2019年9月9日

短編アニメ "Abita" 外で遊べない子供たち


Abita from Uki Uki Studio on Vimeo
Abita, an animated short film about Fukushima children who can't play outside because of the radiation risk, delicately illustrates their dreams and realities. The film, produced by Shoko Hara and Paul Brenner, won the award for Best Animated Film at the International Uranium Film Festival in 2013. Shoko Hara, a student in Germany who was born in Okayama in the western part of Japan, wrote about the metaphor she used in the film. Sound Design and Music: Lorenz Schimpf. Awards: Best Animated Film, International Uranium Film festival, Rio de Janeiro, 2013. Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013.

Kinder in Fukushima können auf Grund der radioaktiven Strahlung nicht mehr in der Natur spielen. Denn die Natur ist nicht dekontaminierbar. Dies ist nur eine Geschichte von 360.000 Kindern, die zu Hause bleiben und von ihrer Freiheit in der Natur träumen und die Wirklichkeit erleben.

2019年9月6日

歴史を捻じ曲げる東京五輪旭日旗応援

旭日旗は軍国主義と植民地主義の象徴

各紙電子版によると、昨5日午前の記者会見で菅義偉官房長官は、来年の東京五輪パラリンピックの競技場に旭日旗の持ち込み禁止を求める韓国側の動きについて「旭日旗は国内で広く使用され、政治的宣伝とはならず、持ち込み禁止は想定していない」と述べたという。昨今の日韓関係泥沼化を踏まえ、対韓強行策の一環と思われるが、呆れると共に怒りが込み上げてきた。FIFA(国際サッカー連盟)は昨年のW杯ロシア大会からスタジアムからの差別撲滅を目指し、新たに監視システムを導入した。具体的には FIFA の委託を受けた NGO 団体 FARE のスタッフが1試合3人で監視するようになったのである。その FARE が昨年6月に「サッカーにおける差別的慣行に関するグローバルガイド第2版」を公表した。その中で日本の旭日旗を次のように記述している。
The Rising Sun Flag (旭日旗 Kyokujitsu-ki) formerly used by the Imperial Japanese Navy and Imperial Japanese Army until 1945, variations of the Rising Sun Flag are viewed as a symbol of Japanese militarism and colonialism before and during the World War II and considered discriminatory, specifically towards Korean Republic, Korea DPR, and PR China fans and fans from other countries in the region impacted during World War II. The flag is officially used as a symbol of the Japan Maritime Self-Defence Force currently and is also used in commercial advertising; nevertheless the flag symbolism is still seen as discriminatory by the countries affected by Japanese military action during World War II.
要するに旭日旗は日本の陸海軍が終戦まで公式に使っていたもので、日本の軍国主義と植民地主義の象徴だった。これをサッカースタジアムに持ち込んで応援するというのは、韓国、北朝鮮、中国およびその他の国のファンに対し差別だと主張しているのである。ご存知、旭日旗は現在でも自衛隊が使用しているが、自衛隊は紛れもなく軍隊である。軍隊の旗をスポーツの応援に使うことを容認というのは、ファシスト安倍晋三首相への忖度以外の何ものでもない。FIFA がサッカースタジアムでの使用に禁止しているのも関わらず、東京五輪は構わないとは時代錯誤も甚だしい。旭日旗容認は、この旗の下で、日本軍が朝鮮半島や中国の人々を殺したという史実の否定に繋がる。昨今の歴史修正主義者たちの跋扈は目に余るものがある。旭日旗が嫌なら、韓国人は東京五輪をボイコットすればよいと一部のネットワーカーが騒いでいるという。観戦に来なくてもよい、という主張らしい。これを逆手に取れば、旭日旗応援を許すくらいなら、東京五輪パラリンピックは酷暑問題もあるし、開催を返上したほうがよいと主張したい。なにしろ首相は2013年9月、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された IOC 総会で招致演説、真っ赤なウソをついたわけだから。曰く「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」でんでん。

PDF  FARE: Global Guide to Discriminatory Practices in Football Ver. 2 June 2018 (PDF 369 MB)

2019年9月3日

スペイン内戦とヘミングウェイ

新潮文庫(2018年)

