2021年7月29日

閲覧者が 5,000 人に達した Facebook ページ

American Riits Music

ソーシャルメディア Facebook で私が管理しているページ「アメリカンルーツ音楽」の閲覧者が5,000人を超えた。なぜ日本人がアメリカ音楽のページを、と不思議に思う人が多いかもしれない。同サイトには外国人が作っている日本の浮世絵やヲタク文化のページもあるし、そういう意味では別に不思議ではないと思っている。ページを「いいね!」した人の性別と年齢の集計データを見てみよう。ユーザーのプロフィールに記載されている情報に基づいて集計された推定値でである。男女とも65歳以上の高齢者が一番多い。ソーシャルメディアは若者というイメージなので意外だ。利用者が Facebook プロフィールに入力した年齢や性別などのさまざまな要素に基づいて集計されたものだそうである。

利用者

管理人が日本人と知った人から「日本語で」というメッセージが届いたこともあるが、外国人のほうが多いので、と返信した。国別閲覧者数のベストテンは次の通りである。( ) 内は人数。

  1. アメリカ (3,337)
  2. 日本 (274)
  3. イギリス (236)
  4. カナダ (120)
  5. オーストラリア (93)
  6. フランス (77)
  7. イタリア (73)
  8. ドイツ (47)
  9. ブラジル (47)
  10. スウェーデン (44)

アメリカからのアクセスが圧倒的に多いが、イギリス、カナダ、オーストラリアの英語圏、そして英語を解する人が多いヨーロッパからと続くのがお分かりいただけると思う。日本が2番目だが、これは私の Facebook フレンドが含まれているからだと思う。閲覧者が1万を超えるページがざらにあるので、5,000人は威張れる数字とは言い難い。しかし現在の Facebook フレンドは1,295人だし、特異なテーマなのでそれなりのファンを得たと言えるかもれない。これまで1,000人単位でマイルストーンと表現してきた。次のマイルストーンは6,000人、日本流にいえば六里塚だが、さて、いつになることやら。

American Roots Music  Visit my American Roots Music page on social media Facebook

2021年7月27日

フォークミュージック225曲を無償ダウンロードする

The Library of Congress - LBC1

1976年から1978年にかけて米国議会図書館がリリースした15枚のLPレコード "Folk Music in America" 全225曲を英国のウェブサイト urban75 のブログから無償ダウンロードした。全米芸術基金の助成を受け、米国議会図書館アメリカン・フォークライフ・センターの1890年から1976年までの期間の音楽を収録している。この魅力的なセレクションには、米国先住民の歌や楽器演奏、ブルース、ジャズ、カントリーミュージック、そして世界各地からの移民が米国に持ち込んだ伝承歌謡などが含まれている。このコレクションは全曲を梱包した 1.1GB の ZIP ファイル "Folk Music in America, complete download" をオンライン入手、あるいはLPレコード1枚ごとに小分けした、以下の ZIP ファイルをダウンロードすることができる。

  1. Religious Music – Congregational and Ceremonial
  2. Songs of Love, Courtship, and Marriage
  3. Dance Music – Breakdowns and Waltzes
  4. Dance Music – Reels, Polkas, Etc.
  5. Dance Music – Ragtime, Jazz, Etc.
  6. Songs of Migration and Immigration
  7. Songs of Complaint and Protest
  8. Songs of Labor and Livelihood
  9. Songs of Death and Tragedy
  10. Songs of War and History
  11. Songs of Humor and Hilarity
  12. Songs of Local History and Events
  13. Songs of Childhood
  14. Solo and Display Music
  15. Religious Music – Solo and Performance

このコレクションは米国議会図書館のアメリカン・フォークライフ・センターにアーカイブされているが、無償配布はしていない。CD-R 購入あるいは有償ダウンロードのみとなっている。

LOC  Folk Recordings Selected from the Archive of Folk Culture | The Library of Congress

