2022年6月6日

スマートフォン Google Pixel 導入顛末記

People talking on mobile phone
People talking on mobile phone (Royalty Free Vectors)

スマートフォンと縁を切ったのは2019年だった。スマートフォンのスマートは「頭がいい、利口な、賢い」という意味だが、まさにその通りだと思う。アップルの iPhone そしてソニーの Xperia を使っていたが、昔ながらの携帯電話、俗にいうガラケーに戻した。ただ外出時にインターネットを覗きたくなる時が稀にあるので、タブレットも持つようにした。ただ、この2台に加え、コンパクトデジカメも必携ツールなので、合計3台がバッグを占めるようになった。だからと言って重いというわけではない。密かにアメリカの美術家シンディ・シャーマンの Instagram 写真に啓発され、自分にはその才能はないと思いつつ、超遅れ馳せながら再導入することにした。親機であるパソコンが Windows マシンなので、必然的に Android 端末を導入ということになった。同期させればブラウザのブックマークや連絡先(電話帳)も新たに作る必要がないからだ。迷いながら選んだ機種は Google Pixel だった。ブラウザ、メール、カレンダー、地図、クラウド写真保存などに Google のアプリケーションを使っているが、デバイスもノートパソコン Chrome Book に続き Google 製になってしまった。主な Google のアプリケーションは予めインストールしてあったので、Metaの Facebook, Instagram, Business Suite、メッセンジャー LINE、音楽プレイヤー jetAudio などを別途ダウンロードした。

Google Pixel Screenshot
Google Pixel Screenshot

スマートフォンをウォークマン化する場合、AGC(Automatic Gain Control)と呼ばれる自動利得制御、すなわち信号が強くなると出力が大きくならないようにし、信号が弱くなると出力が小さくならないようにするシステムが欲しい。アルバム単位で聴く場合は最初の曲の音量調節すればよい。しかし複数のアルバムを順番をばらばらにして聴くシャッフル再生の場合は、曲ごとに音量調節が必要なのでイライラするからだ。jetAudio はこの機能が備わった優れものである。さて、ところで、パソコンと USB 接続すれば、楽曲をスマートフォンに転送できると思っていたが、そうではなかった。パソコンの画面に「MTP USB デバイス」というアイコンが表示されるが、クリックすると「このフォルダーは空です」という警告が出る。つまりスマートフォンの中が見えない。そこでヘルプファイル「USB ケーブルを使ってファイルを移動する」に助けを求めた。

  • スマートフォンのロックを解除します。
  • USB ケーブルを使って、スマートフォンをパソコンに接続します。
  • スマートフォンで [このデバイスを USB で充電中] の通知をタップします。
  • [USB の使用] の下で [ファイル転送] を選択します。
  • パソコン側で、ファイル転送のウィンドウが開いたら、ファイルをドラッグします。
  • 転送を終えたら、Windows とスマートフォンの接続を解除します。
  • USB ケーブルを取り外します。

スマートフォンで[このデバイスを USB で充電中] の通知をタップします、というのは流石に気が付かなかった。この方法で 1,924 曲をコピーしたが、容量は 10.3GB だった。なお Google Pixel には外部ストレージ用の microSD スロットがないが、この程度なら内部ストレージで十分まかなえる。問題は写真と動画ファイルだが、万が一内部ストレージが窮屈になったら、クラウドストレージの Google フォトに転送すれば何とかなると楽観している。使い方に関しては、紙ベースや PDF ベースのマニュアルがないので「Google Pixel について学習する」あるいは、以下リンク先の Google Pixel のヘルプセンターにアクセスする必要がある。

google スタートガイド・アプリの使用・アクセサリの使用・設定の変更・スマートフォンの保護・他

2022年6月4日

アマチュアこそシリアス・フォトグラファー

植田正治
植田正治「小狐登場」1948年(東京都写真美術館蔵)

近代オリンピックは、参加することに意義があるという名言を残した、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937)によって創立された。その基本精神はアマチュアリズムの尊重であり、逆に、アマチュアリズムの象徴がオリンピックであった。スポーツは金のためにあるのではない、という精神といったものがかつてその根本にあった。しかしそれは裏返せば、有産階級の発想であり、差別思想であるという批判も当然ながら出た。プロ組織がない競技では、選手はみなアマチュアである。しかし学生なら特待生制度があるし、社会人なら企業のバックアップがある。スポーツの大衆化によって、アマチュアリズムを高らかに謳うことは困難になったともいえる。だから現在のオリンピック憲章にはアマチュア規定が削除されている。毎日新聞社の月刊写真雑誌『カメラ毎日』が健在だったのは何時までだったろう。植田正治(1913–2000)が「アマチュアこそシリアス・フォトグラファーだ」と寄稿していたのが、何故か今でも印象に残っている。

野島康三
野島康三「題名不詳」1930年(京都国立近代美術館蔵)

