2022年3月29日

ミンスク議定書Ⅱ合意を巡る魑魅魍魎

VIVA UKRAINE!
VIVA UKRAINE! Copyright ©2022 Marian Kamensky

某経済学者の「ウクライナの国際法違反行為」と題したブログエントリーを読んだ。ロシアが軍事行動に踏み切ったことは非難されねばならないとしながら、ロシアの主張を彷彿とさせる主張である。

2019年に大統領に就任したゼレンスキー氏は東部の紛争解決を公約に掲げた。東部問題を解決することはミンスク合意の履行と同義である。ゼレンスキー大統領がミンスク合意を誠実に履行していれば戦乱を招くことはなかった。ロシアが紛争の解決のために武力を行使したことは批難されねばならない。しかし、問題発生の根本原因にゼレンスキー大統領の行動があったことを見落とすことはできない。ウクライナ戦乱が勃発した直接の原因は、ウクライナのゼレンスキー大統領が2021年に入って「ミンスクⅡを履行しない」方針を明示したことにある。

2014年9月5日、ウクライナ、ロシア連邦、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国がミンスク議定書に調印した。ドンバス地域における戦の停止について合意した文書だが、休戦は失敗した。そして2015年2月11日、ベラルーシの首都ミンスクの独立宮殿で、ドイツとフランスの仲介により「ミンスク議定書Ⅱ」が調印された。ミンスクでの会談に列席した首脳たちは以下の通りである。

Minsk II
写真左から
  • ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領
  • ロシアのウラジミール・プーチン大統領
  • ドイツのアンジェラ・メルケル首相
  • フランスのフランソワ・オランド大統領
  • ウクライナペトロ・ポロシェンコ大統領

しかし2021年10月末のウクライナ軍のトルコ製攻撃ドローンによるドンバス地域への攻撃を端に、ロシア大統領府はプーチン大統領が2022年2月21日、ウクライナ東部ルガンスク、ドネツク両州の一部を実効支配する親露派武装集団が一方的に独立を宣言している二つの「人民共和国」を「独立国家」として承認する大統領令に署名したと発表した。そしてロシアと両地域との相互支援を確認する協定にも署名した。

Minsk_Protocol
ミンスク議定書の後に出た覚書によって設置された緩衝地帯

翌2月22日の会見で、ミンスク合意は長期間履行されず、もはや合意そのものが存在していない、として破棄された。クリミア併合で味をしめたプーチン大統領の脳裏には、ミンスク議定書Ⅱを破棄、軍事力でウクライナの首都キエフ(キーウ)を陥落させ、傀儡政権を樹立し「ロシア帝国」の地図拡大を目論んだと考えられる。それには二つの親ロシアの「独立国家」の集団的自衛権という名目を標榜する必要があったのだろう。かくしてロシアによるウクライナへの侵攻が始まったのである。ウクライナ側は、ドローン攻撃は親ロシア派地域からの砲撃への反撃だったと主張している。この点を否定した報道も見当たらない。ウクライナ戦乱が勃発した直接の原因が、ゼレンスキー大統領による「ミンスク議定書Ⅱ」を履行しない方針の明示だったという見解はやはり苦しい。いずれにしても、プーチン軍の民間人殺戮は狂気の沙汰で、許しがたい。

PDF  東野篤子「ミンスクⅡ合意をめぐるEUと加盟諸国の外交」日本国際問題研究所(PDF 364KB)

2022年3月24日

公民権運動の影響を記録したキュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼

East 100th Street
East 100th Street, New York, 1966
Bruce Davidson (b 1933)

ブルース・デヴッドソンは、1933年9月5日、イリノイ州シカゴ郊外のオークパークで、ポーランド系のユダヤ人の家庭に生まれた。10歳のとき、母親が自宅の地下室に暗室を作ってくれ、写真を撮ることに興味を持ち始めた。地元の写真家と連絡を取り合い、プリントや照明など写真の技術的なことを教わる。10代のころには、コダック・ナショナル・ハイスクールの写真コンテストで賞をもらったこともある。高校卒業後、ロチェスター工科大学を経て、エール大学へ進学。大学の卒業論文として、フットボール選手が試合をしていないときの心情を記録した写真エッセイを制作。この作品は1955年に『ライフ』誌に掲載された。アリゾナ州のフォート・フアチュカにあるアメリカ陸軍の信号部隊に勤務。そこで彼は写真撮影の仕事をすることになった。その優れた研究成果により、編集者からポスト新聞に常駐するよう要請される。