Ernest Hemingway (1918)
スペイン内戦を背景にした作品で、日本の人々の印象に残っているのは、文学よりもむしろ映画の方が多いかも知れない。ビクトル・エリセ(1940-)の『ミツバチのささやき』や、ホセ・ルイス・クエルダ(1947-)の『蝶の舌』など、名作揃いである。内戦がスペイン人に負わせた心の傷を映像化した秀作だが、文学にも戦争の悲惨を描いた作品が存在する。そのひとつが前エントリ―で触れたフランシスコ・アヤラ(1906-2009)の短編集『仔羊の頭』である。カタルーニャ文学の金字塔、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の小説『ダイヤモンド広場』は、一人称で書かれているため、戦場の記述はない。内戦で夫を失った慟哭、ふたりの子どもを抱えながら仕事を失い困窮する生活、運命と言う名の厄介が綴られている。淡々とした記述ゆえ、胸に迫るものがある。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の長編小説『誰がために鐘は鳴る』を「アメリカ人の目線で描いた作品であることは否めない」と片付けたのは、言葉足らずでいささか不本意であった。1920年代のパリは、回想録『移動祝祭日』に活写されているが、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882–1971)やパブロ・ピカソ(1881–1973)、ジェイムズ・ジョイス(1882–1941)など、新しい芸術を指向するアーティストが結集していた。1921年にヘミングウェイは、妻のハドリーとともに、パリに移住した。その1カ月後にジョイスは『ユリシーズ』を、オデオン通のシェイクスピア書店から刊行している。

新潮文庫(2003年)
ヘミングウェイは1923年7月、23歳のとき、初めてスペインのパンプローナを訪れた。以来、再三にわたってこの国を訪れている。パンプローナへの旅は名作『日はまた昇る』(1926年)の土壌となった。1937年3月、内戦取材のためマドリードに到着したが、フランシスコ・フランコ(1892-1975)率いる反乱軍によって混迷を深めていた。このときヘミングウェイは37歳だったが、スペインの人々ため、共和国側を支援しようという強い思いがあったに違いない。ホテル・フロリダが共和国側に立つジャーナリストの溜まり場だったが、ここに陣取ったヘミングウェイは、ドキュメンタリー映画の撮影に同行して前線を駆け巡る。これ以降、4回に渡り、8カ月の月日をかけて戦況の報道に費やした。フランコは1939年1月、バルセロナを制圧、3月にはマドリードを占領、4月に勝利宣言をした。スペイン戦争といえば、国民戦線側による市民の虐殺に目がそそられるが、共和国側によるファシストやカトリック司祭の虐殺もあった。この点をヘミングウェイは見逃していないが、この史実は『ダイヤモンド広場』も間接的に触れている。戦争にはいかなる大義もない。肩入れした共和国軍の敗戦に苛まれたに違いないが、体験を書くことが使命だと自らを奮い立たせたのだろう。内戦が終結した頃、キューバのハバナで小説を書き始めていた。のちにそれは『誰がために鐘は鳴る』と題された。

2019年9月1日

ボブ・ディランも影響を受けた NLCR は単なるコピーバンドではなかった

Tom Paley, Mike Seeger and John Cohen 1959 by Robert Frank

Folkways Records (FH-5264) 1959
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ(NLCR)のレコードを初めて購入したのは、1960年代初頭になる。当時、輸入盤、特に Folkways Records のそれは高価で6,000円もしたと記憶している。なにしろ1ドル400円もした時代だったが、学生にとってはきつい出費だった。しかし分厚い解説書が極めて有益だったし、値段に値していたと思う。その1枚が左の『大恐慌時代の歌』である。文字通り大恐慌時代の歌を集めたものだが、いずれの曲も、商業レコードのソースがある。つまり演奏している NLCR は、78回転 SP レコードを復元演奏した特異なグループであった。メンバーは途中で一度代わったが、このレコードのパーソネルはマイク・シーガー、ジョン・コーエン、トム・ぺイリーで、1959年1月にリリースされたものである。マイク・シーガー(1933–2009)はピート・シーガー(1919–2014)の異母兄弟で、父親のチャールズ(1886–1979)はジョン・ロマックス(1867–1948)アラン・ローマックス(1915-2002)父子らと伝承音楽の共同研究をした議会会図書館民謡資料室の学者だった。マイクはニューヨーク生まれだが、おそらく父親の部屋には膨大な量のレコードがあったに違いなく、それを聴いて育ったのだろう。