所謂ハイ・アマチュアというのはおそらく和製英語だと思うけど、シリアスとか、アドバンスド・アマチュアという用語を英語圏では使うようだ。要するにアマチュアこそ純粋に芸術写真に没頭できる。だからプロの仕事などに目もくれず、アマチュアとしての誇りを持つべきだという主張だったように記憶している。植田正治は山陰をベースにしていたが、関西を通り越して東京で知名度を上げた作家であった。関西写壇との確執については氏自身から伺ったことがあるが、西日本はアマチュアリズムに関し昔から意気軒昂である。また日本最古の写真クラブ「浪華写真倶楽部」や「地懐社」「京都丹平」など、歴史を持った写真団体が今でも健在である。これらの団体に共通しているのは、文化の首都圏集中に対する反骨精神が漲っていることである。戦前の「浪華写真倶楽部」や「丹平写真倶楽部」で重要な働きをしたのが安井仲治(1903-1942)だった。ピクトリアリズムからストレートフォトグラフィーという軌跡を辿った東京の野島康三(1889-1964)とオーバーラップする。

安井仲治
安井仲治「蛾(二)」1934年(東京国立近代美術館蔵)

二人に共通するのは、いずれも素封家に生まれたディレッタントであったことだ。海外に目を向けると、まず思いつくのがジャック=アンリ・ラルティーグ(1894– 1986)である。あるいはアルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)を引き合いに出して良いかもしれない。彼らもまた裕福な家庭に生まれ、それゆえの自由を謳歌した写真家たちであった。スポーツの世界では、その技量において、プロがアマを上回るとされているようだ。だから、もしアマあるいはプロアマ混成チームに負けたのでは沽券に関わる、という深層心理がイチロー選手をしてオリンピック辞退に繋がったのかもしれない。プロの棋士がアマ相手の場合はコマ落ちで将棋を指す心理に似たものだ。写真もまた、プロがアマを上回ると思われてるフシがある。確かに技量においてはそうでなくてはならない。スポーツにおいては、その技量が勝敗に直結するが、写真表現に関しては違うと私は思う。所詮シロウトですから、趣味ですから、と言った消極姿勢があるとすれば残念である。蛇足ながら写真愛好家に対しアメリカには shutterbug というスラングがある。直訳すればシャッターの虫、言い得て妙である。

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2022年6月2日

絶滅していなかったフロッピーディスクの記憶

Different data storage media
5.25" and 3.5" FD, Cassette and 8mm tape, CD, DVD, ZX, SDHC, CompactFlash, USB disk (WIKI)

山口県阿武町で誤って1世帯に4,630万円を振り込んだ、いわゆる誤送金問題で、町役場から銀行に依頼データの入ったフロッピーディスク(FD)を渡したことが報じられると「旧石器時代」「時代遅れ過ぎる」など、驚きや嘆きの声が上がった。ところが絶滅していたかのように思われた FD は、一部の中央省庁や役所、銀行、企業ではいまも日常的に使われていることがわかった。10年前に製造中止に追い込まれたシステムで、顧客データなどを扱ってることに私も驚きを禁じ得ない。絶滅危惧種化した FDD 駆動装置メーカー主要3社が生産撤退に動き始めたのは2009年だった。ティアックは4月に生産を終了、ワイ・イー・データも販売を終了した。残るソニーも2009年9月に終了、他社と足並みをそろえたようだ。また FD も、三菱化学が今年2009年3月末で販売を終了した。ソニーは3.5型 FD 全6機種を2010年4月に販売終了した。3.5型 FDD は1984年からコンピュータ搭載が始まった。ウィンドウズ95の発売で、空前のパソコンブームが起きた1995年がフロッピーディスク需要のピークだったようだ。さらに光磁気ディスク MO だが、日立マクセルと三菱化学メディアが販売を終了した。私が最初に触れたコンピュータは、学生時代、大型のそれであった。

Floppy Disk

真空管を使っていた筈で、かなり巨大なものだった。カナタイプライターでオペレートするものだったが、ディスプレーはなかった。記録媒体は紙の鑽孔(さんこう)テープだった。簡単な住所録を作ったことがある。自作の入力項目をパンチした円環状のエンドレステープが、いわばソフトだったと記憶している。次に触れたコンピュータが、時代は大幅に下って1979年、NEC の PC-8001 だった。外部記憶装置はカセットテープレコーダーを使用したもので、遊びでカラオケソフトを BASIC で書いたことを思い出す。オプションで5インチフロッピーを使用できたようだが、記憶にない。その後、1983年に NEC が FDD を内蔵した PC-9801 シリーズを発売、フロッピーディスクが一気に広まったことが懐かしい。わずか 20MB HDD が珍しい時代だった。

