2023年12月7日

仁王門草鞋が揺れる旅路かな

本法寺仁王門(京都市上京区小川通寺之内上る)
長谷川等伯像

旅立ちを描いたものだろう。左手に絵筆、右手で編み笠を持ち上げ、空を見上げている。本法寺塔頭教行院に寄宿した画家・長谷川等伯の像で、同じものが石川県のJR七尾駅前にもあるという。私は寺が所蔵する等伯の「佛涅槃図」を撮影したことがある。高さ10メートル、横幅6メートルもある大作で、収蔵庫が狭いので、照明に苦労したことを思い出した。本阿弥光悦作とされる書院前の「三巴(みつどもえ)」の庭を拝観したあと、境内東端の仁王門に出る。「足がよくなりますように」と書いた草鞋が下がっている。足腰の老化を嘆いた切ない願い事だが、今や杖を頼りの私の足には辛く寂しい。とはいえ老いに逆らうのも空しい。私は晴れ舞台を夢見て能登から都を目指した等伯の旅姿を連想することにした。等伯は1539(天文8)年、能登国七尾で奥村氏の子として生まれた。奥村氏は能登の大名・畠山氏の家臣だたが、等伯は幼い頃に、染物業を営む長谷川家に養子に出された。生家や養家の影響を受け、日蓮宗の熱心な信徒として育った彼は「信春」と号し仏画や僧の肖像画などを手掛ける絵仏師として活動するようになる。長い時間をかけて腕を磨き、力を蓄え、ついには永徳と彼が率いる狩野派に下克上を挑み、彼らの地位を大きく揺るがしたのである。豊臣秀吉、千利休と親しくなった等伯は、利休とふたりで狩野派を批判したという。どうやら時間旅行に耽ってしまったようだ。小さな石橋を渡り、小川通りに出ると裏千家今日庵の兜門が見えた。

Temple  日本一の絵師を夢見て豊臣秀吉・千利休魅了し狩野永徳を恐れさせた長谷川等伯 | 京都で遊ぼうART

2023年12月5日

カトリック河原町教会東門神父の聖書講座を思い出す

ChristmasTree
水彩画によるクリスマスツリーのクリップアート

ブルーグラス音楽が好きなので "Bluegrass Country" などのインターネットラジオを聴くことが多い。ところがこのシーズンになるとクリスマスソングが流れ始めるのでいささか辟易とする。京都の商店街もそのうちジングルベルの洪水が始まるのだろう。クリスマスはキリスト教の行事だが、しばしばその範疇を超えることがあるようだ。かなり昔、私の少年時代にはクリスマスイブになると、三角帽を頭にした酔客がケーキをぶら下げて帰宅、その姿の写真がが翌朝の新聞に掲載されたことを憶えている。さすがに昨今はその姿を見かけない。幼少期と中学生時代などをニューヨークで過ごした井上多恵子さんの「想いを英語に託せば」によると、宗教上の理由でクリスマスを祝わないユダヤ教徒らは Season's Greetings(時候のあいさつ)と書かれたカードを使うという。なるほど、非キリスト教徒が Merry Christmas というカードを出すのはおかしい。その点、ある意味で宗教色が薄いと言われる日本人はキリスト教徒ではなくともクリスマスに反発しないようだ。

Catholic Kawaramachi Church<
カトリック河原町教会(京都市中京区)

というよりイブになると京都のカトリック河原町教会などは、俄か信者の若いカップルで例年一杯になったから面白い。非キリスト教徒向けのミサを「クリスマス市民の集い」と教会が称した催事があったが、新型コロナウィルスの流行で、ここ数年はこの名称をやめ、今年は12月24日(日)午後6時半「主の降誕ミサ(夜半のミサ)」午後9時「主の降誕ミサ(夜半のミサ)」がある。カトリック河原町教会といえば、ずいぶん昔に毎週1年間通ったことがある。東門陽二郎神父の講義を聴くために聖書講座に通った。東門神父はニチメン実業の創始者の家庭に生まれた。京都大学医学部を卒業、後にカトリック神学院へ入学、ローマ法皇庁へ派遣され、哲学、神学を学んでいる。いわば科学者から宗教家に転じたかたである。表現豊かな説教を一部の信徒が「東門歌舞伎」と密かに呼んでいたようだ。何度も質問したイエズスの「復活」について、死者が蘇るというのはいささか非科学的だと思うが、医学生だった神父ゆえ、絶妙のご返答をいただいた。宗教学上の興味で受講、たいへん勉強になったが、信仰に傾くことはなかった。やはり「復活」を受容できない自分を再認識したからだ。クリスマスソング、カードと共に、この季節になるとやはり東門神父の講義を思い出す。

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2023年12月3日

世界産業労働組合の歌姫ケイティー・ファー物語

Joe Hill(1879–1915)