2021年7月25日

異才の写真家ダイアン・アーバス

Central Park 1962
Child with Toy Hand Grenade in Central Park ©1962 Diane Arbus

ダイアン・アーバス(1923-1971)は、20世紀を代表する写真家のひとりであり、その誠実な撮影スタイルは、多くの現代の写真家やアーティストの作品に道を開いた影響力のある人物だった。独特のアプローチは、直接的なポートレートと、奇妙なものの中に馴染みのあるものを見つけ、普通のものの中に非凡なものを発見する能力に特徴付けられる。アーバスは、ストリッパー、カーニバルパフォーマー、ヌーディスト、ドワーフ、子ども、母親、カップル、高齢者、中産階級の家族など「すべての人を撮影する」ことに没頭した。撮影されたポートレートは、大胆で率直なものだが、アーバスが被写体との間に築いた信頼関係が反映されており、イメージを支える複雑で協力的な関係を生み出している。1923年にニューヨークで生まれたアーバスは、1940年代から夫のアラン・アーバス(1918–2013)と共同で『グラマー』や『ヴォーグ』『セブンティーン』などのファッション誌で仕事をしていた。1962年、二眼レフカメラのマミヤC33あるいはローライフレックスを使い始め、独特の正面からの四角いフォーマットのポートレートを開発した。フレームの中央に被写体を配置することが多く、被写体との間に相互作用や共同作業の感覚を強めたのである。

During a class at the Rhode Island School of Design ©1970 Stephen A. Frank
©1967 Photo by Dan Budnik

彼女が個人的な関心事に本格的に取り組み始めたのは1950年代に入ってからだった。オーストリア出身の写真家リゼット・モデル(1901–1983)に師事し、この経験が彼女の作品を大きく変えた。 広く知られた作品に『おもちゃの手榴弾を持つ子ども』(1962年)がある。子どもの名はコリン。短パンにサスペンダーといういかにもドイツ的な服装で、嬉々としてポーズをとっている。メトロポリタン美術館はこの日に撮影されたコンタクトシート所有しているが、陽気で堂々とした彼が写っているという。では、なぜアーバスは、口元を引き締めて不機嫌な顔をし、片手で爪を立て、もう片方の手で手榴弾を握っているショットを選んだのか。彼はスポーツをしているのではないか、あるいは、突然の恐怖に襲われた怪獣映画の俳優のように、誰かの真似をしているのではないか。要するに、アーバスは、気分に合わせて証拠を操作し、楽しみから恐怖を作り出した罪を犯しているのかもしれない。1960年代、アーバスはジョン・サイモン・グッゲンハイムフェローシップを2度受賞し「アメリカの儀礼、マナー、習慣」の研究などのプロジェクトを進めることができた。1967年には、ニューヨーク近代美術館で開催された画期的な展覧会「ニュー・ドキュメンツ」の焦点となった3人の写真家のひとりに選ばれている。た。1971年7月26日、心のバランスを崩し、ニューヨークの自宅アパートのバスタブで自ら両手首を切って自殺した。アーバスが亡くなった1971年の翌年には、アメリカ人写真家として初めて、世界最大かつ最も権威のある現代美術の祭典であるヴェネチア・ビエンナーレに作品が選ばれ「アメリカ館の圧倒的なセンセーション」「極めてパワフルで非常に奇妙なもの」と評された。

magazine In the Picture: A new biography of Diane Arbus by Anthony Lane | The NEW YORKER

2021年7月24日

ファンタジーと現実をつないだ写真家アタ・カンドー

Hungarian refugees 1956
オーストリア国境のハンガリー難民(1956年)

