2011年11月22日

琵琶湖坂本慈眼堂の石造阿弥陀如来像

阿弥陀如来座像 慈眼堂(大津市坂本)Fujifilm Finepix X100

本家鶴喜蕎麦(大津市坂本)Fujifilm Finepix X100
所用があって琵琶湖の浜大津に出かけたが、ついでに比叡山延暦寺の門前町、坂本まで足を伸ばした。最大の目的は実は「本家鶴喜蕎麦」のそばを無性に食べたくなったからである。店の前に大勢の客が行列を作って待っている。久しぶりの再訪だったが、この店もずいぶん有名になったものだと感心する。食べるために行列というのは苦手だが、折角だし、待つことにした。有形文化財指定の建物などにレンズを向けたりしているうちに順番が回ってきた。新そばの大ざるを馳走になり店を辞した。南に下り、西に曲がって坂道を登ると延暦寺の本坊滋賀院門跡に出た。境内を抜け、再び西に向かって石段を登ると、色づき始めた楓の向こうに慈眼堂(じげんどう)の瓦屋根が見えてきた。織田信長の山門(延暦寺)焼き打ちの後、その復興に尽力した天海僧正(慈眼大師)の廟所である。堂の西側にある墓所に進み、さらに石垣の上段に出ると念願の石仏に対面することができた。駒札に「桃山時代に、近江国観音寺城主六角承禎が母の菩提のために、母の郷里近江鵜川の地に弥陀の本願に基き弥陀の石仏四十八体を奉安し、そのうち十三体を江戸の初期に天海大僧が当地に移したものである」とある。要するに十三体すべてが花崗岩製一石造りの阿弥陀如来像である。像高はおおむね1.5メートル、大きな丸彫りで、それぞれの表情が異なるのが印象的だ。これまで京都の石仏を巡ってきたが、来年は近江の石仏、あるいは大和路のいずれかを巡礼したいと思っている。どちらを先ににするか悩ましい。

2011年11月21日

ピンホール写真芸術学会(PPAS)関西支部展2011


会期:2011年11月22日(火)~27日(日)
           12:00~19:00 (最終日は17:00まで)
会場:Gallery i
           京都市東山区祇園町南側「陶器いわさき」2階
電話:075-525-3203
出展;青木隆幸 オカダミツヨ 黒川武彦 F.ゴーツ 後藤健 佐藤司 篠原幹尚 庄治政 杉浦義紹 杉本康雄 関本恵子 瀬野里美 榮爾(EIJI) 徳永隆之 東谷一矢 兵庫一嘉 星野倫 前田英子 YOKOMAKI 萬久美子 

2011年11月19日

イルフォードのピンホール写真キット


HARMAN TiTAN Pinhole Camera
英国のハーマンテクノロジー社が先月24日に「イルフォード・ピンホール写真キット」を発売した。キットの内容は、ハーマン・チタン・ピンホールカメラ本体にハーマン・ダイレクト・ポジ印画紙、イルフォード・デルタ100プロフェッショナルフィルム、イルフォード多諧調RC印画紙(いずれもサイズは4x5インチ10枚セット)がついている。そしてイルフォード露光計算尺が付属。注目のボディだが、射出成形ABS樹脂製で、滑りどめのコーティングされているという。4x5インチフィルムホルダーが装填でき、キットモデルでは焦点距離72mmの広角コーンがついている。交換可能で110と150mmも計画されているという。写真では蛇腹式に見えるが、樹脂成型なので残念ながら折り畳めないことがビデオで分かる。日本ではハーマンテクノロジー社国内正規輸入元であるサイバーグラフィックス社が来年第一四半期に発売できるよう準備を進めているようだ。フィルムを売るためにはカメラを、という伏線があるのだろう。ピンホールカメラ商品化では香港のZERO社の成功例があるが、何故今ごろという違和感を抱く人がいるかもしれないが、私は大いに期待を寄せている。余談ながら、英国では銀塩フィルムで撮影、自家処理をするアマチュア写真家が多い、という背景があることを付け加えておきたい。

2011年11月8日

疾風の70年代を共有した伊藤君とQ-BLICKの思い出

Untitled by Keiichi Itō 1972

故・伊藤敬一君:1974年9月 Q-BLICK(新宿区早稲田鶴巻町)
やや旧聞気味だが、今月1日、東中野で催された「伊藤敬一さんを送る会」に出かけた。すぐにブログに書こうかと思ったが、何故か気が重く、手がつかなかった。かつて親しく遊んだ友を語るのはちょっと辛いからだ。でも書くことにしよう。伊藤君と会ったのは確か1973年の初頭だった。早稲田大学在学中だったが、英国に遊学、帰国したばかりだという。ダッフルコートを着た颯爽たる姿は、まさしく英国帰りそのものだった。ロンドンの「フォトグラファーズ・ギャラリー」で個展を開いたという。しばらく会わなかったが、その年の暮れ、彼が新宿区早稲田鶴巻町に「ギャラリーQ-BLICK」をオープンさせたことを知った。ビルの2階のフロア全体を占拠したかたちのギャラリーはゆったりとした、贅沢な空間だった。英国での個展、そしてギャラリー開設、そこに何らかの野望を感じないわけではないが、今思えばそれは自然の成り行きだったのだろう。野心という言葉を打ち消す、極めておおらかな性格を彼は持っていたからだ。翌1974年夏、私はQ-BLICKで個展「写真ですよ」を開いた。写真を生業にしてから初めての個展だったが、その後開催した写真展はいずれもこれを超えてないような気がする。内容に関しては、機会を改めて書きたいと思う。その年の秋、2回目の個展ではフォークシンガーの友部正人君のコンサートを計画した。単なるギャラリーではなく、多目的自由空間と化していたといって良いだろう。翌年の1975年にかけて都合3回の個展を開いたのだが、自分の作品を発表する場というより、音楽友だちとの交流の場という色合いが増していったように思う。豊田勇造君のコンサートを開いたが、もしかしたら最初に伊藤君を彼に紹介したのはこの時だったかもしれない。Q-BLICKがいつ閉じられたかは記憶にない。1977年東京・晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー・コンサート」の写真記録のため「フィッシュアイ'77」というグループを結成したが、伊藤君に手伝って貰ったことを憶えている。送る会では豊田君が「いとうくん」という歌を歌った。二人の付き合いはずっと続いたようだが、私とは疾風の70年代を共有しただけだった。でも忘れられない日々、楽しかったよ伊藤君、ありがとう。