ケイティー・ファー(1905-1943)は "IWW Songbird"(世界産業労働組合の歌姫)としてアメリカで知られているが、日本では馴染みがない名のようだ。IWW はシカゴに本部を置く国際的な労働組合で、1905年に創設された。組合員は Wobblies(ウォブリーズ)と呼ばれたが、その語源は不明だ。最盛期の1917年には組合員が150,000人を超えたが、1924年に内部対立と政府の弾圧による分裂で激減、現在の組合員は12,138人である。組合員の娘だったファーは、地元ワシントン州スポケーンの IWW 児童合唱団のリーダーだった。1914年、スウェーデン出身のソングライターで、IWW の活動家だったジョー・ヒル(1879–1915)が殺人容疑で逮捕される。労働運動を巡る物的証拠のない、無実の罪を着せられたフレームアップだったが、ユタ州ソルトレイクシティの刑務所に投獄された。そのヒルとファーが文通を始めた。ファーが書いた手紙は没収され破棄された可能性が高いが、ヒルが書いた手紙は残っている。同年11月29日、ヒルが送った最初の手紙の便箋には、水彩絵具で薔薇が描かれていて「あなたのために冬でも咲いたままの薔薇を描いたのは、スポーケン周辺の薔薇は姿を消しつつあるからです。この小さな薔薇のようにあなたの友情が長く続くように願っています」と添えていたという。

Cover of The Rebel Girl

往復書簡を通じて二人は急速に深い絆を築いていったと想像される。彼女はヒルの裁判結果を知っていただろうし、自分の合唱団で歌う歌の作者に惹かれていたに違いない。獄中でヒルは "The Rebel Girl"(反逆の少女)を書いた。女性労働運動家のエリザベス・ガーリー・フリンのために作詞されたが、これはファーにインスパイアされた歌という説が一般的なようだ。ヒルは、この歌をフリンがスポケーンで歌うのを手伝って欲しいと、ファーに伝えている。2015年11月19日、ヒルは処刑される。従って二人の親交は1年に満たない短いものだった。上掲ワシントン大学図書館が所蔵するデジタル画像「ワン・ビッグ・ユニオン・フラッグを持つケイティー・ファー」は1915年ごろに撮影されたようだが "Yours for Industrial Freedom, Katie Phar" というサインが記されている。ヒルはアメリカのプロテストフォークソングの先駆者で、ウディ・ガスリーやピート・シーガー、ユタ・フィリップス、フィル・オークス、ジョーン・バエズなど、後のフォークミュージシャンに多大な影響を残した。写真はジョー・ヒルの歌を積極的に歌った、カリスマ的少女ともいえる魅力をキャプチャしている。なおファー自身の音声は残っていないが、女性ブルーグラス音楽奏者の草分けであるヘイゼル・ディケンズ(1925–2011)が歌った "The Rebel Girl" が、1990年にリリースされたスミソニアン・フォークウェイズの CD アルバム "Don't Mourn-Organize! Songs of Labor Songwriter Joe Hill" (SF-40026) に収録されている。下記リンク先の YouTube で視聴できる。

YouTube  Hazel Dickens performs "The Rebel Girl" written by Labor Songwriter Joe Hill (1990)

2023年12月1日

近代化によって消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ

Solar Eclipse
During solar eclipse, Paris, April 17, 1912
Eugène Atget ©1927 Berenice Abbott)

ウジェーヌ・アジェは1857年2月12日、フランス南西部のボルドー近郊のリブルヌに生まれた。アジェ家はナポレオン戦争後にプロヴァンスからドルドーニュ川流域に移り住んだ馬具職人であった。5歳の時に父親が亡くなり、母親もすぐに亡くなった。青年期の数年間は船員として海で過ごした。1879年、演劇を学ぶために国立音楽演劇学校に入学したが、2年で退学。その後数年間は、地方の下層の観客を相手にする旅回りの劇団で俳優を務めた。1880年代後半、アジェが30代前半の頃に、彼は写真に興味を持つようになった。アジェによる最も古い写真は、フランス北部で撮影されたものと思われる。これらの作品には田園風景、植物、耕運機、馬具をつけた馬、風車など)が描かれており、おそらく画家やイラストレーターのための習作として撮影されたものと思われる。20世紀初頭、写真の仕事の中心をパリに移住した。この時期の名刺に自らを「パリ旧市街の眺望写真コレクションの制作者兼販売者」と記している。アジェは雇われ写真家として依頼を受けて仕事をすることは避けようとし、ネガを売ることもほとんどしなかった。むしろ、20世紀の最初の10年間は、フランス文化の結晶である家、街路、商店、建築の細部などの偉大な視覚的カタログを作ることが彼の野心であったように思われる。主な顧客は、古い建築模型を求める建築家や職人、古いパリの記録を残したい図書館や公文書館、19世紀後半にパリの大部分を破壊し再建したナポレオン3世とその代理人ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン男爵の近代化計画を嘆く古都のアマチュアたちだった。