アタ・カンドー(1913–2017)にとって、人生と仕事は常に密接に結びついており、その生活は決して楽なものではなかった。ブダペストのボートニク学校で画家としての訓練を受け、そこで最初の夫であるギュラ・カンドー(1908-1968)と出会う。しかしカメラを手に入れてからは、写真に専念するようになった。彼女は最初から愛する人たちのポートレートを撮ることに長けていた。19歳で急逝した妹のイカを撮影したポートレートは、彼女の初期の作品であり、最も大切にしているもののひとつである。1940年代半ば、カンドーは夫と3人の子どもと一緒にハンガリーを脱出し、パリで暮らし始めた。最初は幼い双子を置いていかなければならず、一家が再会したのは数ヵ月後のことだった。この経験は、1956年のハンガリー動乱を描いたシリーズや、南米のインディアン・コミュニティを描いたシリーズなど、彼女が後に頻繁に選んだ「子供を持つ若い母親」という題材に影響を与えているのかもしれない。1947年、夫は単身ハンガリーに帰国した。以来、彼女は3人の子供と暮らすようになった。生活のために、彼女は新しく設立された写真エージェンシーの暗室技術者として働いていた。1950年、彼女はマグナム・フォトで暗室技術者として働くようになった。

Madeleine en Thomas 1955
マドレーヌとトーマス『森の中の夢』シリーズより(1955年)

1950年、彼女は当時25歳だったエド・ヴァン・デル・エルスケン(1925–1990)と知り合った。4年後、ふたりはアムステルダムに移ったが、結婚生活は終焉した。カンドーはすぐにアムステルダムの写真界の一員となり、自分と同じように写真家として成功したエヴァ・ベスニョー(1910–2003)などと仲良くなった。

アタ・カンドー(1953年)エルスケン撮影

60年代に入ると、カンドーは写真教育に積極的に取り組むようになったようだ。また、ブラジルのアマゾンを2度訪れ、南アメリカのインディアンの文化を守ることに尽力する。1979年から1999年までは世界各地で生活していたが、写真家としての評価を受けたのはオランダに戻ってからである。カンドーは、常に自分の直感に従って写真を撮っていた。そのことは、彼女の代表的な写真シリーズである『森の夢』や『カリプソとナウシカ』を見れば一目瞭然だ。これらのシリーズでは、50年代後半にヒッチハイクでヨーロッパの特別な場所に行き、子どもたちが登場している。自然の美しさをとらえるカンドーの才能は、驚くほど魅力的な写真を生み出した。この2つのプロジェクトは本として出版された。1956年のハンガリー動乱の際には、難民のポートレートのような深刻なテーマにした。ちょうど10年前に同じような状況に置かれていたこともあり、彼らに共感したのである写真家ヴィオレット・コーネリアス(1919–1998)とともにハンガリーを訪れ、子どもたちのために、美しいデザインの写真集が出来上がった。103歳という長寿を全うしたカンドーは、オランダのベルゲンにあったケアハウスを終の棲家にしていた。若い世代の写真家たちが頻繁に彼女を訪ねてカメラに収めている。クース・ブローケル(1962-)がそのひとりで、人生と仕事が感情的かつ本能的に絡み合った女性写真家にインスパイアされたようだ。

museum アタ・カンドーの写真作品 | オランダ北ホラント州アムステルダム市立美術館 | 1978年

2021年7月21日

五輪強行開催という狂気の沙汰が始まる

281_Anti nuke

いつの間にか「中止」の文字がかき消され、東京オリンピックが強行開催という狂気の沙汰が始まるが、覆面風刺画アーティスト 281_Anti 氏のこのイラストがすべてを物語っている。大会前に最初に金メダルを獲得したのは、国際オリンピック委員会 (IOC) のトーマス・バッハ会長である。銀メダルは菅義偉首相、銅メダルは小池百合子東京都知事だ。6位までの入賞者を加えるなら、橋本聖子組織委員会会長、丸川珠代五輪担当相、森喜朗組織委員会前会長だろう。ひとり増やして福島原発は「アンダーコントロール」と招致演説した安倍晋三前首相を加えていいかもしれない。とにかく東京に非常事態宣言が出ようが出まいが、強行ということになった。そして大会が終了すれば「コロナに打ち勝った」というレガシーが残ると大会関係者は考えているようだ。その根底には「始まればどうせ国民はオリンピックに夢中になる」という読みが潜在しているようだ。マスメディアによる世論調査では、常に過半数が開催反対という数字が出ていたし、新型コロナウィルスの感染拡大で中止になるだろうと私は思っていた。半ば「禍い転じてコロナ頼み」という甘い観測だった。早い段階から強固な反対運動組織が組まれ、展開しなかったことが悔やまれる。反オリンピック運動の敗北は、結果的に選手村クラスターの導火線になることを肝に銘じておくべきだろう。鬱陶しい夏を迎えてしまった。