PowerBook 2400c
Macintosh PowerBook 2400c/240

フロッピーディスクで思い出し、押し入れの奥にしまってあったアップルの PowerBook 2400c/240 を引っ張り出してみた。外付けながら我が家にある唯一の FDD 駆動装置である。1997年5月に発売された180をクロックアップ、1998年4月発売されたものだ。外部記憶装置は FDD のみで、光学ドライブは付属してない。日本 IBM との共同開発で、今見てもデザインは優れてると思う。三次元 CAD でデザインされたが、日本 IBM は二次元のソフトしか持ってなく、製作に苦労したというエピソードがある。角が丸みを帯びた流線型で、だからだろうか、初代モデルの開発コードネームはコメットだった。日本のみで売られたものだが、B5ノートは小さすぎて、本国の米国では受け入れられなかったという記事を読んだ記憶がある。ところで FDD 装置があるものの、肝心のフロッピーディスクがないのに気付いた。ずいぶん前に処分してしまったからだ。知りあいに電話したところ、持っているという。あるところにはあるものだ。再生品を通販サイトが販売しているようだ。

WWW フロッピーディスクの歴史 | インターネット百科事典ウィキペディア(Wikipedia)日本語版

2022年6月1日

大都市に変貌する香港を活写して重要な作品群を作り上げたファン・ホーの視線

Dusk in Aberdeen
Dusk in Aberdeen, Hong Kong, 1958
何藩 (1931–2016)

ファン・ホー(何藩)は1931年10月8日に上海で生まれ、1949年に家族と共に香港に移住した。1941年、戦争が始まると、両親がマカオに数年間足留めされ、ホーは使用人に預けられることになった。幼い頃、父が家に置いていったコダックのブラウニで写真を始め、その後、14歳の時に父から譲り受けた二眼レフカメラのローライフレックスで写真を撮り始めた。ホーは生涯、このカメラを使い続けることになる。独学で学んだ彼の写真は、路地、スラム街、市場、通りなど、都市の生活に魅了されたものだった。彼の作品の多くは、露天商や、自分より若い子供たちの素朴な写真で構成されている。暗室はなくバスタブでフィルムを現像した。やがて1950年代から60年代にかけて、大都市になりつつあった香港を撮影し、重要な作品群を作り上げる。2006年に初めてホーの作品を見たニューヨークのローレンス・ミラー・ギャラリーのギャラリーのオーナーは「バウハウスの直系だと感じたが、香港で制作された作品である。抽象的であり、同時に人間的でもある」とコメントした。アメリカ写真協会、英国王立写真協会、英国王立芸術協会のフェロー、シンガポール、アルゼンチン、ブラジル、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギーの写真協会の名誉会員になった。

Approaching Shadow
Approaching Shadow, Honk Kong, 1954

そして1958年から1965年にかけて、アメリカ写真協会による「世界のトップ10フォトグラファー」のひとりに選ばれている。「陰影」はホーの最も有名な作品のひとつである。彼は従姉妹にコーズウェイベイのクイーンズカレッジの壁際でポーズを取るように頼み、暗室作業で斜めの影を加えた。このプリントは2015年に過去最高の37万5,000香港ドルで落札された。ファン・ホーは香港の映画監督であり、俳優として高い評価を得ている人物である。映画界でのキャリアを積むため、1961年に香港の映画会社ショウ・ブラザーズに入社した。映画『ツバメ』(1961年)のスクリプター助手としてスタート、いくつかの映画に出演するようになる。

Lifes Go On, Hong Kong, 1966

1960年代前半には、先駆的な短編自主映画シリーズも制作し、その第1作『大都会小人物』(1963年)は1964年の日本国際映画祭で「名誉賞証書」を受賞している。 1969年にショウ・ブラザーズを退社し、香港と台湾の様々なスタジオで20本以上の作品を監督した。カンヌ、ベルリン、サンフランシスコの国際映画祭で3作品が公式上映され、5作品が台湾と香港の国立電影資料館に永久保存される。独立系映画だけでなく『デンマークの冒険』(1973年)『長い髪の女』(1975年)『誘惑のまとめ』(1990年)など、映画におけるエロティック分野の開拓者としても高く評価されている。1979年、映画界を引退したホーは妻と共に、子供たちの大学進学のためにカリフォルニア州サンノゼに移住した。しかし健康状態が次第に悪化し始め、心配した家族から再び写真を撮ることを勧められるようになった。

Hong Kong Venice
'Hong Kong Venice', Hong Kong, 1962

近代的な機材を使い、サンフランシスコのベイエリアで写真を撮るのではなく、香港で撮った古いネガを調べて、地元のギャラリーにポートフォリオを展示し始めたのである。2000年にはパロアルトにあるピンスカンジャナのモダンブック・ギャラリーで1960年代以来の個展を開催、ホーの娘はこの展覧がの自信と幸福を回復することになったと認めている。2016年6月19日、サンノゼで肺炎のため死去した。84歳だった。2017年6月後半にサザビーズ香港ギャラリーで、1950年代の香港で撮影した32点の写真と、彼のローライフレックスカメラ、初期の書籍である『ストリート写真への想い』などの関連品が展示された。展示に合わせて新しいモノグラフ『念香港人的舊』が2017年6月に出版された。残された家族がサラ・グリーンと香港人出版社のサポートを受けながら、約1年かけて完成させたものである。

WWW_BK Fan Ho (1931–2016) | Biography, Artorks, About, Faq and Contact | Official Website