2024年11月29日

ゲイ解放運動の活動家だったトランスジェンダーの写真家ピーター・ヒュージャー

Ethyl Eichelberger as Minnie the Maid
Ethyl Eichelberger as Minnie the Maid, 1981
Peter Hujar

ピーター・ヒュージャーは1934年10月11日、ニュージャージー州トレントンで、ウェイトレスのローズ・マーフィーの子として生まれたが、彼女は妊娠中に夫に捨てられた。彼はウクライナ人の祖父母の農場で育てられ、学校に通うまでウクライナ語しか話せなかった。1946年に祖母が亡くなるまで農場に残り、母親は彼をニューヨークに連れて行き、彼女と彼女の再婚相手のワンルームアパートで一緒に暮らした。家庭内暴力があり、ヒュージャーが16歳だった1950年に家を出て独立した生活を始めた。ヒュージャーは1947年に初めてカメラを手に入れ、1953年に工業芸術学校に入学し、写真家になりたいという希望を表明した。彼は心強い教師である詩人のデイジー・アルダンに出会い、彼女のアドバイスに従って商業写真の見習いになった。高校時代の写真の授業とは別に、ヒュージャーの写真教育と技術の熟練は商業写真スタジオで習得され、そこで彼は営業時間外に暗室を使うことができた。1957年、23歳になるまでには、彼は現在では美術館レベルの品質と見なされる写真を撮っていた。1967年初頭、彼はリチャード・アヴェドンとマーヴィン・イスラエルが教えるマスタークラスで選ばれた若手写真家のひとりとなり、そこでアレクセイ・ブロドヴィッチとダイアン・アーバスと出会った。1958年、芸術家のジョセフ・ラファエルのフルブライトで奨学金で彼とともにイタリアを訪れた。そして1963年、ヒュージャーも自身のフルブライト奨学金を獲得、1959年から交際していたポール・テクとともに再びイタリアを訪れ 、シチリア島のパレルモのカプチン会地下墓地を探検して写真を撮影した。

Palermo Catacombs
Palermo Catacombs, Sicily, Italy, 1963

そしてその死者の写真がのちに写真集 "Portraits in Life and Death"(生と死の肖像)に収められた。1964年、アメリカに戻り、商業写真家ハロルド・クリーガーのスタジオで主任アシスタントとなった。この頃、彼はアンディ・ウォーホルと出会い、ウォーホルの3分間の『スクリーンテスト』4本にモデルとして登場した。スクリーンテストを集めたコンピレーション映画 "The Thirteen Most Beautiful Boys"(最も美しい13人の少年)』にも登場した。1967年に商業写真の仕事をやめ、多大な経済的犠牲を払って、主に自身の同性愛者の環境を反映した芸術作品の制作に取り組み始めた。 彼はゲイ解放運動の有力な芸術家活動家であり、1969年には恋人で政治活動家のジム・フォーラットとともにウエスト・ヴィレッジでストーンウォールの暴動を目撃した。

Candy Darling
Candy Darling on Her Deathbed, New York City, 1973

フォーラットの勧めで1970年6月28日、彼は最初のゲイ解放行進を記録し、ゲイ解放戦線のために、今ではやや皮肉めいた写真「カム・アウト!!」を撮影した。その年の末に彼らが別れた後、彼は1972年半ばまでスタジオに移らなければならず、1973年春にようやくイースト・ヴィレッジの2番街189番地にあるエデン劇場の上のロフトに移ることができた。かつてジャッキー・カーティスが住んでいたこの場所を、ヒュージャーは生涯そこで暮らし、働けるように改装した。1974年末、彼はブルーム通りのフォト・ギャラリーで、クリストファー・マコスの写真とともに展覧会を開いたが、作品は1枚も売れなかった。しかし、友人によれば、ダ・カーポ・プレスと本の出版契約を結んだという。その後の数か月間、彼は本に載せるため、多くの肖像写真を撮影した。

Doves in The Circus
Doves in The Circus, New York City, 1973

スーザン・ソンタグ、フラン・レボウィッツ、ヴィンス・アレッティといった友人のほか、ジョン・ウォーターズ、ドラッグクイーン俳優のディヴァイン、作家ウィリアム・バロウズといった芸術家たちだった。1976年に出版された最後の本では、肖像写真に加えて、1963年にパレルモのカタコンベで死体を撮影した写真もいくつか掲載されている。当時入院中だったスーザン・ソンタグは『生と死の肖像』の41枚の連続写真の序文を書いた。この本は冷淡な評価しか受けず、後にようやくアメリカの写真界の古典となっり2024年に再発行された。ヒュージャーと深い関わりのあるもうひとりの芸術家はロバート・メイプルソープである。ふらりはともに白人のゲイで、肖像写真に優れ、ポルノと美術の境界線を歩む同性愛を公然と表現した作品を残したが、構造的には正反対であった。メイプルソープが被写体を抽象的な形に、モデルの顔を仮面に、ヌードモデルを彫刻に還元したのに対し、ヒュージャーはモデルの特異性、還元できない性質、肉体的な形状よりも人間の感覚を強調した。