2021年7月20日

瞬時に削除された深瀬昌久の家族写真

深瀬昌久『家族』
深瀬昌久『家族』アイピーシー刊(1991年3月)より

ソーシャルメディア Facebook にときどき写真の名作を紹介している。これは深瀬昌久(1934~2012)のシリーズ『家族』の一枚だが、投稿した瞬間に画面から消えてしまった。どうやら「機械判定」らしかったのだが、後から「規約違反」というメッセージが届いた。コミュニティ既定の一部を引用してみよう。

抗議の表現、意識喚起、教育や医学的な理由など、さまざまな理由でヌード表現が必要となる場合があります。このような意図が明確である場合は、ヌードコンテンツの投稿が認められています。例えば、女性の乳首を含む胸の画像は禁止されていますが、抗議活動、授乳の様子、乳房切除手術後の医用写真などの画像は規制の対象にはなりません。 出産時や出産直後、または医療関連の状況下で性器や肛門が写っている写真には、見た人が不快に感じるおそれがあるとわかる警告ラベルが表示されます。また、ヌードの人物を描いた絵画や彫刻などの芸術作品の写真の投稿も認めています。

ずいぶん矛盾に満ちた規定だが、どうやら女性の乳首は「猥褻」という判断らしい。異議申し立てをしようと思ったがやめた。Facebook 相手の芸術論議は不毛に陥るだろうし、利用規約に従わなければ、退会してくださいと言われかねないからだ。

Family: Fukase Masahisa (2019)

ところで深瀬昌久の『家族』は実にユニークで、しかも素晴らしい。彼は1934年、祖父が北海道美深町に創設した深瀬写真館の長男として生まれた。しかし写真館は弟の了暉が3代目を引き継いだ。1971年8月、深瀬は妻の洋子を伴って故郷を訪れた。大所帯に成長した一家と再会した深瀬は、彼らを写真館の写場に集めて家族の記念写真を撮影することにした。腰巻きひとつを身につけた半裸姿の妻を家族の中に投入するという特異な写真だった。この形式はその後、妻だけでなく様々な女性モデル達を迎え入れては撮影が継続されたのである。撮影は5年にわたって続けられた後に中断されたが、1985年に深瀬の父・助造の年老いた姿がきっかけとなって再び開始された。その2年後に迎えた父の葬儀の日にも撮影され、1989年に深瀬写真館が廃業を迎えた日、すなわち家族四散を迎えた日を最後に完結した。当初こそ伝統的な家族写真のパロディとして軽快に撮影が開始された本作は20年近く月日をかけて撮影されることによって、結果的には一家の栄枯盛衰を残酷なほど克明に記録するものに仕上がった。2019年9月には深瀬が生前に手がけた最後の1冊である写真集『家族』(アイピーシー1991年3月)がイギリスの出版社「MACK」より新装版として刊行された。

2021年7月14日

オハイオ州南西部工業地帯の音楽遺産

Smithsonian Folkways Recordings - SFW 40238
Smithsonian Folkways Recordings - SFW 40238