Porte d' Italie
Porte d' Italie, La Zone, Paris, 1913

また挿絵画家や独立画家にも絵を売っていたが、それは彼の収入のごく一部に過ぎなかった。おそらく、アジェのクライアントのニーズが多様であったことが、専門化によって生じがちな定型的な解決策を避けるのに役立ったのだろう。ドア、ドアノッカー、階段、手すりなど、一見ありふれた被写体であっても、アジェが撮影した写真は、経済性と知性にあふれ、写真描写の可能性を大胆に捉えており、見る者の心と目を楽しませてくれる。アジェの作品に特徴的なのは、広角レンズによる急速な前景の短縮、より親密な視点と引き換えに被写体の名目を頻繁に切り捨てること、さまざまな照明条件での撮影を厭わないことである。理由は定かではないが、アジェは第一次世界大戦中、ほとんど仕事をしなかった。実際、彼の作品は1910年以降、年々減少し、戦時中はほぼ停止し、1920年まで再開されなかった。この年、美術大臣ポール・レオンに手紙を書き、ネガ・コレクションの一部を売りに出した。アジェは「この膨大な芸術的、記録的コレクションは完成し私はパリ旧市街のすべてを所有していると言えるでしょう」と語っている。

Fireplace
Fireplace, Hôtel Matignon, former Austrian embassy, 1905

間もなく、政府は1万フランでアジェの2,600点を購入し、国の歴史登録簿に登録した。ネガの売却は、アジェにとって、人生のひとつの章の終わりと新たな章の始まりを意味したのかもしれない。1920年、アジェは新たな活力を取り戻し、自分のテーマに対する新たな、より拡大された感覚をもって仕事に復帰した。晩年には、店のウィンドウ、ストリート・フェア、サン=クルー公園を撮影した最高の作品や、パリ近郊の田園風景を撮影した最も感動的な作品など、最も美しく、最も独創的な作品を驚くほど高い割合で制作した。1925年の春には、おそらく彼の生涯で最も驚くべき持続的な創作活動であった、手入れが行き届いていないスソー公園を撮影した66枚の写真(10番から75番まで)を制作した。スソー城はフランス革命末期に破壊されたが、荒れ果てた公園は残った。アジェの写真は、壊れた彫刻や絡まった植え込みよりも、老朽化、喪失、芸術の不可解な慰めに重きを置いている。1926年夏、30年来の伴侶であった元女優のヴァランティーヌ・コンパニョンが亡くなった。

ontagne-Sainte-Genevièv
Rue de la Montagne-Sainte-Geneviève, June 1925

遺言執行人のアンドレ・カルメットは「アジェは悲嘆に暮れたと」語ったが仕事は続けた。アジェが存命中、彼の作品は比較的知られていなかった。彼の作品は、当時の芸術写真に対する考え方のいずれとも関連していなかった。それは、自分たちの作品が既知の芸術的美点、一般的には世紀末の象徴主義絵画の美点を体現すべきであると考えていた古いピクトリアリズム派の芸術写真を反映するものでもなければ、新しい写真は構成主義やシュルレアリスムといった戦後の実験芸術のプログラムに参加すべきであるとするモダニズム派の考え方を表現するものでもなかった。1926年、彼の写真はシュルレアリスムの雑誌 "La Révolution Surréaliste"(シュルレアリスム革命)に数点掲載されたが、それは芸術作品としてではなく、むしろ人生そのものが本質的に超現実的であることを示すものだった。結局のところ、アジェの作品の成功は、写真の芸術は、従来の絵画的戦略に従うことよりも、直感的に立つべき正しい場所を知ることの方が重要であることを示唆しているようだ。

ragpickers
Porte d'Asnières, Valmy, ragpickers, 1913

1925年、ベレニス・アボットは、アジェのプリントを数点目にする。その後、1927年8月4日にアジェが亡くなるまで、彼女は何度かアジェを訪ねている。1928年、アボットはアジェの遺品である1,000点以上のガラス板と、おそらく1万点にものぼる版画のコレクションを買い取った。(彼の遺品は現在、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている)。その翌年、アボットはアジェの作品に関する数多くのエッセイの最初のものを書き、その中で彼女は「ウジェーヌ・アジェの作品を見ることで、創造的表現の世界に新しい世界が開かれる」と述べている。1931年末までに、この賞賛は、当時の他の2人の傑出した若手写真家、ウォーカー・エヴァンスとアンセル・アダムスにも響いていた。実際、新世代の写真家たち、特にエヴァンスは、アジェの模範に助けられながら、明白な事実が持つ詩的な可能性に基づく、創造的な写真という新しい考え方を発展させていった。

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