Bristol Sessions (CMF-011-D) 1991
トーマス・エジソン(1847-1931)が瘻管蓄音機「フォノグラフ」を発明したのは1877年だったが、その10年後に円盤式の「グラモフォン」が生まれている。商業レコードができたのは 1920年前後である。そのレコードの音楽利用の黎明に関して不案内だが、1923年6月14日、RCA ビクターの傘下にあったオケー・レコードのラルフ・ピア(1892–1960)がジョージア州ファニン群出身のフィドリン・ジョン・カースン(1868-1949)のフィドルと歌を録音している。彼はその前の1920年にブルーズ歌手のマミー・スミス(1891-1946)の "Crazy Blues" などを録音しヒットさせたが、ヒルビリー音楽に食指を伸ばしたのである。カースンが吹き込んだ "Little Old Log Cabin in the Lane" は空前の大ヒットとなる。うまい喩えが浮かばないのだが、津軽三味線の吉田兄弟がレコード黎明期の演奏家と想定する。そしてその演奏を録音しヒットしたとすると、伝承民謡が商業化されたことになる。1927年、ピアは更なる試みとして、テネシー州ブリストルでジミー・ロジャーズ、カーター・ファミリーなどを集めて録音した。後に「ブリストルセッション」と呼ばれるようになったが、伝承音楽が商業化するきっかけとなったものだった。

Folkways Records (FTS-31027) 1968
同時期、議会図書館のロマックス父子を中心にしたプロジェクトも、同じ地帯ののど自慢たちの録音をしている。アパラチア山系には、アイルランドやイングランドの古謡が残存していたわけで、学者と商業レコード会社の双方が注目したのは興味深い。さてこの時代に製作された商業レコードに着目したのが NLCR だった。今日、彼らを単なるコピーバンドと片付けてしまう人もいるようだが、とんでもない話である。彼らは20~40年代に作られたレコードに内包する、遥かなる歴史資産の片鱗に注目、人々、とりわけ都会人にそれを知らしめ、今日のアメリカンルーツ音楽ブームの礎を構築したと言える。ボブ・ディランも自伝『クロニクルス』で、影響を受けたと書いている。前述『大恐慌時代の歌』のジャケットには、画家のベン・シャーン(1898–1969)が撮影した、ストリート・ミュージシャンの写真が使われている。メンバーのひとり、ジョン・コーエンは優れた写真家であった。レコードジャケットに FSA(農業安定局)プロジェクトの写真を用いたのも、彼のアイデアだったと推測される。さらに彼らの LP アルバム 『モダンタイムス』(1968年) のジャケット写真は、かのロバート・フランクが担当していることを特筆したい。

White House Blues (1926)
ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズというバンド名は、このチャーリー・プール&ノースカロライナ・ランブラーズに由来する。1925年から30年にかけて録音を残しているが、当時流行のストリングバンドは、フィドル、バンジョー、ギターという編成が典型的なものだった。プールのバンジョーはスリーフィンガー奏法で、後のブルーグラスバンジョーのルーツになっている。また、ロイ・ハーヴィーのギターはベースランニングに特長があり、これまた大きな影響を与えている。グループ初期のフィドラーだったロージー・ローラーはダブルノートを使わない、どちらかといえばクラシックのヴァイオリンに近い奏法だった。プールが作った "White House Blues" はマッキレー大統領暗殺事件を扱ったトピカルソングで、今でもブルーグラス・ミュージシャンがよく取り上げている。禁酒法時代を背景に "Goodbye Booze" や "If the River Was Whiskey" といった歌を作っているのだが、最初に手にしたバンジョーは、密造酒を売って得たお金で購入したと言われている。映画のバックグラウンドミュージックを演奏するため、ハリウッドに招待されていた。切符代を受け取ったのだが、ロサンジェルスへ行かず、お金を6週間にわたる飲酒パーティに費やしてしまった。自ら作った歌のように『酒よさらば』できず、酒に溺れ、それが災いして、アルコール中毒で1931年に心臓発作に見舞われ、39歳の若さで他界してしまったのである。

The Library of Congress  Passing for Traditional: The New Lost City Ramblers and Folk Music Authenticity on LOC