Untitled
Untitled, New York City, 1970s

ヒュージャーの最も印象的な作品のひとつである "Orgasmic Man"(性的絶頂の男)は、メイプルソープの作品の重要な違いでもある。メイプルソープのエディション化された写真のすべてにおいて、彼は一度もオーガズムや射精を表現せず、それに伴う表情も描写していない。彼の作品はほとんどが白黒写真で、愛と喪失の両方を暗示する親密さを伝えていると評されている。この親密さの一面は、ヒュージャーがモデルとつながる能力にあった。モデルのひとりは、失敗した撮影の後に「ヒュージャーの大きな特徴は、明らかにしなければならないということでした。今は分かっていますが、当時は分かりませんでした。言い換えれば、レンズに向かって、激しく燃えるような正直さを見せることです」と語ったと伝えられている。1987年1月、ヒュージャーはエイズと診断された。10ヵ月後の11月25日、ニューヨークで53歳で亡くなった。葬儀はグリニッチビレッジのセントジョセフ教会で執り行われ、ニューヨーク州ヴァルハラのゲートオブヘブン墓地に埋葬された。

Museum of Modern Art  Peter Hujar (1934-1987) | Biography | Works | Wikipedia | The Museum of Modern Art

2024年11月27日

サム・フォークがニューヨーク・タイムズに寄せた写真は鮮烈な感覚をもたらした

V-E Day
Quiet moment of gratitude in St. Patrick's Cathedral on V-E Day, May 8, 1945
Sam Falk (1901-1991)

サム・フォークは1901年1月19日、ウィーンで生まれ、子どもの頃にオーストリアからニューヨークに移住した。独学で写真を学び、16歳のときに簡単なボックスカメラで撮った稲妻の写真をニューヨーク・モーニング・ワールドに10ドルで売り込んだ。2年後、彼は学校を辞めて商業写真家のもとで働き、彼のためにシャムロックIV・レゾリュート・ヨットレースを取材した。1925年にニュ-ヨーク・タイムズに入社した。ちょうどフォトジャーナリズムが本格的に普及し始めた頃だった。1940年代、彼はタイムズで35ミリ写真の使用を開拓した。ニュージャージー州ファーヒルズ競馬場で、障害競走でよろめいて騎手を投げ出す馬を撮影するために使用した4×5インチのスピードグラフィックのような、通常の報道カメラが扱いにくいと感じたためである。新聞社では小型の35ミリカメラに対する偏見があったため、自分で35ミリカメラを購入しなければならなかった。編集者のレスター・マーケルは彼の「ミニチュア・フォーマット」の写真を気に入り、35ミリの仕事をよく彼に与えた。ヘラルド・トリビューンがカメラマンがコンパクトカメラに切り替えると発表した後、小型カメラが受け入れられるようになった。フォークは中判の二眼レフ、ローライフレックスも使用していた。1969年に引退するまでに、写真はニュースを伝える上で欠かせない手段となっていた。

aquashow
The start of an 'aquashow', New York, August 6, 1951

サム・フォークが写真家としての使命を述べたのは「物語を完全かつ瞬時に伝えること」というフォトジャーナリストの神髄を表す言葉であった。アメリカの歴史における激動と変革の時代、ニューヨーク・タイムズの専属カメラマンとして活躍したフォークは、新聞の視覚的感性を豊かにするタイミング、構成、物語の感覚をもたらした。読者はたった3セントで、美術館に飾ってもおかしくない写真を見ることができた。実際、後に美術館に飾ることになったのである。彼の作品を特集した1964年の書籍 "New York: True North"(ニューヨーク:真に重要な目標)は「フォークは私たちを街とのより親密な交わりへと連れて行ってくれる」「彼は、適切な場所に適切なタイミングでいる記者の才覚と、瞬間を活かす芸術家の能力を兼ね備えている」と評した。

quazanies
The divers of the Aquazanies troupe putting on a show, August 6, 1951

評論家は「街灯の下で警察に捕まったギャンブル狂の暗い一面、セントラル パークの湖のほとりで少女たちがはしゃぐ明るい瞬間、国連で密集して会議する英国外交官たちの集中した様子などを、同等の技量で私たちと共有してくれる」と書いている。1962年に写真現像技師として同紙に入社し、1965年から2014年までスタッフとして勤務した受賞歴のあるバートン・シルバーマンは「サムは宝石のような存在でした」と語る。シルバーマンが着任した当時、フォークは勤務していた日曜版部門で、ニューヨーク・タイムズ・マガジンのニュース特集や表紙、ニーナ・シモン、マルセル・デュシャン、シドニー・ポワチエといった著名人のポートレートなどを撮影していた。シルバーマンは「フォークは細心の注意を払う写真家であり、若いスタッフを励ます語り手として記憶し、誰もが彼を尊敬していました。どこに行っても、彼は自由裁量を持っていました」と説明した。

All aboard
Waiting for the "All aboard" on a platform at Pennsylvania Station, March 17, 1955

