2021年10月27日

西欧美術を米国に紹介した写真家スティーグリッツの功績

Hand of Man
The Hand of Man, Long Island City, New York, 1902
Alfred Stieglitz

写真家であり画商でもあったアルフレッド・スティーグリッツほど、20世紀のアメリカの芸術や文化に強い影響を与えた人物はいないだろう。南北戦争中の1864年にニュージャージー州のホーボーケンに生まれ、1946年まで生きたスティーグリッツ。ベルリンでの学生時代に写真を撮り始め、著名な光化学者であるヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲル(1834–1898)に師事した。1890年に帰国したスティーグリッツは、写真を芸術として扱うべきだと主張し始めた。1902年には、写真の芸術性を確立するための写真家の組織「フォトセセッション」を結成する。スティーグリッツは25年以上にわたってニューヨークを撮影し、街並みや公園、新しく出現した高層ビル、馬車、トローリー、列車、フェリーボート、そして人々の姿を描いてきた。また、1910年代後半から1920年代前半にかけては、ニューヨーク州のジョージ湖にある別荘周辺の風景にもカメラを向けていた。1918年、後に妻となる画家ジョージア・オキーフの撮影に夢中になった。長い間、一人の人間を長期間にわたって撮影する、いわゆるコンポジットポートレイトを撮りたいと考えていたのである。それから19年の間に、彼は330枚以上の彼女のポートレートを完成させた。

Georgia O'Keeffe Nude
Georgia O'Keeffe Nude No.9, Undated

1922年から1920年代にかけて、もうひとつの主題である「空の雲」に夢中になり、300点以上の習作を完成させた。スティーグリッツは、2つの世界大戦、世界大恐慌、そしてアメリカが農村の農業国から工業国、文化大国へと成長していく過程など、アメリカがこれまで経験してきた最も大きな変化のいくつかに立ち会った。しかし、さらに重要なことに、彼はこれらの変化のいくつかをもたらすことに重要な役割を果したことである。パブロ・ピカソ(1881–1973)アンリ・マティス(1869–1954)ジョルジュ・ブラック(1882–1963)ポール・セザンヌ(1839–1906)などの作品を、1905年から1917年まで運営していた五番街291番地の「リトル・ギャラリー・オブ・ザ・フォト・セセッション」、1925年から1929年まで運営していた「インティメート・ギャラリー」、1929年から1946年まで運営していた「アン・アメリカン・プレイス」など、ニューヨークのギャラリーを通じ、ヨーロッパの近代美術をアメリカで初めて展示したのである。

Last Joke, Bellagio, Italy
The Last Joke, Bellagio, Italy, 1887

またジョージア・オキーフ(1887–1986)アーサー・ダブ(1880-1946)ジョン・マリン(1870-1953)マースデン・ハートリー(1877-1943)チャールズ・デマス(1883-1935)など、アメリカのモダニズム芸術家たちを支援した。スティーグリッツにとって写真は常に中心的な存在だった。それは、彼が自分自身を表現するために用いたメディアであるだけでなく、より根本的には、彼がすべての芸術を評価するための試金石でもあった。コンピューターやデジタル技術が、今世紀の私たちの生活だけでなく、思考をも支配することが明らかになっているように、スティーグリッツもまた、同時代の多くの人々よりもずっと早く、写真が20世紀の文化的な主要勢力となることを認識していた。

Songs of the Sky
Songs of the Sky, Lake George, New York, 1922

彼が「写真のアイデア」と呼んだものに魅了され、写真が学習やコミュニケーションの方法のあらゆる面に革命をもたらし、すべての芸術を大きく変えることを予見していたのである。スティーグリッツが写真というメディアを理解する上で中心となったのは、彼自身が撮影した写真であり、写真の表現力や他の芸術との関係性を探るための道具だった。彼が写真を撮り始めた1880年代初頭、写真というメディアはまだ40年も経っていなかった。しかし、スティーグリッツが1937年に体調を崩して写真撮影を中止した頃には、写真とそれに対する一般の人々の認識は大きく変わっていた。『カメラノート』『カメラワーク』『291』などの出版物、自ら企画した展覧会、そして明快で洞察に満ちた自らの写真によって、スティーグリッツは写真というメディアの表現力を決定的に示したのである。

museum  Alfred Stieglitz (1864–1946) Photography Collection | The Art Institute of Chicago

2021年10月25日

プラハ最古の橋の架け方を描いたアニメがすごい

カレル橋建設 - 柱とアーチの構造を解説したアニメ

このアニメーションは、1357年に建設されたプラハのシンボルであるカレル橋の建設過程を解説している。実に精巧なつくりで感心する。この歴史的な橋は、チェコ共和国のプラハにあるヴルタヴァ川(モルダウ川)に架かっている。最初の数世紀は「石橋」と呼ばれていた。建設は、チェコの国王であり神聖ローマ皇帝であるカレル四世(1316–1378)の命により、1357年に開始された。建設を担当したのは、プラハ城の聖ヴィート大聖堂などを手がけた建築家のペトル・パルレー(1333–1399)である。橋を強化するために、モルタルに卵黄を混ぜたと言われている。この橋はカレルの治世下に建設された数多くのモニュメントのひとつだが、プラハ旧市街とその周囲を結んだ最初の橋ではない。ヴルタヴァ川に架けられた最初の石橋はジュディス橋である。1172年に建設されたが、1342年の洪水で崩壊した。カレル橋の両端にはそれぞれ塔が立っている。