Selma March
Marcher with the word VOTE on his forehead, Selma, Alabama, 1965

そこで彼は、自分の技術と才能を磨く機会を与えられた。デヴッドソンはフランスでアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)に出会い、自分の作品集を見せてアドバイスを受ける。フランス滞在中に、パリの老女を題材にした写真作品 "Widow of Montmartre"(モンマルトルの未亡人)を制作した。彼の芸術的能力は、ブレッソンのほか、ユージン・スミス(1918–1978)ロバート・フランク(1924–2019)から大きな影響を受けている。1957年、兵役の後、フリーランスの写真家として活動し、マグナム・フォトに入会。その後『ドワーフ』『ブルックリン・ギャング』などの代表作を発表し、幅広く撮影を行うようになる。

The Dwarf with Cigarettes and Flowers
Dwarf with Cigarettes and Flowers, New Jersey, 1958

1961年から4年間、公民権運動の影響と出来事を記録した最も有名な作品を制作した。1962年、デヴッドソンはグッゲンハイム・フェローシップを授与され、プロジェクトが支援される。このプロジェクトは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で展示された。さらに "National Endowment for the Arts"(全米芸術基金)から写真に関する助成金を授与された。"East 100th"(東100番街)は悪名高い地区、東ハーレム(スパニッシュハーレム)のを題材にした、デヴッドソンのもう一つの人気プロジェクトだ。この作品もニューヨーク近代美術館で展示された。続いて "Subway"(地下鉄)と題した作品も制作される。

Martin Luther King, Jr.
Martin Luther King, Jr. at press conference, Birmingham, Alabama, 1962

これは1970年代に、ニューヨークの地下鉄のシステムを古典的に描いたものである。そして1990年代には、4年間にわたるセントラルパークの探検を終えた。1998年には、前回記録した時からの変化を記録するために東100番街の作業に戻った。この作品により、オープン・ソサエティ・インスティテュートの個人フェローシップ賞を受賞した。そして2008年には、マリリン・モンロー(1926–1962)キキ・スミス(1954-)アンディ・ウォーホル(1928–1987)ジョン・ケージ(1912–1992)ジャック・ケルアック(1922–1969)レナード・バーンスタイン(1918–1990)ファニー・ルー・ハマー(1917-1977)といった人々を撮影したポートレート写真集が出版された。

Wales
A Little Girl in Cemetery, Coal Mine, Wales, 1965

ブルース・デヴィッドソンは、2つの短編映画 "Living off the land"(大地に根ざした暮らし)"Isaac Singer's Nightmare and Mrs Pupko's Beard"(アイザック・シンガーの悪夢とププコ夫人の髭)の監督を務め受賞している。「ブルックリン・ギャング」シリーズの写真は、ボブ・ディランのアルバム『トゥゲザー・スルー・ライフ』(2009年)のジャケットに使用された。2011年にソニー・ワールド・フォトグラフィー・アワードで優秀写真貢献賞を受賞。その職業人生の中で、ドキュメンタリー写真家として尊敬される地位を獲得してきた。現在も出版物などで世界的に有名である。

magnum  Bruce Davidson (born 1933) | Profile, Selected Works and Most Recent | Magnum Photos

2022年3月23日

ウクライナの反体制詩人ヴァシル・ストウスの生涯

The poster of Ukrainian poet Vasyl Stus
The portrait of Vasyl Stus on the wall of the building, 2018. Kyiv, Ukraine. Photo © Yurii Zushchyk

ヴァシル・ストウス(1938-1985)は、ウクライナの詩人、翻訳家、文芸評論家、ジャーナリスト、そしてウクライナの反体制運動で活動した人物である。ハンガーストライキを宣言し、当時ソ連の政治犯強制労働収容所で死亡するまで13年間拘留された。2005年11月26日、ウクライナのヴィクトル・ユシチェンコ元大統領からウクライナの英雄という最高の称号を死後に授与された。

Vasyl Stus (1938-1985)
たくさんの言葉 それはまるで不自由な幽霊のようだ
遠くから 近くから 弾丸のように襲ってくる
しかし いつも私は人生の本質を見逃す
彼らは列をなしてやってくる
これらの欺瞞に満ちた言葉の中を 私は歩き 恥じる
戦いがある 私は戦場にいる
私の兵士は皆 私が振るまう言葉である
そして反逆は かき乱す記憶によって蒔かれる
善いものを信じているときに 騙されて終わらないように
そして 苦悩の泥沼に迷い込まないように
人は思い出せば思い出すほど 疲れてくる
疲れた日には 私は死に こうして
人知れず夜の色に隠れる
幸せも怒りも知らないところで
生きるのではなく 自らの死を噛みしめる場所
たくさんの言葉 それはまるで不自由な幽霊のようだ

これは彼が残した一篇の詩である。ヴァシル・ストウスは、1938年1月6日に、ウクライナのヴィーンヌィツャの農家に生まれた。翌年、彼の両親はスタリーノ(現在のドネツィク)に引っ越した。彼らの子供たちは1年後に彼らに加わった。中学校を卒業した後、ストウスはスタリーノの教育研究所(現在のドネツィク大学)の歴史文学科に入学する。1959年に研究所を卒業、キロヴォフラート州のタウジニア村で、ウクライナ語とウクライナ文学の高校教師として短期間働き、その後2年間ソビエト軍に徴兵された。