同誌の現撮影監督キャシー・ライアンは、1996年の100周年記念写真特集の制作中に初めてフォークの作品を目にした。「わぁ、サム・フォークって誰?と思いました。本当に優れた写真家です」とライアンは振り返る。アンリ・カルティエ=ブレッソン、エリオット・アーウィット、ブルース・デビッドソンといった先駆的な写真家たちと比較しながら、フォークの作品に「観察した瞬間に対する完全な感謝」を見い出している。1951年、フォークはクイーンズのフラッシングに行き、プールサイドに陣取ってアクロバティックなダイビング団体「アクアザニーズ」を撮影した。ダイバーたちがまるで縫いぐるみ人形のように水面に向かって疾走している。飛び込み台は写真の端から突き出ており、背景には広大な空が広がっているが、焦点は、常に落下し、決して着地せずに永遠に動き続ける人物たちに置かれている。

Drive-In Theater
At the Bay Shore Drive-In Theater, Long Island, May 28, 1955

フォークと、そして彼のカメラは、リンドバーグ誘拐裁判からミッドタウン・マンハッタンのヨーロッパ戦勝記念日の式典まで、さまざまな出来事を目撃した。彼はスポーツの撮影も行い、後に彼は、こうした仕事は報道写真家にとって「電光石火のタイミング感覚」を養うための最高の訓練だったと述べている。1925年から1964年の間に、彼の写真は2万枚以上、ニューヨークタイムズに掲載された。「フォークは適切な時に適切な場所にいる記者の才覚と、瞬間を活かす芸術家の能力を持っていた」と書いている。1991年5月19日、フロリダ州サンライズのサンライズ・ヘルス・センターで心不全のため死去、90歳だった。生前も彼の作品はギャラリーや博物館で度々表彰され、その中にはニューヨーク近代美術館やスミソニアン協会も含まれる。スミソニアン協会では1年以上にわたって彼の写真の個展が開催された。1952年、フォークは「この大都市の生活の最も良い面を促進して人々の善意を増進した功績」によりニューヨーク市から表彰された。

New York Times  Sam Falk (1901-1991) Austrian-American | Biography | Art Works | The New York Times

2024年11月25日

カラー写真の先駆者ソール・ライターは戦後の写真界の傑出した人物のひとりだった

Street
Rainy Street, New york, Undated
Saul Leiter

ソール・ライターは1923年12月3日、世界的に有名なユダヤ教のタルムード学者の息子として、 ペンシルベニア州ピッツバーグに生まれた。ライターが芸術に興味を持ち始めたのは10代後半の頃で母親がカメラをプレゼントした。父親のようなラビになるように勧められたものの、神学校を中退し、23歳の時にニューヨークに移って絵画の道を歩み始めた。写真の実験をしていた抽象表現主義の画家リチャード・プーゼット=ダートと親しくなった。プーゼット=ダートとの友情、そしてその後すぐに出会ったユージン・スミスからの影響によって、彼の写真への関心は広がった。彼はすぐに数枚のスミスの写真を参考にライカで白黒写真を撮り始めた。ライターの初期の白黒写真は、写真という媒体に対する並外れた親和性を示している。1950年代までには、カラー写真も手がけ始め、写真という媒体の黎明期に、広範かつ重要な作品群をまとめた。彼の独特の落ち着いた色彩は、同時代の画家の作品の中でも際立った絵画的な品質を備えていることがよくある。ライターの最初のカラー写真展は、1950年代に、当時の抽象表現主義の画家たちの会合の場であったアーティスト・クラブで開かれた。

Halloween
Halloween, New York, 1952

エドワード・スタイケンは、1953年にニューヨーク近代美術館で開催された画期的な展覧会 "Always the Young Stranger"(いつも若い異邦人)にライターの白黒写真23点を出品した。そして1957年にニューヨーク近代美術館で開催されたカンファレンス "Experimental Photography in Color"(実験的カラー写真)にもライターのカラー写真20点を出品した。1950年代後半、アートディレクターのヘンリー・ウルフは、ライターのカラーファッション作品を『エスクァイア』、後に『ハーパーズ・バザー』に掲載した。しかしその後40年間にわたり、ライターの非営利的な作品は、アート界全体にほとんど知られていないままだった。ライターは1970年代を通じてファッション写真家として活動を続け『ショー』『エル』『クイーン』『ノヴァ』『ブリティッシュ・ヴォーグ』などの出版物に寄稿した。

Snow
Snow, New York, 1960

ライターは現在、初期カラー写真の先駆者とみなされており、戦後の写真界の傑出した人物のひとりとして知られている。1990年代を通じてハワード・グリーンバーグ・ギャラリーで数回の展覧会が行われた後、2006年にシュタイデル社からモノグラフ "Early Color"(初期のカラー)が出版されてから、ライターの作品は人気が急上昇した。編者のマーティン・ハリスンは「ライターの感受性は、ロバート・フランクやウィリアム・クラインといった写真家が関連づけられる、都会の不安との赤裸々な対峙の外側に自分を置いた。その代わりカメラは彼に、見て、事象を切り取り、現実を解釈する別の方法を与えた。彼はマンハッタンの大混乱の中で静かな人間らしい瞬間を捜し、最もありそうもない状況からユニークな都会の田園詩を創り出した」と書いた。