カレル橋の夜景
ヴルタヴァ川に架かるカレル橋の夜景

旧市街側のスタロメストスカー・ヴィエズとマラーストラナ側のマロストランスカー・ヴィエズはどちらも登ることができ、上からプラハ市街と橋を眺めることができる。17世紀に橋の両脇に合計30体のバロック様式の像が置かれるようになった。その多くがコピーで、オリジナルはラピダリウム博物館で見ることができる。最も人気のある像は、ヴェンセスラス四世の時代に橋からヴルタヴァ川に投げ込まれて処刑されたチェコの殉教聖人ネポムクの聖ヨハネ(c.1345–1393)の像だろう。像のプレートは、何世紀にもわたって数え切れないほどの人々が触ったことで、ピカピカに磨かれている。この像に触れると幸運が訪れ、確実にプラハに戻れると言われているからだ。カレル橋は、プラハを訪れる人の必見リストのトップに挙げられる橋である。特に夕暮れ時には、ライトアップされたプラハ城が夜空に浮かび上がり、息を呑むような光景が見られるという。かつては路面電車も自動車も通行可能だったが、現在は歩行者天国になっている。

WWW プラハのカレル橋(Charles Bridge)チェコ共和国観光局オフィシャルブログ(日本語)

2021年10月24日

時代の風潮に左右されず独自の芸術観を持ち続けたプラハの詩人ヨゼフ・スデック

Noční Prague
Noční Prague, Česko, 1950–59
Josef Sudek (1896-1976) 

写真家ヨゼフ・スデックは「プラハの詩人」と呼ばれた。1896年3月17日、当時オーストリア・ハンガリー帝国の王国であったボヘミア地方のコリンに生まれた。製本を学んだが、1916年、第一次世界大戦で右腕を切断する怪我をしたが、これをききっかけに写真を撮り始める。プラハの退役軍人病院で3年間の療養生活を送るが、その間スデックは患者たちの写真を撮り続けたという。この頃、戦争で破壊された風景などの写真を数冊のアルバムにまとめている。芸術的なスタイルや形態の規範や規定された限界を受け入れることができず、終生、彼の人生に付きまとった。腕を切断されたことがトラウマになった彼にとって、写真は、孤独な生活を超えて、仲間の生活や環境を覗き見ることができる、救いのようなものだったようだ。彼の写真にはほとんど人が写っておらず、憂鬱な雰囲気が漂っている。肉体的な限界を補うために努力し、非常に忍耐強く、完璧さを追求することを原動力としたのである。その作風は、印象派、シュルレアリスム、魔術的リアリズム、新ロマン主義、前衛、チェコ・ポエチズム運動などの特徴を持っているが、中心となるのは、低音域の光の価値の多様性と、光が独自の空間を占める物質として表現されていることである。クラシック音楽や有名な画家や詩人の友人たちに囲まれて、一匹狼のエキセントリックな人物という烙印を押されてしまった。いくつかの政治体制を経験したが、時代の風潮に左右されることなく、常に独自の芸術観を持ち続けた。決して脚光を浴びようとはせず、自分の興味を引くことに没頭したのである。

magic garden
V kouzelné zahradě, 1954–1959

通常の生活ができるようになると、彼はプラハに定住し、障害者年金を補うために委託された写真撮影で生計を立てていた。チェコの前衛写真家のヤロミール・フンケ(1896–1945)と出会い、アマチュア写真クラブにも参加した。1922年、彼はプラハのグラフィックアートの学校で新しい職業の正式な教育を受け始めた。師匠だったカレル・ノヴァク(1905–1975)をはじめとするチェコの伝統的な写真家たちは、20世紀で最も影響力のあるアメリカの写真家、エドワード・ウェストン(1886-1958)とピクトリアリズムを彼に紹介した。しかしスデックの初期の作品に見られるのは、光と影を使って立体的なムードを醸し出し、ハイライトから仮想的な光を放つクラレンス・ホワイト(1871–1925)の作品の影響を受けている。他の若い写真家たちとともに伝統的な絵画的アプローチを否定し、モダニズムの考え方を取り入れていった。1940年代に入り、ナチスにより撮影活動が制限、戦後も社会主義体制のもとで極度に戸外での撮影制限されされたため、窓からの眺めを撮影したが、これは結果的にはシリーズ「アトリエの窓から」という傑作を残したのだった。当時、特にアメリカではアンセル・アダムス(1902–1984)のようなストレート写真がプリントの理想とされていた。

Dernière Rose
La Dernière Rose, Prague, 1956

スデックはこの手法から距離を置き、非常に暗く、コントラストの低い画像を使うようになった。その後の彼の作品は、商業的なものも個人的なものも含めて、ほとんどすべてがネガからのコンタクトプリントだった。その写真は限られた色調に頼ることが多く、暗くて陰鬱で、まるで人間であろうとなかろうと、被写体の人生が外界から守られているかのような、非常に主観的なものだった。第二次世界大戦後、ナチスの強制収容所から生還したチェコ系ユダヤ人のソニア・ブラティ(1923–2000)をアシスタントとして雇った。仕事熱心な上司に対し、彼女はホロコーストのトラウマを引きずっていた。ブラティはアメリカに移住したが、スデックは300点以上のプリントを彼女に送り続けたのだった。スデックの個人主義はチェコの共産主義体制下ではうまくいかなかった。その結果、フンケとともに自ら共同で設立したフォトクラブ・プラハ追い出されてされてしまう。そこで同じモダニズムの考えを持つ写真家を集め、1924年に「前衛チェコ写真協会」を結成した。それでも光はスデックのキャリアを通じて魔法をかけ続けた。幸いなことに、彼の作品を支持する奇特な人たちによって芸術を実践することが可能となり、出版され続けたのである。