これは今年の1月25日にリリースされたアルバムで、久しぶりに購入したブルーグラス音楽である。ブルーグラス音楽はアパラチアに入植した移民たちが培った伝承音楽に黒人音楽が融合してできた、いわば土と草の香りがする音楽である。従って「オハイオ州南西部の音楽遺産」というタイトルを不思議に思う人がいるかもしれない。20世紀に入り、経済的な機会を求めてアパラチア地方から何十万人もの人々がオハイオ州南西部に移住してきた。その中には数え切れないほどのミュージシャンがいた。そして彼らの音楽をも抱えてやってきたのである。1947年から1989年にかけて、彼らはシンシナティ、デイトン、ハミルトン、ミドルタウン、スプリングフィールドなどの工業地帯を中心に、ブルーグラスという音楽ジャンルを繁栄させ、国際的に有名な「ブルーグラス音楽の都を」作り上げたのだった。ブルーグラスとカントリーミュージックの歴史の中で重要な瞬間を探ったのがこのアルバムで、愛すべきパフォーマーでありラジオパーソナリティであるジョー・マリンズのプロデュースのもと、ダン・ティミンスキー、ロンダ・ヴィンセント、ボビー・オズボーン、そしてマリンズ自身を含むブルーグラスの名手たちが、何十年にもわたってオハイオ州に響き渡ってきた曲に挑戦している。

University of Illinois Press (January 25, 2021)

ブルーグラス音楽界の大御所たちが、工場や倉庫での陽気あるいは孤独な生活に敬意を表し、この地域の豊かな文化とたくましい人々を映し出している。曲目の構成と編集が渋く、超おススメのアルバムである。特筆すべきは同名の書籍がイリノイ大学出版局から同時発売されたことである。フレッド・バーテンシュタインとカーティス・W・エリソンは、オハイオ州南西部のブルーグラス・ミュージシャン、ラジオ放送局、レコーディングスタジオ、レコードレーベル、演奏会場、さらには宗教活動、地域開発、公教育への音楽の貢献について、目撃者の証言と詳細な分析をまとめている。ブルーグラスシーンの発展に伴い、オハイオ南西部の特徴的なサウンドは新たなファンを獲得し、ルーツミュージックを演奏し、制作し、愛し続ける世界中の人々に影響を与えた。この本は、ブルーグラス音楽の温床とそれを作った人々の刺激的なストーリーを共有している。なおアルバムの曲目とパーソネルについては、下記リンク先の拙ブログをご覧ください。

Folkways  Industrial Strength Bluegrass: Southwestern Ohio's Musical Legacy | American Roots Music

2021年7月13日

通販サイト Amazon のアカウント復活の厄介

Kinndle APP
電子書籍リーダー Kindle アプリのアイコン

通販サイト Amazon のアカウントを凍結していた。要するに Amazon に頼らない生活を目指したためで、それなりに達成した。しかし最近アカウントを復活した。というのは電子書籍を読めないことの不便を感じたからだ。紙の書籍の感触は好きだが、ものによっては文字が小さく、老眼鏡をかけてても読みづらいことがある。その点、電子書籍はフォントの大きさを変えられるのが良い。ところが新書版とほぼ同じ大きさの7インチのタブレットの調子が悪いこを思い出した。Google Play ストアからアプリをダウンロードしたり、インストールしたりできないのである。対処法をいろいろ試したが、駄目だったので、最後の手段として初期化、すなわち工場出荷状態に戻してみたら、すんなり蘇っってくれた。Amazon のアカウントの再取得はデスクトップパソコンで行った。方法はメールアドレスとパスワードだけだが、ちょっと躓いてしまった。過去に Amazon で使用したメールアドレスは使えないのである。仕方なく普段は使っていないメールアドレスを登録した。次にセキュリティ対策として2段階認証システムの設定をする。2段階認証を鉄壁にするには「認証システム」を導入せよとあったが Google のアプリであることに気付くまで時間がかかってしまった。