Ukrainian dissidents
Ukrainian dissidents calebrate Chrismas in Lviv before the 1922 arrests

大学で勉強している間、そしてウラル山脈での兵役中に、彼は詩を書き始め、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749–1832)とライナー・マリア・リルケ(1875–1926)による100以上の詩をウクライナ語に翻訳した。彼の翻訳の元のコピーは後にKGBによって没収されてしまう。兵役後、ストウスは1960年から1963年にかけて新聞 "Sotsialistychnyi Donbas"(社会主義ドンバス)の編集者として働いた。1963年に彼はキエフのウクライナ科学アカデミーのシェフチェンコ文学研究所で博士号(PhD)プログラムに参加、と同時に、彼は自選の詩集を出版した。1965年9月4日、キエフのウクライナ映画館でのセルゲイパラジャーノフの映画「火の馬」の初演中に、ストウスはウクライナの諜報機関の逮捕に対する抗議に参加した。その結果、彼は9月30日に研究所から追放され、後に州立歴史アーカイブでの職を失ってしまう。その後、彼は建築現場、消防士、そしてエンジニアとして働き、詩の集中的な仕事を続けた。1965年に作品を出版社に提出したが、ソビエトのイデオロギーと芸術スタイルとの矛盾のために却下されてしまう。詩人のイヴァン・ドラック(1936–2018)からの肯定的なレビューにもかかわらず、彼の次の詩の「冬の木の本」も拒否される。しかし1970年にこの本はベルギーで出版された。1972年1月12日、ストウスは「反ソビエトの扇動とプロパガンダ」の罪で逮捕された。1980年11月にソビエト連邦ペルミ地方クチノ村近くの、政治犯強制労働収容所ペルミ36(後に政治弾圧歴史博物館)に移送された。1985年9月4日にハンガーストライキを宣言し死亡、47歳だった。

Ukraine  Vasyl Stus | Biography by Danylo Husar Struk | Internet Encyclopedia of Ukraine

2022年3月18日

米国議会遠隔演説で真珠湾攻撃を例にして訴えたゼレンスキー大統領

Volodymyr Zelensky
Zelensky invokes Pearl Harbor as he pleads for more from Washington © 2022 J. Scott Applewhite

ウォール・ストリート・ジャーナル紙 3月16日付けデジタル版によると、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領が、キエフから米国議会へのオンライン演説で、9.11 と真珠湾攻撃を引き合いに出し米国議会にさらなる軍事支援と新たな制裁を迫った。議員やバイデン大統領に対して、武器の輸送を拡大・加速するよう個人的に訴えたのである。日本軍の真珠湾攻撃や、アメリカ人が空から狙われた2001年9月11日の同時多発テロを思い出すよう議会に求め、ロシアが侵攻して3週間、彼の国は毎日その恐怖を味わっていると述べた。彼はウクライナ上空の飛行禁止区域を要求したが、ウクライナ人が自衛できるように、予備としてジェット戦闘機や対空兵器を受け入れると述べた。この発言に対し日本の一部から反発の声が噴出したそうである。橋下徹は「ゼレンスキー大統領やアメリカ議会は、9.11 テロや今回のロシアの暴挙と同列に日本の真珠湾攻撃を並べている。日本の完全自衛戦争を主張している人たちはここで声を上げないと国内だけで勇ましいことを言っていることになる。今回のロシアを叩くことはかつての日本を叩くことと同視。黙っとくの?」とツイートしている。かつての日本も、今のロシアも当然ながら叩くべきである。高須克也は「ゼレンスキー大統領が嫌いになった。アメリカ人のウケ狙いで真珠湾攻撃を引き合いに出して日本国民に恥をかかせてる」とツイートしたそうだ。「いえいえセンセイはそのまま嫌いで結構、そのほうが大統領に迷惑をかけません」とリツイートしようかな。ゼレンスキー大統領は日本政府に対しても議会での演説の機会を求めているが、日本人からは「真珠湾攻撃と同時多発テロを並べた人物に国会で演説させるのか」と懐疑的な声も出始めているというから驚く。