Muj Atelier
Muj Atelier, Prague, 1956

彼は写真家として初めて国から「芸術功労者」の称号を与えられた。かさばる木製の三脚に固定された彼の猫背の姿は、プラハではなかなかの見ものだった。スデックの写真表現を決定的にしたのは、1926年にチェコフィルハーモニー管弦楽団に同行、イタリアを旅した時の出来事だった。コンサートから抜け出した彼は、夜露に濡れた街の光景に強く打たれる。そして「もうどこにも行かない」と決心、プラハの都市景観撮影に集中、1933年に最初の個展開催にこぎつけた。1940年代に入り、ナチスにより撮影活動が制限、戦後も社会主義体制のもとで極度に戸外での撮影制限されされたため、窓からの眺めを撮影したが、これは結果的にはシリーズ「アトリエの窓から」という傑作を残した。晩年はパノラマカメラも導入したが、大判の木製ビューカメラが主な撮影道具であった。健常者でも操作が厄介であるが、片腕というハンディを乗り越えた点に敬服するが、何よりも作品自体の素晴らしさに畏敬の念を抱かざるを得ない。生涯に16冊の本を出版し2万枚以上の写真とその倍の数のネガを残したが、そのほとんどが未発表である。80歳で他界するまで撮影を続けたが、独身を通した。

aperture_bk Josef Sudek (1896-1976) Biography and Collected Photographs | The Baruch Foundation

2021年10月21日

ロバート・キャパのカラー写真

Actress Geraldine Brooks
Actress Geraldine Brooks trying on a dress, Rome, 1951
ISBN-10 : 9783791353500

ロバート・キャパ(1913–1954)は、1940年代から彼が亡くなる1954年まで、カラーフィルムを常用していた。これらの写真の一部は、当時の雑誌に掲載されたが、大半は印刷されたことも、見られたことも、研究されたこともなかった。長い間キャパのキャリアのこの側面は事実上忘れ去られていたのである。カラーフィルムの使用は戦後の記事で爆発的に増えた。これらの写真は、世界中の普通の人々や異国の人々の生活を、アメリカやヨーロッパの読者に届けたもので、キャパの初期のキャリアの大半を占めていた、戦争ルポルタージュとは明らかに異なっていた。1940年代後半、キャパは戦後の生活を取材するためにソ連、ブダペスト、イスラエルを訪れた。戦前のモノクロ写真での人間の感情との関わり合いにより、キャパはモノクロフィルムとカラーフィルムの間を容易に行き来することができた。キャパはカラー写真の魅力と誘惑に頼った、よりグラマラスなライフスタイルを読者に提供した。1950年には『ホリデイ』誌が開拓した旅行市場に向けて、スイス、オーストリア、フランスのスキー場や、ビアリッツ、ドーヴィルといったフランスのおしゃれなリゾート地を取材している。またセーヌ川のほとりやヴァンドーム広場でのファッション写真にも挑戦した。

B-17 gunner
B-17 gunner awaits take off from a Royal Air Force base, England, 1942

captured German tank
American soldiers posing with a captured German tank, Tunisia, 1943

Spectators
Spectators at the Longchamp Racecourse, Paris, circa 1952

Vietnam
On the road from Namdinh to Thaibinh, Vietnam, Indochina, 1954

また多くの映画俳優と親交があったキャパは、イングリッド・バーグマン(1915–1982)ハンフリー・ボガート(1899–1957)オーソン・ウェルズ(1915–1985)ジョン・ヒューストン(1906–1987)ジェラルディン・ブルックス(1925–1977)などを、ヨーロッパの映画撮影現場での親密な様子を撮影している。キャパがカラーフィルムを使ってどのように新しいものを見始めたか、そしてキャパの作品が戦後の新しい感性にどのように適応したのだろうか。この新しいメディアは、彼に色の構成を再調整することを要求したが、同時に新しい場所に連れて行かれて楽しむことに興味を持っている、戦後の観客にも適応しなければならかったからに違いない。ロバート・キャパの写真は、弟のコーネル・キャパ(1918–2008)が設立した、ニューヨークの ICP(国際写真センター)がパーマネントコレクションをしている。35mmのコダクローム、エクタクローム、さらに大きなコダクロームなど、約4,200枚のカラーリバーサルフィルムと、数1,000枚のモノクロプリント、ネガフィルム、書類、新聞や雑誌の切り抜きなどがアーカイブされている。

ICP  Robert Capa (1913–1954) Color Photographs | International Center of Photography

2021年10月19日

フォトジャーナリズムの手法を芸術の域に高めた写真家ユージン・スミスの視線

Welsh miners
Three Generations of Miners. A Welsh Coal-Mining Town, Wales, Great Britain, 1950

