの息子、すなわち孫のジム・コンクリンが2011年にバイロンのブログに「祖母ゴルディーは1891年に生まれたと私は信じています」とコメントしている。一般には2012年生まれという記述が多いからだろう。ゴルディーは1974年に他界した。2020年7月、米東部メリーランド州ボルティモアで人種差別に抗議するデモ隊が、イタリアの探検家クリストファー・コロンブスの像を引き倒した。コロンブスは「新世界」の発見者として長らく称賛されてきた。しかし現在では先住民族の虐殺者とする見方が広がり、南北戦争を戦った奴隷制支持の南軍将軍らと同様に非難の的となっている。忌まわしき植民地主義によって、先住民族の土地が奪われていった歴史が、ゴルディーの美しい写真とオーバーラップする。

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