Red Umbrella,
Red Umbrella, New York, 1955

"Early Color" に続いて、ミルウォーキー美術館での初の大規模な回顧展 "In Living Color"(生きているカラー/2006年)を皮切りに、写真と絵画におけるライターの作品の奥深さと範囲を強調する一連のモノグラフと国際展が続いた。その後、パリのアンリ・カルティエ=ブレッソン財団、アムステルダムのユダヤ歴史博物館、ローザンヌのエリゼ宮、ハンブルクのディヒトールハーレンなど、いくつかの美術館などでライターの個展が開催された。最近のモノグラフには "Early Black and White"(初期の白黒写真/2014年)"Painted Nudes"(描かれたヌード/2015年)"In My Room"(自室にて/2017年)"All about Saul Leiter"(ソール・ライターのすべて/2017年)"Fashion Eye: Saul Leiter New York"(ファッションの眼差し/2017年)がある。

Taxi
Taxi, New York, 1957

ライターの作品は、ニューヨーク近代美術館、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー、ニューヨークのホイットニー美術館、ヒューストン美術館、シカゴ美術館、アムステルダム市立美術館、ヒューストン美術館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、数多くの公共および個人のコレクションに収蔵されている。ライターは、トーマス・リーチによる受賞歴のあるドキュメンタリー "In No Great Hurry: 13 Lessons in Life with Saul Leiter"(急がない人生:ソール・ライターとの13の人生訓/2012年)の題材となった。ライターは2013年11月26日、ニューヨークで死去、89歳だった。

Museum of Modern Art  Saul Leiter (1923–2013) | Works | Wikipedia | Exhibitions | The Museum of Modern Art

2024年11月22日

ソーシャルメディア Bluesky のユーザー数が 2,000 万人を突破した

Bluesky

スタートアップ企業の紹介と科学技術のニュースサイト TechCrunch(テッククランチ)によると、ソーシャルメディアで X と競い合う Bluesky は、イーロン・マスクが所有する以前は Twitter として知られていたプラットフォームからの離脱者の急増から恩恵を受けているという。11月19日、Bluesky は大きな節目を迎え、ユーザー数が2,000万人を突破した。さらに新しいデータによると、アプリの急速な成長により、1日のアクティブユーザー数やウェブサイト訪問数などの指標で、もう1つの有力な X のライバルである Meta の Instagram や Threads との差が縮まりつつあることがわかった。Bluesky のユーザーベースは、月間アクティブユーザー数が2億7,500万人を超えたと最近発表された Threads に比べるとまだはるかに小さい。

boycott_X

しかし Bluesky の現在の成長率が維持されれば、やがて Threads に追いつく可能性があると、世界中の大手企業に市場分析データを提供している SimilarWeb は考えているそうである。同社のデータによると、大統領選挙前は Threads の1日当たりのアクティブユーザー数(DAU)が Bluesky の5倍だったが Bluesky の活動がピークに達した11月15日には、アメリカにおける Threads の Bluesky に対するリードはわずか1.5倍にまで縮小していた(1日当たりのアクティブユーザー数には iOS および Android のモバイルアプリが含まれ、ウェブサイト訪問者は含まれない)。Instagram の責任者アダム・モッセリは SimilarWeb のデータが正確であることを否定したが Meta は DAUを公開していない。しかしマスクが所有する X は依然として優位に立っており、現在、アメリカにおける1日のアクティブユーザー数は Bluesky の10倍以上である。

同社のデータによると、アメリカとイギリスの両方で、1日あたりのウェブサイト訪問者数で Bluesky が Threads を上回り、潜在的な新規ユーザーの強い関心を示している。世界全体では Bluesky の1日当たりのウェブサイト訪問者数はまだ Threads を上回っていないが、11月中旬では非常に接近している。SimilarWeb によると Bluesky のモバイルアプリの利用も伸びている。大統領選後から11月15日までに、アメリカでの Bluesky のアプリの使用率は、今年の最初の10ヶ月と比較して519%伸びたという。イギリスでも利用が急増し352%増加した。イーロン・マスクの X のロゴマークは「黒」だけど、新たに登場した「青空」に旧 Twitter のシンボルだった「青い鳥」を思い出した人が多いのではないだろうか。ドナルド・トランプと共謀するイーロン・マスクを嫌悪する人たちが X から Bluesky に乗り換えたのだろう。強い共感を覚える。これまで何度か指摘したことだが、政治家を含め、未だに X で社会問題を議論している日本人には呆れるばかりである。蛇足ながら私のアカウントは @fotokiddie.bsky.social です。下記リンク先は ABC ニュースの「Bluesky とは? ソーシャルメディア・プラットフォームのユーザー数が 2,000万人を突破」(英文)である。

abc news What is Bluesky? Social media platform tops 20 million users by Max Zahn | ABC News

2024年11月21日

日常生活のありのままの瞬間を捉えるストリート写真の歴史と進化

Zoo
Garry Winogrand (1928–1984) Central Park Zoo, New York, 1967

ストリート写真は、芸術ジャンルとして1世紀以上にわたって存在し、テクノロジー、アート、文化の変化とともに進化してきた。ストリート写真の本質は、公共の場での日常生活のありのままの瞬間を捉えることであり、視覚的なストーリーテリングやドキュメンタリー写真の重要な一部となっている。ストリート写真は、特に社会の成長と争いの時代に、地域やコミュニティの独自のアイデンティティと文化を探求する上で貴重なツールとなり得る。写真の初期の頃は、かさばって扱いにくい機材が必要だったため、ストリート写真はあまり一般的ではなかった。ポートレート撮影や実用的な官僚的な記録の方が優先され、儲かるビジネスだった。しかし1900年代初頭に携帯可能なカメラが登場したことで、写真家は街頭でのありのままの瞬間を捉えることができるようになった1920年代から30年代にかけて、アンリ・カルティエ=ブレッソンなどの先駆者たちは、手持ちカメラを使って自分たちの住む都市の日常生活を捉え、現代のストリート写真への道を切り開いた。