私は事実の記録者であるジャーナリストの態度と、しばしば事実と対立せざるを得ないアーティストの態度との間でいつも悩んでいる。私の主な関心事は正直であること、そして何よりも自分自身に対して正直であることです。(ユージン・スミス)

Eugene Smith (1918–1978)

ユージン・スミスは1918年12月30日、カンザス州ウィチタ生まれた。父親は小麦商を営んでいたが、13歳のとき、熱心な写真愛好家だった母親にカメラを与えられる。スミスが高校3年生のときに父親が自殺した。カメラに夢中になったが、それはおそらくスミスが悲劇的な喪失感に対処するためだったのだろう。若いながらも写真の才能はすぐに開花し、地元の新聞社に雇われて、スポーツ、航空、ダストボウルの惨状などを撮影した。その才能を買われて、スミスはノートルダム大学で写真を学ぶための特別な奨学金を得たが、最初の学期で退学してしまった。落ち着きのない彼はニューヨークに行き『ニューズウィーク』誌に採用された。その後『ライフ』誌と契約したが、フリーランスとして『コリアーズ』『アメリカン』『ニューヨークタイムズ』『ハーパーズバザー』などの定期刊行物にも参加した。その間に結婚し、二人の子供をもうけた。

Country Doctor
Dr. Ceriani visits his patients in their remote villages, Colorado, 1948

スミスは『ライフ』誌の戦争特派員として配属され、感情を込めた真実の写真が伝説となった。スミスにとって重要だったのは、心を込めて正確に戦争を撮影することだった。彼は太平洋とヨーロッパで26回の空母の戦闘任務と13回の侵攻作戦を陸、海、空から撮影した。写真は日本の雑誌にも掲載された。1945年5月22日、米軍の沖縄侵攻の際、撮影は中断された。手榴弾によって顔と手に重傷を負ったのである。幾度もの手術と回復のための苦しい2年間を経て、スミスはカメラを持つのがやっとの状態だった。しかしそれは希望と幸福のしるしであり、社会性のあるイメージを作りたいという必要性と欲求の高まりを感じていた。「初めて写真を撮ろうとした日は、フィルムをカメラに入れるのがやっとでした。しかし最初の写真は、戦争の写真とは対照的に、生きることへの肯定を語るものにしようと決意しました…」。負傷した後の最初の写真は、暗い森の中から出てくる幼い二人の子供を撮った『楽園への歩み』だった。この写真は、エドワード・スタイケン(1879–1973)が1955年にニューヨーク近代美術館で開催した「ファミリー・オブ・マン」展の最後の写真として選んだ、彼の最も有名で、最も愛されている作品のひとつである。

Village of Deleitosa
The Wake, Village of Deleitosa in Western Spain, 1951

仕事に戻ったスミスは、有名な「カントリー・ドクター(1948年)」「スペインの村(1950-51年)」「慈悲の人シュヴァイツァー(1954年)」「ピッツバーグ(1955–56年)」など、挑発的なフォトエッセイのシリーズを制作した。スミスは何週間もかけて被写体の生活に密着したが、これは当時としてはほとんど前代未聞のアプローチだった。スミスのフォトジャーナリズムの手法は最先端で素晴らしいものであったが『ライフ』誌の編集者との関係には苦労したようである。写真とそのレイアウトが、自分の個人的なビジョン以外のものであることを許さなかったのである。 同誌を辞めてフォトジャーナリズムの権利を支持し闘うマグナムに参加した。スミスは『ライフ』を退社した後も、3度のグッゲンハイム財団の奨学金を得て、フォトエッセイの制作を続けた。その中でも特に大きなフォトエッセイは、ピッツバーグの街を撮影したものだった。ピッツバーグに移り住み、このプロジェクトに夢中になった。

Pittsburgh
Dance of the flaming coke, Pittsburgh, Pennsylvania, 1955

11,000 枚以上の写真を撮影したが、このプロジェクトの後、肉体的にも精神的にも、そして経済的にも破綻してしまったのだった。写真は出版されず、マグナムとスミスの家族に混乱をもたらした。マグナムと家族のもとを去り、ニューヨークに移り住んで、窓からのイメージを次々と制作していった。より成功したフォトエッセイが「MINAMATA(1971-75年)」だった。アイリーン・美緒子・スプレイグと結婚、水俣をテーマにした熱のこもったプロジェクトを開始した。水俣湾の水は工業化によって水銀で汚染されていた。世代を超えて、恐ろしい欠陥を持った人々が生まれていたのである。このシリーズで最も有名なのが、胎児性患者の上村智子さん母娘の入浴シーンの写真である。アシスタントのアイリーンに直接聞いた話だが、自然光が差し込む時刻に、彼女が手にしたストロボで天井バウンスをしたそうである。喩えがいささか飛躍するが、事実を再現したロベール・ドアノー(1912–1994)の「市役所前のキス」に似た演出だった。しかしこの入浴シーンの写真で水俣病の悲惨を知ったことも事実である。 英国のハンウェイフィルムズが、ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA」を制作、2021年8月、日本でも公開された。史実と違う描写があり議論になったようだ。映画は娯楽と言ってしまえばそれまでだが、映画もまた現代史の記録媒体だけに残念である。