Isoroku Yamamoto
Admiral Isoroku Yamamoto © 1941 Arthur Szyk

フランクリン・D・ルーズベルト大統領が後に「屈辱の日」と呼んだ1941年12月7日、連合艦隊司令長官の山本五十六が作戦を発案した真珠湾に対する航空攻撃による奇襲を行った。いわれのない攻撃を受けた米国は即座に日本に対し宣戦布告し、第二次世界大戦へと突入した。ヨーロッパ大陸で戦争が勃発したのを機に、日本はアジアの領土占領に乗り出したのだが、1941年の夏から秋にかけて、米国は日本の資産を凍結するとともに、日本への石油輸出を禁止した。米国の政策と経済制裁が挑戦的になるにつれ、日本の司令部は太平洋の米国拠点を攻撃する決定を下す。その対象はフィリピン諸島、グアム島、ウェーク島、そして真珠湾の太平洋艦隊だったのである。米国が攻撃の影響から立ち直り、再軍備する頃には日本が広大な防衛線を築き、米軍にも打破できない、あるいは打破するのを躊躇するだろうと目論んだのである。窮鼠猫を噛むとはこのことである。ナチスドイツのアドルフ・ヒトラーは攻撃を賞賛し、米国が宣戦布告したのは日本のみであるにもかかわらず、米国に対して宣戦布告をする。ヒトラーの宣戦布告は彼の最大の過ちであったと歴史家の多くが見ている。真珠湾攻撃までは、多くの米国人が孤立主義的な考え方をもち、ヨーロッパの戦争に関わることには消極的だったが、これによって戦線が全世界に拡大することになったのである。狂気のプーチン大統領から侵略を受けているウクライナの大統領が、真珠湾攻撃を引き合いにだしたことに違和感はない。下記リンク先の「日本はなぜ真珠湾を攻撃したのか?」の著者はサラ・プルイットで、アメリカ人の眼から見た真珠湾攻撃の論考である。

war Why Did Japan attack Pearl Harbor? by Sarah Pruitt | © 2020 Imperial War Museums

2022年3月17日

ニューヨーク近代美術館で写真展「人間家族」を企画したエドワード・スタイケン

The Pond--Moonlight
The Pond - Moonlight, Mamaroneck, New York, 1904
Edward Steichen

エドワード・スタイケンは、ジャン・ピエールとマリー・ケンプの息子として、1879年3月27日にルクセンブルクで生まれた。1889年、10歳になったとき、一家はウィスコンシン州ミルウォーキーに移り住んだ。1894年、スタイケンはミルウォーキーのアメリカン・ファイン・アート・カンパニーで4年間、リトグラフの見習いをすることになった。彼はスケッチやデッサンをし、独学で絵学んだ。仕事場へ向かう道にはカメラ店があり、彼はよくそこを訪れていた。1895年のある日、彼はついにコダックのボックスカメラを購入することを決意する。そして、同じく写真と絵に夢中になっていた仲間たちとお金を出し合って、ビルの一室を借り「ミルウォーキー美術学生連盟」というグループを結成する。講義の補助として、ロバート・シェイド(1861–1912)とリチャード・ロレンツ(1858- 915)に師事した。1900年、スタイケンはアメリカに帰化する。1903年、クララ・スミスと結婚、キャサリンとメアリーという2人の娘をもうけた。1923年、スミスと離婚した後、ダナ・デズボロ・グローバーと結婚。しかし彼女は1957年に白血病のため死去した。私生活が紆余曲折している間に、実は仕事も進んでいた。

Rodin - De Denker
Rodin - De Denker, 1902

1900年、エドワード・スタイケンは、ミルウォーキーからパリに向かう途中、ニューヨークで写真家で美術商のアルフレッド・スティグリッツ(1864–1946)に出くわした。スティーグリッツはすぐにスタイケンの作品を賞賛し、彼の写真プリントを3点購入した。1902年、スティーグリッツは、創刊予定の写真雑誌『カメラワーク』のロゴデザインをスタイケンに依頼した。その後、スタイケンはこの雑誌に頻繁に寄稿している。その2年後、スタイケンはカラー写真を導入し、その可能性を試した。フランスのリュミエール兄弟によって発明されたオートクロームのプロセスを、アメリカでは初めて使用した。その1年後、エドワード・スタイケンとアルフレッド・スティーグリッツは、フォト・セセッションを改称した「291画廊」を設立した。

Gloria Swanson
Gloria Swanson, 1924

この画廊はパブロ・ピカソ(1881–1973)ポール・セザンヌ(1839–1906)オーギュスト・ロダン(1840–1917)コンスタンティン・ブランクーシ(1876–1957)アンリ・マティス(1869–1954)など、ヨーロッパmの芸術家の展覧会を開催したアメリカ初の画廊であった。1911年、フランス語版『リヴォーグ』などを創刊したリュシアン・ヴォーゲル(1886-1954)は、スタイケンの写真を採用し、ファッション写真をファインアートとして支持するよう指示した。ポール・ポワレのガウンを撮影し雑誌 "Art Décoration"(芸術と装飾)に掲載された。第一次世界大戦後は、着実にファッション写真に移行していった。

n George Baher's yacht
On George Baher's yacht, 1928

第二次世界大戦中、海軍航空写真部隊でディレクターを務めた。1945年のアカデミー賞で『戦う女』が最優秀ドキュメンタリー賞に選出される。戦後も1962年までニューヨーク近代美術館(MoMA)の写真部門ディレクターを務めた。愛と死と生命をテーマにした68カ国500点の写真で構成された "The Family of Man"(人間家族)は、彼の代表作である。1955年1月24日から5月8日までニューヨーク近代美術館で展示され、その後8年間にわたり世界各地を巡回し、記録的な数の観客を動員した。タイトルは、カール・サンドバーグ(1878–1967)の詩の一節から取られたのだが、ルクセンブルクのクレルヴォーに永久保存された。1963年、当時のアメリカ大統領リンドン・ベインズ・ジョンソン(1908–1973)から大統領自由勲章が贈られた。