Prostitutes
Henri Cartier-Bresson (1908–2004) Prostitutes, Calle Cuauhtemoctzi, Mexico, 1934

1950年代から60年代にかけて、入手しやすいカメラやより高速な高感度フィルムの登場により、ストリート写真が盛んになる。ロバート・フランクやゲイリー・ウィノグランドなどの写真家は、戦後のアメリカの精神をとらえ、国の社会的、政治的な状況の変化を記録した。1970年代には、ストリート写真はより内省的になり、ダイアン・アーバスやリー・フリードランダーなどの写真家が作品の中でアイデンティティと疎外感というテーマを探求した。写真術の黎明期以来、社会的・政治的な変化がアーティストに影響を与え、その歴史の中で重要な運動が生まれた。ストリート写真における最も重要な運動をいくつか挙げてみよう。

Migrant workers on a California road
Dorothea Lange (1895–1965) Migrant workers on a California road, 1935
  • ピクトリアリズム: この運動は1800年代後半から1900年代前半に始まり、ソフトフォーカスと絵画的な美学を特徴としていた。ピクトリアリズムの写真家は、街の風景やありのままの瞬間を捉え、都市環境や日常生活の写真を頻繁に撮影しました。
  • ニュービジョン: この運動は1920年代に始まり、線、形、パターンなどの写真の形式的な要素に重点が置かれていた。ニュービジョンの写真家は、角度や視点を実験的に使用して、抽象的でシュールな画像を作成することが多かった。
  • ヒューマニズム: この運動は1930年代に始まり、人間の感情や経験に焦点を当てていることが特徴である。ヒューマニズムの写真家は、公共の場での人々のありのままの瞬間を捉え、日常生活の苦悩や喜びを強調することがあった。
  • ドキュメンタリー: この運動は 1930 年代に始まり、社会問題や政治的出来事に焦点を当てていることが特徴である。ドキュメンタリー写真家は、貧困、戦争、社会的不正義などの画像を撮影し、写真を活動や社会変革の手段として使用した。
  • モダニズム: この運動は1950年代に始まり、光、影、質感など、写真の美的品質に重点が置かれていた。モダニズムの写真家は、都市環境の抽象的でミニマリスト的なイメージを撮影することが多かった。
  • ポストモダニズム: この運動は1980年代に始まり、写真の伝統的な慣習を拒絶する特徴があった。ポストモダニズムの写真家は、皮肉とユーモアを使って社会を批判し、写真の真実性という概念に挑戦することが多かった。

これらのムーブメントは相互に排他的ではなく、多くのストリート写真家はキャリアを通じて複数のムーブメントの影響を受けている。ただし、各ムーブメントはストリート写真の芸術に対する独自のアプローチを表しており、このジャンルに大きな影響を与えている。過去1世紀にわたって、このジャンルに多大な貢献をした著名なストリート写真家が数多く存在した。この100年間の主要なストリート写真家5名は次の通りである。

Chicago
Vivian Maier (1926-2009) Chicago, Illinois, Undated
  • アンリ・カルティエ=ブレッソン: 多くの人から現代のストリート写真の父とみなされているアンリ・カルティエ=ブレッソンは、20世紀にこのジャンルの定義に貢献したフランスの写真家。彼はライカで日常生活のつかの間の瞬間を捉えた達人で「決定的瞬間」という言葉を残した。
  • ドロシア・ラング: ラングは、大恐慌時代の力強い写真で最もよく知られているアメリカの写真家。移民労働者や貧困に苦しむ家族を撮影した彼女の写真は、当時の苦難をとらえ、経済危機に苦しむ人々の窮状に注目を集めた。
  • ヴィヴィアン・マイヤー: マイヤーは、生涯のほとんどをシカゴでベビーシッターとして働いていたアメリカ人写真家。彼女はまた、街中の人々や場所の写真を撮影する熱心なストリート写真家でもあった。彼女の作品は、彼女の死後、オークションでネガの箱が発見されるまで、ほとんど知られていなかった。
  • ゲイリー・ウィノグランド: ウィノグランドは、1960 年代と 70年代のエネルギーと混沌を捉えたアメリカの写真家です。彼のストリート写真には、移動中の人々の自然な姿を捉えたものが多く、日常生活のユーモアと不条理を捉える才能で知られていた。
  • リー・フリードランダー: リー・フリードランダーは、ストリート写真に対する革新的なアプローチで知られるアメリカの写真家です。彼は、反射、影、その他の都市環境の要素を利用して、写真の真実性に関する従来の概念に挑戦する複雑で階層化されたイメージを生み出した。彼の作品は、20世紀と21世紀のストリート写真の進化に大きな影響を与えた。