Tomoko and Mother
Tomoko and Mother in the Bath, Minamata, Kumamoto, 1972

その後、スミスは数多くの賞を受賞し、教育や講演ために各地を訪れた。1977年にはアリゾナ大学で教えるためにアリゾナ州ツーソンに移り同大学の「創造的写真センター」でアーカイブを整理していた。1978年10月15日、スミスは致命的な脳卒中に見舞われた。彼は火葬され、その遺灰はニューヨーク州ハイドパークのクラムエルボー農村墓地に埋葬された。ユージン・スミスは、1984年に国際写真殿堂博物館に殿堂入りしたが、レンジファインダー誌がその名誉パネルのスポンサーとなっている。その革新的なフォトジャーナリズムと、フォトエッセイのスタンダードを確立したことが評価され、殿堂入りを果たしたのである。写真家兼ギャラリーキュレーターハル・グールド(1920–2015)は「20歳で有名になり、40歳で伝説となった」と述べている。1940年代から50年代にかけて、創造的な写真の最先端がフォトジャーナリズムに見出されていた時代に、スミスの深く人間的なスタイルの写真ルポルタージュは、フォトエッセイの表現の可能性を絶えず再構築し、大きな信用を得るまでに拡大したのである。アリゾナ大学の「創造的写真センター」がユージン・スミスの最大のコレクションを所蔵している。3,000 枚のマスタープリント、数1,000 点に及ぶネガフィルム、コンタクトシート、プルーフプリントやスタディプリント、ブックダミー、雑誌のレイアウト、手紙、カメラ、暗室の機材、記録などが含まれている。ユージン・スミス記念基金が設立され、人道的な写真撮影に貢献した写真家を表彰する助成団体となっている。フォトジャーナリズムを芸術の域に高めた写真家だった。

university Eugene Smith Online Collection | Center for Creative Photography | University of Arizona

2021年10月17日

日記に最後の晩餐という言葉を残して自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録

Russian midget friends
Russian midget friends in a living room on 100th Street, NYC, 1963
Diane Arbus (1923–1971)

ダイアン・アーバスは、1923年3月14日にニューヨークで生まれ、1971年7月26日にニューヨークで死去したアメリカの写真家で、社会の片隅にいる人々を魅力的に、時には不穏に撮影したことで知られている。ダイアンはデパートの経営者だった裕福なユダヤ人、デビッド・ネメロフ(1895-1963)とガートルード・ルセック(1901-??)との娘で、セントラル・パーク・ウエストで育った。兄は詩人・評論家のハワード・ネメロフ(1920-1991)。18歳のとき、毛皮店「ラッセックス」の従業員だったアラン・アーバス(1918–2013)と結婚した(1969年に離婚)。別れる前の二人は共同で仕事をしており、最初はデパートのための写真撮影と広告制作を行い、その後『ハーパーズバザー』『ショー』『エスクァイア』『グラマー』『ニューヨークタイムズ』『ヴォーグ』などの商業ファッション写真を制作した。写真家ベレニス・アボット(1898-1991)のもとで簡単な写真講座を受けた後、オーストリア生まれのドキュメンタリー写真家、リゼット・モデル(1901-1983)と出会い、1955年から1957年頃まで彼女のもとで学んだ。モデルの勧めもあって、アーバスは商業的な仕事をやめ、ファインアート写真に専念するようになった。

nudist camp
A young waitress at a nudist camp, New Jersey, 1963

1960年、『エスクァイア』誌にアーバスの初のフォトエッセイが掲載され、ニューヨークの恵まれた環境と貧困を効果的に対比させた。その後、彼女はフリーランスの写真家や写真指導者として生計を立てていた。1963年と1966年にはグッゲンハイム財団の奨学金を受け「アメリカの儀式、マナー、習慣」と題したプロジェクトに参加した。35mm のニコンを使っていたアーバスは、写真の構図よりも被写体を強調する正方形のフォーマットに注目、二眼レフのローライフレックス、そしてマミヤ C33 で撮影するようになった。そしてフラッシュを使用することで、作品に演劇性やシュールリアリズムを与えたのである。ヌーディスト、女装倒錯者、小人、心身障害者など、社会や普通の世界からはみ出して生きる「フリークス」を撮影することが彼女のキャリアの大半を占めることになる。

Jewish giant at home
A Jewish giant at home with his parents in the Bronx, NYC, 1970

一方、アメリカの家族や子供たち、社交界の人々を撮影した写真には、紛れもなく暗い雰囲気が漂っていた。つまり彼女は社会のバランスを反転させ、まるで国全体が「のぞき窓」の中に入ってしまったかのようだった。彼女自身が非日常的な被写体に親しみを持って撮影した結果、見る者の共感と共謀を呼び、強い反応を引き起こすイメージとなった。批評家の中には、彼女の作品が被写体に対して驚くほど共感的であると評価する人もいれば、恵まれない人々の生活を覗き見しているような厳しい見方をする人もいた。1971年7月26日、ダイアンは日記に「最後の晩餐」という言葉を書いた。浴室に続く階段の上に予定表を置いた。彼女は大量のバルビツール酸を飲み、服を着たままバスタブの中に横たわった。

circus costume
Girl in her circus costume, Maryland, 1970

そして手首を切ったのである。マービン・イスラエル(1924–1984)が電話をかけても、2日間応答がなかったので、鍵を持って彼女のアパートに入り込んだ。すぐにアランとハワードがに飛んできた。リチャード・アヴェドンはパリに滞在中で、当時26歳だったアーバスの娘ドゥーン(1945-)に直接知らせ、二人は一緒に飛行機で帰ってきた。彼女は妹のエイミー(まだ17歳)に知らせるために、マサチューセッツに車で向かった。ダイアンの師匠であるリセット・モデルは、感傷的な女性ではなく、かつての教え子に何が起こったかを知って、涙を流した。写真家のジョエル・メイヤーウィッツ(1938-)は、後にアーバスの伝記を書いたアーサー・ルボウ(1952-)に「もし彼女がこんな仕事をしていて、写真だけでは生きていけないとしたら、私たちにはどんな希望があるのだろう」と語ったという。