Marlene Dietrich
Marlene Dietrich, 1934

その10年後、亡くなるのだが、その3年前の1970年にマルタン・ボシェが「アルルの祭典」でスタイケンの写真を展示している。2006年、スタイケンが1904年に撮影した写真 "The Pond - Moonlight"(池と月光) のプリントが、当時のオークションで写真としては最高額の290万ドルで落札された。エドワード・スタイケンがニューヨークのママロネックで、友人宅の近くで撮影した写真である。池と森、そして木々の間から池を照らす月明かりが描かれている。そしてその1年後、ルクセンブルクのジャン大公近代美術館にスタイケンのカラー写真が飾られた。1960年、80歳になったスタイケンは27歳のジョアンナ・タウブ(1960-2010)と結婚し、94歳の誕生日を迎える2日前の1973年3月25日に他界するまで結婚生活を続けた。

The Family of Man Exhibition
The Family of Man Exhibition at Clervaux-Castle in Northern Luxembourg

ルクセンブルク北部のシャトー・クレルヴォーに常設されている "The Family of Man"(人間家族)は、オリジナルの鑑賞体験を再現するために、ニューヨーク近代美術館での初回展のレイアウトに準じているが、必然的に、復元された城の2フロアという独特の空間に適合するようになっている。2013年の修復後は、図書館が組み込まれて、歴史的な資料と解説によって「人間家族」の文脈を表現している。

MoMA  Edward Steichen (1879–1973) Works, Exhibitions, Publications and Wikipedia entry

2022年3月16日

子どもを連れて避難するウクライナの母親たち

UkrainianRefugee
Ukrainian refugee family at Záhony station in Hungary © 2022 Vincenzo Tessarin

国連の国際移住機関(IOM)のウェブサイトによると、300万人以上がウクライナから避難、その半数近くが未成年者で、毎秒子ども1人が難民になっている計算になるという。写真はウクライナを逃れ、ハンガリー東部のザホニー駅に到着した母親と息子たちである。18歳から60歳までの男性は出国が禁止されているので、父親の姿はない。イタリアの写真家ヴィンチェンツォ・テッサリン氏がソーシャルメディア Facebook にポストした写真で、次のようなテキストが添付されている。以下に拙訳と共に転載した。

Mother and sons. Siamo rientrati in Italia, domenica prossima partiamo per l'Argentina, per un viaggio programmato da tempo, ma nei pensieri continuano ad insinuarsi i ricordi di quei giorni trascorsi ai confini tra Ungheria e Ucraina. Soprattutto lo sguardo perso di questa madre seduta con i figli su una carrozza del treno in arrivo dall'Ucraina alla stazione di Záhony, in attesa delle procedure che permetterà loro di scendere dal treno. In salvo dalla guerra, ma quale destino riserva loro la vita, quali altri drammi dovranno affrontare?Un destino comune ad ogni profugo che fugge da un conflitto del quale non ha responsabilità, che non ha scelto, del quale è solo vittima. Il destino di ogni essere umano che fugge dalla guerra e lascia ogni cosa che gli appartiene, una casa, un lavoro, una vita di relazioni ed affetti che è stata stravolta in pochi momenti.Il destino comune di ogni persona che fugge da bombardamenti e spari, che sia in Ucraina o in Afganistan, Palestina o Siria, Yemen o Iraq.Un triste destino comune che non fa distinzione, le conseguenze sono le stesse, la fuga verso un paese che sperano più sicuro, soprattutto per bambini che forse nemmeno si rendono completamente conto di quello che sta accadendo loro. © Vincenzo Tessarin 2022
Heart of Ukraine
母と息子たち。イタリアに戻り、次の日曜日にはアルゼンチンに出発する。ずっと前に計画した旅行だが、ハンガリーとウクライナの国境で過ごしたあの日々の記憶が、私の思考に忍び込んでくるのだ。特に、ウクライナからザホニー駅に到着した列車の車内で、子供と一緒に座り、列車から降りるための手続きを待っている母親の迷子のような表情が印象的だった。戦火を逃れて無事だった彼らには、どんな運命が待ち受けているのか、どんなドラマが待っているのか...。自分には責任のない、自分が選んだわけでもない、ただの被害者である紛争から逃れてきた難民に共通する宿命。戦争から逃れ、自分のもの、家、仕事、人間関係や愛情に満ちた生活など、すべてを捨ててきたすべての人間の運命が、ほんの一瞬でひっくり返ったのである。ウクライナでもアフガニスタンでも、パレスチナでもシリアでも、イエメンでもイラクでも、爆撃や銃撃から逃れるすべての人に共通する宿命だ。特に、自分に何が起こっているのかさえよく分かっていないかもしれない子どもたちにとっては、より安全だと期待する国へ逃げるという、何の区別もない悲しい共通の運命なのです。© Vincenzo Tessarin 2022