画像認証システムのダイアログボックス

やはり「Google 認証システム」と表記すべきだと思うが、他社のアプリであることを明記したくなかったのだろうか。Amazon と Google はかつて不仲だったのでその名残じゃないかと勘ぐってしまう。それはともかく Google Play ストアから目的の Kindle 電子書籍リーダをタブレットにダウンロードしてインストールした。イザというわけでアプリを起動したら、画像認証を求められた。画像認証とは英数文字列の画像を提示し、それが何と書いてあるか入力するシステムである。ところが何度やっても認証に失敗した。問題解決のためブラウザを替えてみたが失敗。ネット検索するとこの事例は山ほど見つかるが、根本的な解決策が見つからない。ところが数日後に試したらなんとログインできたではないか。どうして認証できたか分からなのが不思議だが、結局何回も試すしかないのだろうか。いずれにせよ紆余曲折を経て、タブレットで電子書籍が読めるようになったのでホッとしている。ときどき Amazon を騙ったフィッシング詐欺メールが届く。ログイン認証や自動連携に関してハードルを高くしているのは仕方ない、というか安心できる措置である。

kindle  アンドロイド版 Kindle 電子書籍リーダのダウンロードとインストール | Google Play ストア

2021年7月11日

エドワード・ウェストン初期作品の魅力

Flora Chandler Weston, The Lane Collection, Photograph © Museum of Fine Arts, Boston
Edward Weston (1886–1958)

アメリカの偉大なる写真家のひとりであり、写真界の真のオリジナルであるエドワード・ウェストン(1886-1958)は、その作品が広く世界に知られている写真家である。彼の最も有名な作品は、黒い背景に白い貝殻、マッシュルーム、キャベツの葉、歪んだパプリカなどの静物画である。またヌード作品でも高い評価を得ている。痩せていてしなやかな女性、剃り残しのある脚などが撮影されている。1800年代後半から2000年代にかけて活躍したウェストンは、アメリカの初期写真に革命をもたらした。しかしウェストンが最初の20年間に撮影した初期の作品は、ほとんど破壊されてしまっている。ウェストンはオリジナルの写真に満足できず、プリントの大半をネガもろとも焼却してしまった。これは彼が後になって深く後悔した過ちであった。しかしボストン美術館の協力により、失われた日記帳から画像が復元され、ウェストンの貴重な写真が公開されたのである。16歳になったウェストンは、父親から初めてのカメラをプレゼントされた。それは、当時11ドルに過ぎなかったコダックのブルズアイNo.2というシンプルなものだった。父の助言のもと、ウェストンが最初に撮影したのは風景だった。野原や砂漠、湖などのシンプルな風景を撮っていた。そして、写真が上達するにつれ、人間を撮るようになっていった。ウェストンの最初のミューズは、若き日の妻フローラ・チャンドラーだったようだ。

Margrethe Mather (1886–1952) © Museum of Fine Arts, Boston

The Early Years (2018/6/19)
しかし後年、彼の写真の相談相手であり、真の芸術的ミューズとなったマーグレーテ・マザー(1886–1952)との関係が始まる。彼女は、彼が「私の人生で最初の最も重要な人物」と呼んだように重要な人物だった。 彼の初期の作品の多くは、スタジオで隠されて撮影されたメイザーのポートレートである。この頃の彼の撮影スタイルは絵画的で、アルフォンス・ミュシャが描いたアール・ヌーヴォーの女性の裸体やしなやかさを彷彿とさせるものだった。柔らかく、かすんでいて、不定形である。ウェストンはその後、さらに別の愛人兼モデル、イタリアの女優ティナ・モドッティ(1896–1942)を得た。彼女の写真はメイザーの写真に取って代わり、彼女自身も有名な写真家となる。他の多くの写真集とは異なり『エドワード・ウェストン:初期の時代』は、ウェストンの初期の写真が彼自身の破壊を免れなかったために、写真家の人生についての素晴らしい記述になっている。この本は単なる写真エッセイではなく、歴史的な記述となっている。エドワード・ウェストンが現在のエドワード・ウェストンになる前の姿を、写真と言葉の両方で理解することができるのである。この本は、故人となった写真家の美しい思い出であり、後に有名になる前の彼の初期の考えやスタイルを垣間見ることができる。彼の写真は実にクラシカルで、若い頃から写真の美しさとそれを捉える方法を見事に理解してた。彼は柔らかな光と影、そして女性の体の優美さを表現していた。彼女たちは、彼の初期の人生の美しいタイムラインを作成している。

museum  Karen E. Haas with Margaret Wessling "Edward Weston: The Early Years" MFA, Boston