Nudist lady
Nudist lady with swan sunglasses, Pennsylvania, 1965

ダイアン・アーバスはアメリカの歴史上最も有名な写真家の一人であり、最も論争を巻き起こした写真家の一人でもあった。1972年、ニューヨーク近代美術館で開催された大規模な展覧会に合わせて、写真集が出版された。同年、アーバスの作品はヴェネツィア・ビエンナーレに出品され、アメリカの写真家としては初の栄誉に輝いた。2003年には、サンフランシスコ近代美術館で大規模な展覧会が開催され、その後、アメリカとヨーロッパを巡回した。また、約200点の写真と彼女の手紙やノートの抜粋を収録した書籍『ダイアン・アーバスの黙示録』(2003年)も出版された。2007年、アーバスの写真機材、日記、約7,500本のフィルムのネガなど、遺品の全アーカイブがニューヨークのメトロポリタン美術館に寄贈された。下記リンク先の同美術館のサイトで、約250点強の作品を鑑賞することができる。

MoMa  Diane Arbus (1923–1971) Archived Photographs | The Metropolitan Museum of Art

2021年10月16日

大恐慌時に農村や小さな町の生活窮状をドキュメントした写真家ラッセル・リー

Child waiting farther
Child of farmer sitting in automobile waiting for father, Jarreau, Louisiana, 1938

Russell Lee

ラッセル・リーの初期の作品には、人間の窮状や社会経済的な力学に対する感受性と、写真の持つ独特の表現力が反映されており、フランクリン・ルーズベルト米大統領(1882–1945)が大恐慌を克服するために行った、ニューディール政策の一環であった FSAプロジェクト(Farm Security Administration=農業安定局)の有能な人材となった。FSA は1937年までは Resettlement Administration と呼ばれていた。その情報部門の責任者であるロイ・ストライカー(1893-1975)は、大恐慌時に農村や小さな町の窮状を広報することで、連邦政府の支援策への支持を集めるため、写真家と契約した。FSAに採用された写真家たち、ジャック・デラーノ(1914-1997)ウォーカー・エヴァンズ(1903-1975)ラッセル・リー(1903-1986)セオドア・ヤング(1906-1996)ドロシア・ラング(1895-1965)カール・マイダンス(1907-2004)ゴードン・パークス(1912-2006)アーサー・ロススタイン(1915-1986)ベン・シャーン(1898-1969)マリオン・ポスト・ウォルコット(1910-1990)エスター・バブリー(1921–1998)ジョン・ヴェイション(1914-1975)アルフレッド・T・パーマー(1906-1993)ジョン・コリアー・ジュニア(1913-1992)などは、政策立案者と一般市民の間で大恐慌の理解に大きな影響を与えるイメージを生み出した。

Ray Allen family
Ray Allen family near Black River Falls, Wisconsin, 1937

そして公共インフラや自然災害を日常生活の描写で取り上げ、国家の複雑な課題をよりわかりやすく表現したのである。写真「イリノイ州ショーニタウン近郊のテント・シティで昼寝をする洪水難民の子供」(1937年)は、仮設シェルターで眠る小さな男の子に焦点を当て、オハイオ川大洪水の大惨事を表現している。傍らに置かれた人形のように、無力で無邪気な表情をしている子供の清潔な空間は、彼と彼の仲間の難民の尊厳を表している。一方で、彼が毛布として使っているコートとベッドの下にある一足の靴は、洪水被害者が一般的に資源を持っていないことを物語っている。当時、室内を撮影することは珍しく、感度が低いフィルムには照明が必要だった。リーは、カメラにフラッシュガンを取り付けて撮影した。

Child flood refugee
Child flood refugee taking a nap, Tent City, Illinois, 1937

これにより、厳しい光と影の部分が生まれ、シーンに親近感を与えることができたのである。リーは、小さくて静かな 35mm のコンタックスカメラを使って、被写体との距離を縮めていた。しかし撮影の前にもしばしば彼らと会話し、日常生活について尋ねることで、信頼関係を築いていた。例えば、若い難民のポートレート「ミネソタ州エフィー近郊のキャンプで夕食をよる木樵たち」(1937年)のように、リーは撮影した地域と積極的に関わっていたようだ。こリーはロングショットと少し高めのアングルで、大きな食卓の周りに座っている木樵たちの直線的なフォーメーションを強調している。

