2018年12月25日

グラフ誌『ライフ』はフォトストーリーのお手本だった


1935(昭和10)年11月6日号
かつて『アサヒグラフ』の仕事をしていたのだが、羨ましいのが米国『ライフ』のスタッフだった写真家たちである。というのは 10 年前からグーグルが『ライフ』の写真アーカイブを公開しているからだ。実は『アサヒグラフ』も、誌面イメージが「聞蔵(きくぞう)Ⅱビジュアル」にライブラリー化されている。しかし残念ながら収録されているのは、創刊号から1956(昭和31)年12月30日号までで、入社以前の誌面である。ところで大学時代私は写真工学を学んだことになっているが、今持ち合わせているその知識は極めて貧弱なものである。というのは途中で大幅な進路変更をしたからだ。本来なら写真工業関係の技術者になったかもしれないが、カメラやフィルムを作る側ではなく、それを使う側、つまりフォトジャーナリストになろうと人生の指針を変えてしまったのである。きっかけは何気なく手にした『ライフ』のフォトルポルタージュであった。作者はゴードン・パークス(1912–2006)。写真ばかりではなく、映画や文学、音楽など多岐にわたる分野で活躍した作家であった。舞台はリオデジャネイロの貧民窟ファベーラ。正確なタイトルは失念したが、貧困の中の生と死がテーマだったと記憶している。頂上にキリスト像が聳える丘の斜面に住む人々は、あのカーニバルを支えている。貧しいけど、人生に対し前向きなでエネルギッシュな人たちだ。

ゴードン・パークス(1960年ごろ)
今でも決して治安は良くないらしいが、その生活をパークスはモノクロで活写していた。ずっと後になって知ったのだが、彼は『ライフ』のスタッフとしては、初めてのアフリカ系アメリカ人であった。週刊誌だから毎週発行される。だから、その写真に触れることができたのは、ある意味で偶然だったかもしれない。これだ、これだ、フォトジャーナリストになろう、と私の胸は騒いだ。そして夏休みのバイトで稼いだお金で一眼レフカメラを購入したのである。この『ライフ』は1936年に登場したが、その表紙を飾ったのが、ニューディール政策の一環として作られたモンタナ州のフォート・ペック・ダムの写真だった。撮影は女性写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)だった。創刊とともに家庭雑誌として大成功を収め、最盛期には860万近い定期購読者を確保したそうである。その成功は「写し出された世界は光に満ち溢れ、影はごくわずかしかなかった。それは究極的には作り物の世界であり、大衆に作り物の希望をかきたてる世界だったのだ」だとジゼル・フロイントは『写真と社会』の中で分析している。それはともかく、この雑誌は私の先生であった。特にグラフ誌において、いかにフォトストーリー(組写真)を組むか、格好のお手本であった。1972年12月に『ライフ』はその歴史を閉じた。フォトジャーナリズムの一時代が終焉したのだが、皮肉なことに、タイム社の株価が急騰したそうだ。廃刊によって強大な赤字を切り捨てることができたからである。

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