早川書房 (1986/02) |
世界自然遺産でもあるブウィンディ原生国立公園を中心とするヴィルンガ山地に生息するマウンテンゴリラ。乱獲などにより絶滅危惧種に指定され、生息数はわずか600頭あまりとみられている。これは2007年にフォトジャーナリストのブレント・スタートン氏が中央アフリカのコンゴ共和国東部で撮影した「死体収容の写真」である。2008年の「世界報道写真展」入賞作品で、スタートン氏の特別許可を得て旧ブログ掲載したものである。その際、霊長類学者ダイアン・フォッシー(1932-1985)に関するコメントをいただいた。マウンテンゴリラの研究と保護に半生を捧げた極めて有名な女性動物学者で、邦題「愛は霧のかなたに」という映画にもなったくらいだ。絶滅危惧種の動埴物保護を巡る議論が注目され始めたのを機会に、その生涯を再考するのも無駄ではないだろう。書棚に著作『霧の中のゴリラ』があったのを思い出し、再読してみた。物語は1963年、ケンタッキー州ルイヴィルの病院に勤めていたフォッシーが、銀行ローンを借りてアフリカ旅行に出るところから始まる。目的はザイール(コンゴ民主共和国)のミケノ山のマウンテンゴリラを訪ねること、そしてタンザニアに住んでいた人類学者ルイス・リーキー博士夫妻に会うことだったが、その両方の望みがかなえられる。3年後、リーキー博士の助力でを得てザイールのカバラでゴリラと再開する。野生のゴリラの群れに入っていくというフィールドワークを開始したのだが、1967年、政治的動乱によりルワンダに拠点を移すこととなった。ベルギー政府が制定したヴィルンガ火山国立公園内に、カリソケ研究センターを設置したが、以後、アフリカにおけるマウンテンゴリラの研究および保護の文字通りセンターの役割を担うことになる。公園内には「密猟者」によって罠が仕掛けられていた。主な獲物はアンティロープ(羚羊)でゴリラが標的ではなかった。ところがゴリラも誤って掛かり、彼女は罠の撤去に奔走し始める。もうひとつ彼女が手掛けたのは、遊牧民トゥウィ族が放すウシを公園の外に追い出すことだった。なぜそうしたか。
マウンテンゴリラと一緒に生活したダイアン・フォッシー(撮影:ロバート・キャンベル) |
それは「動植物相の保護のために作られた公園をそのまま残すか、それとも個人的利益を求める侵入者に利用されていいのか」という信念であり、妥協はできないというものだった。数年かけてウシを追い出すことに成功するが、その前に興味深いことに触れている。火山群内にウシを放す習慣は少なくとも400年前に遡り、代々受け継がれてきた。だから彼らは自分たちの土地だと考えている、と。まさに同じ理由で「密猟者」たちも、自分たちの狩猟場であり、公園は後から勝手に設定されたものだと考えていた可能性がある。国立公園に指定したのは、あとからやってきた白人たちである。かつて私はケニアとタンザニアが国境を閉鎖している時に両国を訪れたことがある。国境を超えるため、ケニアのナイロビからエチオピアのアジスアベバに飛び、タンザニアのキリマンジャロ空港に降り立つという大迂回の旅だったが、遊牧民マサイ族は国境を徒歩で悠然と越えていた。その代わり彼らの土地は、動物保護区や国立公園に指定されて遊牧生活が困難となってしまったのである。そのこととゴリラ保護のためのルワンダの火山国立公園がオーバーラップするのは私だけだろうか。しかし彼女は強調する。絶滅の危機に瀕してる多数の種を、例えば観光事業で生存の機会を増すことは期待できないが、効果的な活動があるという。それは「野生動物の生息域を頻繁にパトロールして、密猟者の装備や武器を壊すこと」であると。そうすれば数が減ってきている森の動物に生きてゆくチャンスを提供できるというのだ。1985年12月26日未明、ダイアン・フォッシーは、カリソケ研究センターのキャビンの中で惨殺死体となって発見された。54回目の誕生日の数週間前のことで、二度にわたってナタで頭と顔を打たれていたという。
ナショナルジオグラフィック「ダイアン・フォッシー:真実は霧のかなたに」予告編(1:20)
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