Secondhand tires
Secondhand tires displayed for sale, San Marcos, Texas, 1940

この視点から見ると、男たちの微妙な食事の動きがほとんど同期しているように見える。この中西部の労働者たちは、世界大恐慌の影響を受けた層であるが、彼らの整然さを強調することで、彼らの仕事の可能性と共有する礼儀を暗示している。このように共感と細心の注意を払った作品は、さまざまな立場のアメリカ人がお互いを思いやることを促す、ひとつのモデルとなるである。ラッセル・リーは、1903年7月21日にイリノイ州オタワで生まれた。ペンシルバニア州ベツレヘムのリーハイ大学で化学工学の学士号を取得(1921年)した。

after evening meal
Farm Family after evening meal, Pie Town, New Mexico, 1940

サンフランシスコのカリフォルニア美術学校(1929年~31年)、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグ(1931~1935年)でジョン・スローン(1871–1951)が指導する美術クラスに参加。写真家として、航空輸送司令部(1943年)、米国内務省(1946-1947年)などの政府機関や商業団体で活躍した。また、ミズーリ大学(1949-1962年)、テキサス大学オースティン校(1965-1973年)で教鞭をとり、写真プログラムを開発した。石炭鉱山管理局からの決議(1947年)、ミズーリ大学ジャーナリズム学部ワークショップディレクターからのフォトジャーナリズム賞(1954年)を受賞した。1986年8月28日、他界、83歳だった。

ICP  Russell Lee (1903–1986) Archived Photographs | International Center of Photography

2021年10月13日

作為を排した新客観主義に触発されたストリート写真の達人ロベール・ドアノー

Les Bouchers mélomanes
Les Bouchers mélomanes, 1953
Robert Doisneau

ロベール・ドアノーは1912年4月14日、パリの南部、正確にはバルドマルヌのジャンティイで生まれた。わずか8歳で母を亡くした幼いロバートは、心を閉ざしてしまう。祖父のルイ・ドアノーに助けられ、イヴリーヌのレイズー村に何度も訪れた。彼は家族と一緒に住んでいたこともあり、この地には特別な思い入れがあったようだ。1929年までエスティエンヌ校で彫刻家石版画家としての訓練を受けた。その後パリの書体デザイナー工房で働いていた。そこで写真家のルシアン・ショファール(1906-1982) と出会い、写真に興味を持つ。1931年以降は、アンドレ・ヴィニョー(1892-1968)のアシスタントを務め、その教えに従うようになった。ドワノーの最初の写真は、作為のない現実の表現を提唱した「新客観主義」に触発されたものだった。1934年頃、幼なじみのピエレット・ショーメゾン(1915-1993)と結婚し、彼女が亡くなるまで人生を共にする。自動車メーカーのルノーにも採用されたが、1939年に出社率の低さを理由に解雇されてしまう。1936年に友人のピエール・ブレッツが創刊した雑誌『ル・ポワン』とのコラボレーションを始める。

Romi
Le Galerie Romi de la Rue de Seine, 1948

第二次世界大戦中、ドワノーはフリーランスの写真家として活動を続け、書体デザインの才能を生かして、ドイツ占領下のフランスのレジスタンスのために偽の書類を作った。戦争が終わると、パリの生活、郊外、子供、学校など、さまざまなテーマの写真レポートを増やしていった。1946年に設立された写真芸術の振興を目的とした団体「グループ XV」には、テレーズ・ル・プラ(1895-1966)ウィリー・ロニ(1910–2009)ジャン・フィリップ・シャルボニエ(1921–2004)などの著名な写真家が参加していた。彼は生涯で約450,000 枚の写真を撮影し、そのうちのいくつかは『ル・ポワン』や『ヴォーグ』などの有名雑誌に掲載された。 主な代表作には「溶けた車」(1944年)「市役所前のキス」(1950年)「学校案内」(1956年)などがある。彼は世界的に有名になり、アメリカの巨大雑誌『ライフ』などの海外の雑誌が作品を購入した。

Les tabliers de la Rue de Rivoli
Les tabliers de la Rue de Rivoli, 1978

その『ライフ』の依頼で「パリの恋人たち」というテーマに取り組み、制作したのが「市役所前のキス」だった。自分たちがキスのカップルだと勘違いしたふたりに「プライバシーを侵害された」と訴訟を起こされる。ドアノーは「彼らの夢を壊したくない」と思い、何も言わなかったそうである。実際にキスをしていたのは、フランソワーズ・デルバールとジャック・カルトーだった。最初は写真を撮らなかったが、彼らに近づいて「もう一度キスをしてくれないか」と頼んだという。自分たちがキスのカップルだと勘違いしたふたりに「プライバシーを侵害された」と訴訟を起こされる。ドアノーは「彼らの夢を壊したくない」と思い、何も言わなかったそうである。娘のアネットは「裁判で勝ったけど、父はとてもショックを受けていた。父は嘘の世界を知ってしまい、傷ついてしまったのです」と述懐している。キャンディッド写真を得意にしていたが、演出写真であったことに、生涯わだかまりを持ち続けていたようだ。

Le baiser de L’Hotel De Ville
Le baiser de L’Hotel De Ville, 1950

ロベール・ドアノーは自分の国に愛着を持っていたが、海外にも多く出かけている。彼は、ハンガリー生まれのアンドレ・ケルテス(1894–1985)など当時の偉大な写真家たちと出会い、フランス以外の国、主にアメリカやイギリスの風景を撮影した。1960年にはシカゴの現代アート美術館で展覧会を開催した。1947年にはコダック賞、1956年にはニエプス賞、1983年にはフランス国立写真グランプリと、数々の賞を受賞している。1994年4月1日、ドワノーはおそらく老衰で亡くなった。数ヶ月前に亡くなった、アルツハイマー病とパーキンソン病を患っていた妻のピエレットと合流。アネットとフランシーヌのふたりの娘は、父のすべての写真ネガ 450,000 点を整理してデジタルアーカイブし、作品の継続性を確保するための「アトリエ・ロバート・ドアノー」の創設をした。アネットによると、幼少期に最も影響を受け「世界で最も美しい地方」と考えていた北フランスのイヴリーヌ県レズー村に妻と一緒に埋葬されているという。

gallery Une archive de l'œuvre du père réalisée par ses deux filles | Atelier Robert Doisneau