2021年7月8日

スティーグリッツのモデルになった画家レベッカ・ソールスベリー

Rebecca Salsbury
Alfred Stieglitz "Rebecca Salsbury Strand" Lake George, New York, 1922
Alfred Stieglitz (1864–1946)

近代アメリカを代表する画家ジョージア・オキーフ(1887-1986)と、欧州の写真芸術をアメリカに導入した、写真史に欠かすことができないフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)が紆余曲折の上、結婚したことは余りにも有名である。ところがアルフレッドの弟子ポール・ストランド(1890–1976)と三角関係だったことが、べニール・アイスラー著『オキーフ/スティーグリッツ(愛をめぐる闘争と和解)』(朝日新聞社1994年)に詳しいが、この件は余り知られていないかもしれない。そのポールは1922年に画家のレベッカ・ソールスベリー(1891–1968)と結婚する。レベッカは夫がメリーランド州で仕事をしている間、1922年の夏のほとんどをスティーグリッツが住むニューヨーク州北部のジョージ湖で過ごしていた。スティーグリッツはレベッカをモデルに実験的なヌード写真を撮影した。その作品は写真家とモデルの双方が感じている自由さが際立っている。長い年月をかけて撮影されたスティーグリッツのオキーフのポートレートと比べると、レベッカが水に入ったり出たりしている写真は、自然で軽やかな雰囲気を醸し出している。当時のスティーグリッツは「実験的なポートレート」と呼んでいた、これらの作品の出来栄えに疑問を抱いていたが、プリントを始めてみて初めて、これらの作品が「非凡なもの」であることを知り「目を見開かせるもの」と表現している。ではレベッカはどんな女性だったのだろうか。両親がバッファロー・ビル・ワイルド・ウェスト・ショーでロンドンを旅行していた間の1891年に生まれた。

Winter in Taos
Rebecca Salsbury James "Winter in Taos" 1948

父の死後、1902年に母と共にニューヨークに定住する。ポール・ストランドと知り合ったのは1919年ごろだったと思われる。ポールとジョージアを引き合わせたのは他ならぬアルフレッドで1917年だった。ポールとジョージアは肉体関係を持つのだが、その錯綜した人間関係に俗な好奇心を抱いてしまうのは私だけだろうか。レベッカは独学で絵画を学んだが、明らかにジョージアの影響を受けている。1930年にポールと離婚し、頻繁に訪問していたニューメキシコ州タオスに移る。1937年にはビル·ジェームズと結婚し、1968年に亡くなるまでタオスに住んだのである。上掲の絵は彼女が1948年に制作した『タオスの冬』である。一方、ポールはアメリカ合衆国で起きたマッカーシズムに追われ、1949年にフランスに移住する。27年間に渡る亡命生活を支えたのは、三人目の妻で写真家のヘイゼル・キングスベリー(1907–1982)だった。なお下記リンク先の PDF ファイルは、アルフレッド・スティーグリッツが1922年にレベッカ・ソールスベリーを撮影した写真を所蔵している、ワシントン DC のナショナル・ギャラリーの作品解説ファイルである。

PDF  Alfred Stieglitz: Rebecca Salsbury Strand ©National Gallery of Art, Washington (PDF 879KB)