Baltimore
Lee Friedlander (born 1934) Baltimore, Maryland, 1968

これらのストリート写真家は路上での人々の日常生活をありのままに撮影してきた。結局のところ、ストリート写真は、写真全般と同様に、祝福から非難まで、人間の反応のあらゆる範囲を網羅している。それがストリート写真を世界共通の言語にしているのです。デジタル時代において、ストリート写真は新たな進化を遂げ、写真家はスマートフォンやソーシャルメディアを使用して作品を共有し、世界中の視聴者とつながるようになった。今では Instagram、Pinterest、Flickr などのソーシャルメディア・プラットフォームの普及により、ストリート写真はかつてないほど民主的でアクセスしやすく、包括的な実践となっている。下記リンク先の書籍は『バイスタンダー:ストリート写真の歴史』はコリン・ウェスターベックおよびジョエル・マイヤーウィッツによる共著で、1994年に初めて出版された。ストリート写真のサーベイで、エッセイとテキストに図解写真が添えられている。2001年に改訂・増補され、2017年に再び改訂された。

Amazon  Bystander: A History of Street Photography by Colin Westerbeck and Joel Meyerowitz

2024年11月19日

スノードン卿にイギリスのアンリ・カルティエ=ブレッソンと評されたジェーン・ボウン

Mick Jagger
Mick Jagger, October 5, 1977
Jane Bown

ジェーン・ボウンは、 オブザーバー紙で働いていたイギリスの写真家だった。自らを「私は生涯、時間と光について悩み続けた」と語ったが、同紙の編集者ジョン・マルホランドは、彼女を「オブザーバー紙の DNA の一部」と呼んだ。1925年3月13日、ヘレフォードシャーのイーストナーで生まれた。イングランドのドーセットで、叔母だと信じていた女性たちに育てられた彼女は、子ども時代は幸せだったと述べている。12歳の時に、その中のひとりが自分の母親であり、自分の出生が私生児であると知って動揺したと述べている。この発見がきっかけで、彼女は思春期に非行に走り、母親に対して冷たく接するようになった。父親は60歳を超えたチャールズ・ウェントワース・ベルで、彼女の母親は看護師として雇われていた。彼女は最初 WRNS(イギリス海軍婦人部隊)で海図修正者として働き、ノルマンディー上陸作戦の計画にも関わり、この仕事で教育助成金を受ける資格を得た。その後、ギルフォード美術学校のイフォー・トーマスのもとで写真学を学んだ。ボウンは1951年まで結婚式のポートレート写真家としてキャリアをスタートし、トーマスの紹介でオブザーバー紙の写真編集者メヒティルド・ナヴィアスキーと知り合った。ナヴィアスキーは彼女のポートフォリオを編集者のデイビッド・アスターに見せ、アスターは感銘を受け、すぐに哲学者バートランド・ラッセルの写真を撮るよう彼女に依頼した。

Voters from a cotton mill
Voters from a cotton mill, Rochdale, England, 1958

ボウンは主に白黒で作品を制作し、自然光を利用することを好んだ。1960年代はじめまでは、主に二眼レフのローライフレックスを使用していたが、その後、35mmのペンタックスの一眼レフを使用した。そして最終的にはオリンパスOM-1カメラに落ち着き、85mmレンズを使用することが多くなった。彼女は特に、富裕層、有名人、悪名高い人、無名の人のポートレートで有名だった。その多くは彼女の被写体のトレードマークとなった画像で、その中には、逃げようとしたロイヤルコート劇場の横の路地で追い詰められ、檻に入れられた鷲のように睨みつける劇作家サミュエル・ベケットの決定的なポートレートも含まれている。

Samuel Beckett
Samuel Beckett, Royal Court Theatre, London, 1976

オーソン・ウェルズ、サー・ジョン・ベッチェマン、ウディ・アレン、シラ・ブラック、クエンティン・クリスプ、PJ ハーヴェイ、ジョン・レノン、トルーマン・カポーティ、ジョン・ピール、ギャングのチャーリー・リチャードソン、サー・ジェラルド・テンプラー陸軍元帥、ジャービス・コッカー、ビョーク、ジェーン・マンスフィールド、ダイアナ・ドース、アンリ・カルティエ=ブレッソン、イヴ・アーノルド、イヴリン・ウォー、ブラッサイ、マーガレット・サッチャーなど、何百人もの被写体を撮影した。彼女は2006年、イギリスの女王エリザベス2世の80歳の誕生日のポートレートを撮影した。ボウンの広範囲にわたるフォトジャーナリズム作品にはホップ摘み取り人、グリーンハム・コモン女性平和キャンプの立ち退き、バトリンズの休暇リゾート、ブリティッシュ・シーサイド、そして2002年のグラストンベリー・フェスティバルに関するシリーズがある。

Cecil Beaton
Cecil Beaton, Wiltshire, England, 1974

彼女の社会ドキュメンタリーとフォトジャーナリズムは "Unknown Bown"(知らぜらるボウン/2007年) が出版されるまで、ほとんど知られていなかった。2007年、彼女のグリーンハム・コモンの作品は、テート・ブリテン国立美術館で開催された初の大規模な写真展 "How We Are: Photographing Britain"(私たちはどうあるべきか:イギリスを撮る)の一部として、ヴァル・ウィリアムズとスーザン・ブライトによって選出された。ルーク・ドッドとマイケル・ホワイトが監督したボウンのドキュメンタリー "Looking For Light"(光を求めて/2014年)では、が自身の人生について語り、エドナ・オブライエン、リン・バーバー、リチャード・アシュクロフトなど、一緒に撮影したり仕事をした人たちへのインタビューが収録されている。