いたたまれない気持ちになっているのだろう、ロシアのウクライナ軍事侵攻に抗議するための反戦デモが世界に広がっている。日本でも各地で抗議運動が行われているが、そうした市民の活動に水を差すような投稿がネットを徘徊している。例えば橋下徹某。一時的にロシアに譲歩してでも市民の犠牲を最小限にすべきだ、という考え方を示した。要するに降伏せよという素人論議である。もしウクライナがプーチンの言う通り「非武装化」で丸腰になったら、ロシアが何をしてきても抵抗できないし、悲惨な状況が増幅されるだろう。男たちは、国境まで妻と子供を送り、涙の別れをしたあと、戦うためにウクライナ国内に引き返している。「命の方が大事なのだから、国のために戦う必要はない」「ロシア軍に勝てるわけがない。無駄な犠牲を払うより、さっさと無条件降伏したほうがいい」という一部の日本人の意見は、ウクライナ人の激しい反発を招いている。

United Nations International Organization for Migration | IOM, United Nation Migration

2022年3月14日

ウクライナ難民の少女が手にしていた絵本

Ukrainian refugee girl
Ukrainian refugee girl with a children's book Copyright © 2022 David Turnley

ネットを徘徊していたら、ご覧のようなモノクロ写真が目に止まった。撮影者による次のようなテキストが添付されていたので、拙訳と共に引用したい。

Guess How Much I Love You!
I made these photographs at the Lviv Train Station, one of the central hubs for trains that have moved up to 2 million refugees from this tragic war from towns across the Ukraine, to unknown lives and destinations all over Europe! As this train came in from Odessa, I saw this young girl looking at me through the window and as the train stopped to collect more refugees, I climbed onto her wagon, where I then met Masha, in a sleeping compartment with her mother and a younger sibling. As I introduced myself as David, Masha proudly grabbed her book to show me. And I write this I am overcome with emotion by Marsha’s spirit! And the title of this book is exactly what I want to say to Masha and her family, and all Ukrainians during this unbelievably tragic war! Photographs by David Turnley. Lviv, Ukraine. March 12, 2022

どんなにきみがすきだかあててごらん!
この写真は、ウクライナ全土の町から、この悲惨な戦争からの200万人もの難民を、ヨーロッパ中の未知の生活や目的地へと移動させた列車の中心的な拠点の一つであるリヴィウ駅で撮影したものです。オデッサから列車が入ってきたとき、窓越しにこの少女が私を見ていました。列車がさらに難民を集めるために停車したので、私は彼女のコンパートメント席に乗り込み、そこで、母親と弟妹と一緒に寝泊まりしているマーシャに会いました。私がダヴィッドと名乗ると、マーシャは誇らしげに自分の本を手に取って見せてくれた。そして、マーシャの魂に感動して、これを書いている。そしてこの本のタイトルは、まさに私がマーシャとその家族、そしてこの信じられないほど悲惨な戦争中のすべてのウクライナ人に言いたいことなのです。写真 David Turnley ウクライナのリヴィウ(2022年3月12日)

写真は明らかに職業写真家の手になるものと想像された。調べてみたところ、デヴィッド・ターンリー氏は1955年生まれのフォトジャーナリストである。現在活躍する最高のドキュメンタリー写真家の一人とみなされている。ピューリッツァー賞、世界報道写真賞2回、ロバート・キャパ賞(勇気賞)を受賞し、世界75カ国で人間像を撮影している。1980年から1998年までデトロイト・フリー・プレスのスタッフフォトグラファーとして活躍。1985年から1987年まで南アフリカに駐在し、アパルトヘイト支配下の同国を記録した。マンデラ一家とは30年来の親しい友人であり、この30年間、ネルソン・マンデラと南アフリカの闘争を撮影してきた。1987年から1997年までパリに滞在し、ペルシャ湾戦争、東欧の革命、中国の学生の反乱、ソビエト連邦の崩壊などの出来事を取材した。それゆえにロシアのウクライナ侵略は無視できないに違いない。

どんなにきみがすきだかあててごらん!

