シンガーソングライター中山ラビさんの訃報を知ったのは5日早朝、シバこと三橋乙揶君の Facebook の書き込みだった。友人からのメールで思いもよらぬラビさんの訃報を知ったという。続けて古川豪君から「昨日連絡しようと思ったですが、遅くなってしまいました。ラビさんが昨日4日夕刻亡くなりました。食道がんが肺に転移して5月頃から入院していたのですが」というメッセージが届いた。京都のライブハウス「拾得」の恒例『七夕コンサート』に今年は出ないと聞いていたので、体調不良と想像していたのだが、まさかの訃報である。ラビはユダヤ教における宗教指導者兼学者に由来するという。古川豪君のファーストアルバム『フルッチンの唄』を自主制作したのが1971年だから、その年だったと記憶している。京都市の北、北山杉で知られる周山街道をさかのぼると京北町がある。常照皇寺の九重桜と言えば分かる人が多いかもしれない。その京北町に「山国青年の家」というのがあり、フォークキャンプがあった。そこで出会ったのがラビさんだった。
キティレコード『なかのあなた 』(1977年8月) |
彼女は詩人の中山容さんが訳詞したボブ・ディランの曲を歌って知られるようになったが、豊田勇造君らとの九州ツアーにお二人と同行したことが記憶に残っている。私は1972年に東京に転居したが、その5年後、彼女と再会した。LPアルバムのカバー写真を撮って欲しいとのことだった。それまでのアルバムはイラストだったが、初めてポートレート写真を使うという。撮影予算ゼロだったので、友人の写真家、中村弘太郎君のスタジオをタダで借りて撮影した。カメラは二眼レフのローライフレックスで黒白フィルムを使用したが、ディレクターからクレームがついた。「暗い」というのである。私自身は彼女の生い立ちが持つ「翳り」を表現したつもりだったが、商業レコードの世界では駄目らしい。そこでカラーで撮り直したのが『なかのあなた 』のレコードジャケットだった。文字が入る余地がありませんね、というデザイナーの言葉が耳に残っている。
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