Queen Elizabeth II
Queen Elizabeth II, photographed for her 80th birthday, 2006

2014年6月、ボウンは南イングランドのクリエイティブ・アーツ大学から名誉学位を授与された。1954年、ボウンはファッション小売業の重役マーティン・モスと結婚、マシュー、ルイザ、ヒューゴの3人の子供をもうけた。モスは2007年に彼女より先に亡くなった。2014年12月21日、ボウンはハンプシャーの自宅で亡くなった。89歳だった。初代スノードン伯爵は彼女の作品に敬意を表わし「最高の写真を生み出した、いわばイギリスのカルティエ=ブレッソン」「彼女はトリックや仕掛けに頼らず、シンプルで正直な記録だけを、鋭敏で知的な目で撮影した」と評した。下記リンク先はガーデアンの記事「オブザーバー紙で60年にわたるキャリアを持つ世界的に有名な写真家ジェーン・ボウン」(英文)である。

The Guardian  Jane Bown (1925-2014) World-renowned photographer whose career on the Observer

2024年11月18日

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前エントリー「英国ガーディアン紙が X 公式アカウントによる X への投稿を停止」で英国のガーディアン紙が、イーロン・マスクのソーシャル・メディア X に同紙の公式アカウントからコンテンツを投稿しないことを発表したと書いた。同紙は「X は有害なメディア・プラットフォームであり、そのオーナーであるイーロン・マスクが政治的言説を形成するためにその影響力を行使することができる」としたが、私自身は今後の推移を見守るため、アカウントを保持しようしようと思っているとも。しかし意に沿わないソーシャルメディアに席を持ち続けるのが空しくなし、思い切ってアカウントを削除した。何度か X を批判する記事を書いていたが、所詮犬の遠吠え、離脱した方がすっきりすると痛感したからだ。そして新たなプラットフォーム Bluesky に移行したわけである。11月14日付け Fastcompany の記事によると「イーロン・マスクがドナルド・トランプをホワイトハウスに復帰させたことが転換点となり、分散型 X の代替手段に人々が集まる中で Bluesky には力がある頻繁に聞かれるようになったようだ。

Bluesky によると、先週から100万アカウントがネットワークに参加し、ユーザー数は合計で約1,500万人になった」そうである。さて Bluesky だが日本語は無論のこと、多言語に対応している。そしてインターフェースが X に酷似している。と思った人は、理由を聞けばなるほどと納得するはずだ。そもそも Bluesky 作ったのは Twitter 創設者のジャック・ドーシー氏だったのである。Bluesky が注目に値するのは AT プロトコルと呼ばれるオープンフレームワーク上に構築されていることで、これにより、特定の企業が所有しない分散型ネットワークが実現する。テキスト駆動型ソーシャルメディア・フィードの中で最もオープンであることである。メタバースの Threads よりも話題性が高く、分散型ソーシャルメディアの Mastodon よりも簡単に参加できる。逸話的に言うと、現在の Bluesky の雰囲気は繰り返しになるが 2000 年代後半の X (まだ Twitter と呼ばれていたころ) に似ている。今のところ日本人は少ないようだが、参加する人が増えるにつれてく歓迎される雰囲気だ。

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2024年11月16日

英国ガーディアン紙が X 公式アカウントによる X への投稿を停止

Elon Trump

英国のガーディアン紙デジタル版によると、イーロン・マスクのソーシャル・メディア X に同紙の公式アカウントからコンテンツを投稿しないことを発表した。読者への発表の中で、以前はツイッターと呼ばれていたこのプラットフォームを利用する利点は、現在では否定的な点よりも大きいと考えていると述べた。ガーディアン紙は X に80以上のアカウントを持ち、約2,700万人のフォロワーがいる。同紙は極右の陰謀論や人種差別など、プラットフォーム上のコンテンツについて長年懸念してきた。また同サイトの米大統領選報道が同紙の決定を具体化したと付け加えた。「極右の陰謀論や人種差別など、不穏当なコンテンツがしばしばこのプラットフォームで宣伝されたり、発見されたりすることから、これは以前から検討していたことだ」という。「X は有害なメディア・プラットフォームであり、そのオーナーであるイーロン・マスクが政治的言説を形成するためにその影響力を行使することができる」とも。反ヘイトスピーチキャンペーン団体と EU は、大富豪であるマスクが2022年に440億ドルで買収して以来、同プラットフォームのコンテンツ基準をめぐって批判してきた。

X_logo

言論の自由絶対主義者」を自認するテスラの最高経営責任者は、陰謀論者のアレックス・ジョーンズ、女性差別主義者のインフルエンサー、アンドリュー・テイト、英国の極右活動家トミー・ロビンソンなどの禁止されたアカウントを復活させたのである。ただザ・ガーディアンの公式アカウントは撤退するが、個々の記者がサイトを使用することに制限しないという。この発表に対してマスクは、ガーディアン紙は「無関係」で「手間のかかる下劣なプロパガンダ機関」だと X に投稿したという。今月、ベルリン映画祭は公式な理由を挙げずに X をやめると発表し、先月にはノースウェールズ警察が「もはや我々の価値観と一致しない」という理由で X の使用を中止したと発表している。私自身は今後の推移を見守るため、アカウントを保持しようしようと思っている。政治家を含めいまだに社会問題をポストしている人たちが信じっれない。以下のリンク先は参考にしたガーディアン紙の記事「ガーディアンは公式アカウントからのイーロン・マスクの X への投稿を廃止」の全文である。