ところで写真の少女が手にしている絵本 "Guess How Much I Love You!" は英語版だが、サム・マクブラットニィ (著) アニタ・ジェラーム (イラスト)のイギリスの児童書である。1994年にイギリスのウォーカーブックス社から、1995年には同社の子会社であるキャンドルウィック出版社から発売された。世界中で4300万部以上売れ、57ヶ国語で出版されたという。邦題は「どんなにきみがすきだかあててごらん!」である。二匹のウサギの物語。原作では二匹のウサギが親子であることは明言されていないが、テレビアニメシリーズでは明言されているという。子ウサギ「私があなたをどれだけ愛していると思う?」という質問をし、その答えとしてふたりがどれだけ愛しているかを数値化するために、どんどん大きな物差しを使っていく、というのがこの本の流れだそうである。身内に幼児がいないので、図書館で借りて読んでみようかな。

Amazon  どんなにきみがすきだかあててごらん (児童図書館・絵本の部屋) 大型本 – 評論社(1995/10/1)

2022年3月12日

続)ロシアのウクライナ侵略風刺画集

Mom, I want to live
Mom, I want to live! ©Andryi Petrenko
Meddling with Ukraine
Meddling with Ukraine ©Emanuele Del Rosso
The Path of Peace
The Path of Peace ©Javad Takjoo
Russian shadow over Ukraine
Russian shadow over Ukraine ©Enrico Bertuccioli
Kremlin zombies
Kremlin zombies ©Oleksiy Kustovsky

2月27日に当ブログにポストた同名エントリーの続編です。2月4日、ロシアは陸海空からウクライナ侵攻を一斉に開始した。大義名分なき戦争をウラジーミル・プーチン大統領は仕掛けたのだが、ウクライナの多くの一般住民の犠牲者を出している。またロシア軍は2月24日に北部のチェルノブイリ原発を制圧。今月4日には欧州最大級のザポロジエ原発を攻撃し占拠した。そしてさらに「第3の標的」とされる南ウクライナ原発に向けて進軍中だという。港湾都市マリウポリの小児病院が空爆するなど「プーチン軍」の狂気の沙汰が続いている。テレビのニュース番組を見るたびに自分も何かできないかという焦燥感に襲われるが、義援金を振り込むくらいしか思いつかない。いたたまれない気持ちを押さえ、せめてという願いを込め、アムステルダムに本拠を置く、世界の政治風刺戯画のプラットフォーム Cartoon Movement に寄せられた作品の中から、新たに5点を抜粋して転載した。トップの作品「ママ、ぼくは生きたい!」の作者アンドリー・ペトレンコ氏と、最下段の作品「クレムリンのゾンビ」の作者オレクシー・クストフスキー氏は、いずれもウクライナの風刺画家である。

cartoon movement  A global platform for editorial cartoons and comics journalism | Cartoon Movement

2022年3月9日

男性ヌードや花を白黒で撮影した異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌

Patti Smith
Patti Smith by Robert Mapplethorpe 1976
Robert Mapplethorpe

ロバート・メイプルソープは1946年11月4日、ニューヨーク州クイーンズのフローラルパークで生まれた。男性ヌードや花をモノクロで撮影した大きなスケールの写真で知られている。男性に関する彼の作品にはホモエロティシズムのエッセンスが含まれており、このような芸術作品への公的助成金をめぐって論争を引き起こした。この2つのテーマは、彼自身が同性愛者であったことから、彼にとっては身近なものであった。メイプルソープの最初の写真は、ポラロイドカメラで撮影したものだった。1970年代には中判のハッセルブラッドを手に入れ、社交界、作曲家、芸術家などの知人や友人を撮影した。1980年代には、女性や男性のヌード、セレブリティやアーティストのフォーマルなポートレート、花の写真に力を入れるようになる。ニューヨークのマンハッタン、ボンドストリート24番地にスタジオを開設。このスタジオは、親友で美術キュレーター、蒐集家のサム・ワグスタッフ(1921–1987)が50万ドルを提供し、23丁目に居住と撮影のためのロフトを購入、暗室を設置した。メイプルソープは主にスタジオで制作を行った。

Ken Moody and Robert Sherman
Ken Moody and Robert Sherman 1984

そしてピーター・ガブリエル(1950-)パティ・スミス(1946-)ジョーン・アマトレーディング(1950-)デボラ・ハリー(1945-)ルイーズ・ブルジョワ(1911–2010)リチャード・ギア(1949-)アンディ・ウォーホル(1928–1987)といった著名人を撮影した。花の中では、カラ、ユリ、ランの写真をよく撮った。他の作品には、BDSMの行為、古典的なヌード、ホモエロティックなものが含まれている。彼のエロティックで露骨なポートフォリオは、1990年代、全米芸術基金が資金援助した巡回展 "The Perfect Moment" に組み込まれ、全米の注目を集めた。宗教団体や保守派は、彼の公開展示に反対し、声を大にして反対を表明し、彼の写真に猥褻という名のレッテルを貼ったのである。例えば勃起したペニスが写ったヌード作品を残しているが、一般には公表が憚れるかもしれない。しかし人間生活の多様性は否定できないし、同性愛者ゆえの表現の拡大だったのだろうと解釈したい。かくしてロバート・メイプルソープは、一躍有名になったのである。