2021年10月11日

何気ない虚ろなアメリカを旅したスイス生まれの写真家ロバート・フランク

Trolley
Trolley, New Orleans, Louisiana, 1955
Robert Frank (1924–2019)

1924年11月9日、スイスのチューリッヒに生まれたロバート・フランクは、中流階級の快適な環境で育った。高校卒業後、1941年に同じアパートに住んでいた写真家兼レタッチャーのもとで見習いを始めた。翌年には、チューリッヒの商業写真家ミヒャエル・ウォルゲンジンガー(1913-1990)のもとで働き始め、彼にスイスの雑誌、新聞、書籍の出版業界を紹介される。1947年、フランクはスイスを離れ、アメリカに移住した。ニューヨークに到着すると、すぐにファッション雑誌『ハーパース・バザー』の伝説的な敏腕アートディレクターだったアレクセイ・ブロドヴィッチ(1898–1971)に雇われた。1949年から1953年にかけて、フランクはニューヨークとヨーロッパを行き来しながら、気ままに過ごしていた。パリでは椅子と花、ロンドンでは銀行員、ウェールズでは鉱山労働者など、それぞれの土地で、その土地の人々や文化を理解するためのひとつかふたつのテーマに焦点を当てていた。また、より大きなインパクトを与えるために『ライフ』などの雑誌に掲載されることを前提とした連続写真の制作にも取り組んでいた。

City of London
City of London, England, 1951

しかし「カメラを持った詩人」と称された、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターだったエドワード・スタイケン(1879–1973)の擁護を獲得したものの、彼の写真群が出版されることはほとんどなかったのである。1950年に結婚したアーティストでダンサーのメアリー・ロックスペイザー(1933-)のために制作した72枚の写真と文章からなるアルバム『メアリーの本』(1949年)や、これまでで最も完成度の高いシーケンスである『黒白と物』(1952年)などなどである。1953年にニューヨークに戻ったフランクは、自分の写真がもっと広く公開されていないことに不満を抱いていた。1954年の秋、彼はジョン・サイモン・グッゲンハイム記念財団にフェローシップを申請した。「アメリカ中を自由に撮影し、アメリカのものを広く大量に記録する」というのが彼の申請書に書かれている。写真家のウォーカー・エヴァンス(1903–1975)をはじめ、エドワード・スタイケンやアレクセイ・ブロドヴィッチ(1898–1971)からの推薦状を得た。

Chattanooga, Tennessee, 1955

1955年春にフェローシップを獲得し『アメリカ人』を構成する写真の制作を開始する。中古のフォードを購入したフランクは、その年の夏に数回の小旅行をした後、その年の秋から9ヶ月間、1万マイルに及ぶアメリカ横断の旅に出発したのである。決まった旅程はなく、時にはひとりで、時には妻のメアリー(1933-)とふたりの子供、パブロとアンドレアと一緒に旅をした。地元のウールワース、コーヒーショップ、墓地、公園、銀行、ホテル、郵便局、そして鉄道やバスの駅など、何気ない場所を訪れることで、人々の生活の様子を感じ取ろうとした。これはビートジェネレーションを代表する作家、ジャック・ケルアック(1922–1969)の序文付きで1958年にフランスで、1959年にアメリカで出版された。第二次世界大戦後の東西冷戦の真っ只中に発表されたこの『アメリカ人』は、当初は反米的とさえ言われた。1960年代に入ると、フランクが取り上げた多くの問題が人々の意識の中に現れ、彼は先見の明があり、革命的であると評価されるようになった。

Men's Room
Men's Room, Memphis, Tennessee, 1955

しかしその評価の高まりは、決してフランクの肩に安住するものではなかった。作品を生み出したのと同じ落ち着きのなさと、危険を顧みない精神は、1950年代後半に写真を捨てて映画制作に乗り出すことになる。画家のアルフレッド・レスリー(1927-)との共同制作で、アレン・ギンズバーグ(1926–1997)グレゴリー・コルソ(1930-2001)ピーター・オルロフスキー(1933–2010)が出演し、ジャック・ケルアックがナレーションを担当した『プル・マイ・デイジー』(1959年)や『ミー・アンド・マイ・ブラザー』(1968年)などの作品で、前衛映画の第一人者としての地位を確立した。1969年、フランクとメアリーは別居。1971年、彫刻家のジューン・リーフと再婚し、カナダのノバスコシア州ケープ・ブレトン島にあるマブーという集落に引っ越す。娘のアンドレアを飛行機事故で、息子のパブロを病気で失う。1995年、娘を追悼してアンドレア・フランク財団を設立した。フランクは2019年9月9日、自宅で他界、94歳だった。

aperture_bk Robert Frank | Biography and Archived Items | The International Center of Photography