The Guardian Platform’s coverage of US election crystallised longstanding concerns about its content

2024年11月15日

チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられているセルヒオ・ララインの視座

Cafe, Valparaiso
Cafe, Valparaiso, Chili, 1963
Sergio Larraín

セルヒオ・ララインは1931年、サンティアゴで生まれた。チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられており、ストリート写真、特にストリートチルドレンを「これまで誰も試みたことのない方法で影と角度を使って」撮影した。チリの裕福な家庭に生まれた彼は、林業の仕事をあきらめて写真家の道に進み、カフェで働いて最初のライカを買うお金を貯めた。建築家の父の息子として、彼はレンズを携えて中東やヨーロッパを旅するうちに写真への愛着が深まった。しかし、本当の転機は1958年に訪れた。ブリティッシュ・カウンシルの奨学金を得て、イギリス全土の都市を撮影することができたのだ。出来上がった写真(主にロンドン)は、日常を捉えた魅力的なショットで、アンリ・カルティエ=ブレッソンの目に留まった。このフランス人は後にララインをパリに招待、1959年にカルティエ=ブレッソンらが創設したグナム・フォトに準会員として入会、1961年に正式メンバーになった。彼のキャリアは、さまざまな主題で満ち溢れており、撮影対象に対する彼の有名な思いやりと結びついている。ララインのスタイルはすぐに認識できる。縦長のフレームを使用し、ローアングルのショットを好み、実験をまったく恐れなかった。彼の作品の多くはストリートチルドレンに関するもので、彼の初期の作品のいくつか、たとえば 1957 年のチリでのシリーズは間違いなく彼の最も力強い作品である。

Fisherman's daughters
Fisherman's daughters, Los Horcones, Chile, 1956

建築写真にも精通しており、同国人で外交官のパブロ・ネルーダの家を撮影している。実際、彼の肖像画は環境的であると同時に人間的でもある。彼の最も魅力的な写真のひとつは、チリの港町バルパライソで撮影された後期バルパライソ・シリーズの一部であり、その両方が見事に融合されている。この作品は、階段を降りるふたりの少女を描いており、彼女たちの繊細な体つきは、彼女たちを取り囲む堅固でモダニズム的な灰色のコンクリートと対照的である。これは、被写体についてであると同時に、彼女たちを見る状況についてでもある。そして彼女たちが私たちに背を向けているということは、私たちが何を見ているかということだけでなく、何を見ていないかということでもある。

Fidel Castro & Nikita Kruschew
Fidel Castro & Nikita Kruschew at the United Nations, New York, 1960

アンリ・カルティエ=ブレッソン財団のディレクターであり、2013年にアルル国際現代美術展で開催されたララインの回顧展のキュレーターでもあったアニエス・シレは「彼はとても独特で、とても情熱的です」「彼は目に見えないものに興味を持っています」と語っている。ララインは1970年代に職業として写真を撮るのをやめ、隠遁生活を始めた。1980年代に入ってもいくつかの作品を撮り続けたが、それらは主に自宅にある物を撮影したもので、友人に郵送していた。人道主義者であった彼が、自分が撮影していた過酷な世界に幻滅し、助ける力がないと感じるようになったため、引退したと言われている。

Orietta Escámez
Actress Orietta Escámez, Valparaiso, Chili, 1963

ボリビアの導師オスカル・イチャソに従い、彼は公的生活と職業生活から退き、チリの山村トゥラウエンに住み、さらに人里離れた自らが建設した隠れ家に住み、書道と瞑想を始めた。彼はまた、執筆活動を行い、チリの港町バルパライソの写真を含む個人的な写真を撮り続けた。彼は2012年2月7日、冠状動脈性心臓病のためオバジェで亡くなった。80歳だった。シレは「彼はキャリアを止めました。それは彼が期待していたような成果をもたらさなかったのです」と説明する。「あの子供たちを撮影したという事実は、捨てられた子供たちが常に存在するという事実を変えるものではないと感じました。写真は地球を救う助けにはなりません」だという。

dancer
Dancer, Valparaiso, Chili, 1963

シレは、ララインは晩年のほとんどの間、回顧展の構想さえも拒絶していたと付け加えた。回顧展は自らに課した隠遁生活から彼を引き離すことになるかもしれないからであり、彼のキャリアが華々しかったのには理由がある。彼は自分の直感だけに従う人間であり、従うことしかできなかったからだ。「彼はユニークでした」「彼は本当に自由な人間でした」と彼女は言う。セルヒオ・ララインの回顧展は、2013年7月1日から9月22日まで「アルル国際美術展2013」の一環として開催された。

Magnum Photos   Sergio Larraín (1931-2012) Chilean | Biography | Selected Artwork | Magnum Photos