Lisa Lyon
Lisa Lyon 1982

黒人男性を撮影したヌード写真には、搾取的であるという批判がある。1998年には写真集が押収され、セントラル・イングランド大学が関与したことで、別の論争が巻き起こった。ある大学生がメイプルソープに関する課題を書いていて、文章の参考にするため、彼の画像を挿絵として加えたいと考えたからだった。しかし彼女が論文を製本するために店に持って行ったところ、店主が写真の異常性をウエスト・ミッドランド警察に訴えた。警察は本を破棄しなければ深刻な事態になると大学に通告した。だが上院はピーター・ナイト副学長を支持し、警察の行為は学問の自由を侵害するものであるとの見解を示したのである。結局、大学側には何のアクションもなく、この問題は幕を閉じた。ゲイの作家ポール・ルセルは1992年、メイプルソープに小説 "Boys to Life" を献呈している。また、パティ・スミスも1996年に "The Coral Sea" という本をこの写真家に捧げている。

Calla Lily
Calla Lily 1986

その3年後、アリーナ・エディションズは、メイプルソープのセックス写真を集めた単行本 "Pictures" を出版した。この本は、2000年に南オーストラリア州の刑事によって、猥褻で下品なものが含まれているという理由で押収された。2006年にはアンディ・ウォーホルを撮影したプリントがオークションに出品され、約64万3千米ドルで落札され、メイプルソープ作品の史上最高額で落札された写真となった。2007年にメイプルソープのポラロイド写真1,500枚のうち183枚を集めた写真集 "Mapplethorpe: Polaroids" がPrestel社から出版された。パティ・スミスはロバート・メイプルソープの長年のルームメイトであり、しばしば写真の被写体になっていた。スミスは2010年に出版した回顧録 "Just Kids" の中で、二人の関係について触れている。1989年3月9日、HIV/AIDS の合併症によりボストンの病院で42歳の若さで死去した。遺体は荼毘に付され、遺灰はニューヨークのセント・ジョンズ墓地にある母親の墓所に埋葬され、墓碑に「マクシー」と刻まれた。

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2022年3月7日

ウクライナの民俗芸術家マリア・プリマチェンコ作品集

Nuclear War Be Curse
May That Nuclear War Be Cursed! (1978)
A Dove Has Spread
A Dove Has Spread Her Wings and Asks for Peace (1982)
Ukrainian Bull
Ukrainian Bull, Three Years Old, Went Walking Through the Woods (1983)
A Coward Went A-Hunting (1983)
Ivan Gave the Landlord a Ride
Ivan Gave the Landlord a Ride in his Gig and Fell Inside (1983)
Our Army
Our Army, Our Protectors (1978)
Maria Primachenko

マリア・プリマチェンコ(1908-1997)は、ウクライナの田園生活を描いた、素朴派の民俗芸術家の代表格として知られている。マリアは農家の女性だった。チェルノブイリから30キロしか離れていない、人口は2010年時点で224人のキエフ州イバンキフ郡ボロトニャ村に生まれ、生涯を過ごした。幼少期にポリオを患い、その痛みは彼女の人生に影響を与えた。親戚の報告によると、マリアは自然やすべての生き物を慈しみ、思慮深く思いやりのある人間に成長したという。彼女は晩年に自身の初めての芸術体験に対して次のように話している。「幼い頃、ガチョウの群れの世話をしていたことがある。ガチョウたちと野生の花が点在する野原を横切り、川のほとりの砂浜に行くと、私は砂の上に棒で現実と空想の花を描き始めていた」。その後、自宅の壁を天然顔料で塗りはじめ、それ以来、絵を描くことをやめたことはなかったという。グアッシュと水彩で描かれた彼女の作品は、小さな花瓶に挿された左右対称の赤いポピーや、双頭の蛇を生やした牛のような幻想的な動物が描かれていて、鮮やかで想像力に富んでいる。1937年のパリ万国博覧会で金賞を受賞し、パブロ・ピカソ(1881-1973)は彼女を "芸術的奇跡 "と呼んだという。2022年2月27日、彼女の作品約25点が収められていた、キエフの北西にあるイヴァンキフ歴史地方史博物館が、ロシアの攻撃により破壊されてしまった。しかしウクライナ研究所によると、地元住民が燃え盛る博物館から作品を回収することができ、完全に失われる前に回収することができたという。文化への攻撃ともとらえられる事態を受け、ウクライナのオレクサンドル・トカチェンコ文化・情報政策大臣は2月28日、自身の Twitter を通してロシアをユネスコ加盟国から除外するよう要請。またロシアで今夏開催予定となっている第45回世界遺産委員会については、開催国の変更も要請している。

Ukraine  Maria Primachenko (1908-1997)| Biography | 119 Artworks - Painting | Wikiart