2021年7月7日

新しい Windows 11 がやって来る

刷新されるインターフェース

マイクロソフトの特設サイト 「Windows 11 登場」によると、新しい Windows 11 が2021年後半にリリースされるという。気になるのは Windows 11の提供開始で、Windows 10のサポートはどうなるのだろうか。また、同時に発表されたWindows 10 から Windows 11 への無償アップグレードの条件は、どんなPCでもクリアできるものなのだろうかという点である。Windows 10 がリリースされたのは6年前の7月末だったが、年2回提供される機能更新アップデートによって、機能を更新追加することで「Windows の最後のバージョンになる」とされていた。しかし Windows は生き長らえることになり、Windows 10 のサポート終了日が2025年10月14日に確定したという。Windows 11 への無償アップグレードは2022年前半から順次可能になるそうだが、Windows 10 PCが対象ではなく「ハードウェア仕様の最小要件」を満たす必要がある。要件がクリアできているかどうかは「Windows 11 登場」ページの「PC正常性チェック」ツールで確認できるというが、今のところツールはダウンロードできない。取りあえず最新情報を入手するためニュースレターの購読を申し込んでおいた。意外と敷居は高そうで、今使ってるマシンが使えない可能性もある。

Microsoft  Windows 11 のデバイス仕様の要件、バージョン、対応言語の確認方法について | マイクロソフト

2021年7月6日

中山ラビさんのジャケット写真撮影の思い出

中山ラビ1977年
中山ラビさん(新宿区高田馬場)1977年

シンガーソングライター中山ラビさんの訃報を知ったのは5日早朝、シバこと三橋乙揶君の Facebook の書き込みだった。友人からのメールで思いもよらぬラビさんの訃報を知ったという。続けて古川豪君から「昨日連絡しようと思ったですが、遅くなってしまいました。ラビさんが昨日4日夕刻亡くなりました。食道がんが肺に転移して5月頃から入院していたのですが」というメッセージが届いた。京都のライブハウス「拾得」の恒例『七夕コンサート』に今年は出ないと聞いていたので、体調不良と想像していたのだが、まさかの訃報である。ラビはユダヤ教における宗教指導者兼学者に由来するという。古川豪君のファーストアルバム『フルッチンの唄』を自主制作したのが1971年だから、その年だったと記憶している。京都市の北、北山杉で知られる周山街道をさかのぼると京北町がある。常照皇寺の九重桜と言えば分かる人が多いかもしれない。その京北町に「山国青年の家」というのがあり、フォークキャンプがあった。そこで出会ったのがラビさんだった。

Kitty Records – MKF 1012
キティレコード『なかのあなた 』(1977年8月)

彼女は詩人の中山容さんが訳詞したボブ・ディランの曲を歌って知られるようになったが、豊田勇造君らとの九州ツアーにお二人と同行したことが記憶に残っている。私は1972年に東京に転居したが、その5年後、彼女と再会した。LPアルバムのカバー写真を撮って欲しいとのことだった。それまでのアルバムはイラストだったが、初めてポートレート写真を使うという。撮影予算ゼロだったので、友人の写真家、中村弘太郎君のスタジオをタダで借りて撮影した。カメラは二眼レフのローライフレックスで黒白フィルムを使用したが、ディレクターからクレームがついた。「暗い」というのである。私自身は彼女の生い立ちが持つ「翳り」を表現したつもりだったが、商業レコードの世界では駄目らしい。そこでカラーで撮り直したのが『なかのあなた 』のレコードジャケットだった。文字が入る余地がありませんね、というデザイナーの言葉が耳に残っている。

2021年7月4日

エドワード・ホッパーにインスパイアされた写真家たち

Cape Cod Morning
Edward Hopper "Cape Cod Morning" ©1950

影響力というのは不思議なものだ。何かオリジナルな創作をしたと思ったら、ありえないほど似ていて、しかもそれが何十年も前のものだったりする。アメリカの画家エドワード・ホッパー(1882–1967)に影響を受けているといっても、必ずしも彼を真似ているわけではない。ホッパーは孤独や寂しさを描いた画家として知られている。他のアーティストが抽象的なスプラッターや色のブロックを描いていた頃、ホッパーはまだ風景やポートレートを描いていた。しかし不気味な光の使い方によって、彼の作品には不吉な予感が漂っていました。それは、先人の絵画とは異なる、皮肉なタイプのノワールだった。田舎の廃墟や都会の孤独を描いたホッパーは、空虚で孤独で広大なアメリカ精神のゴシックな側面を表現したのである。変化する西部の風景に焦点を当てた写真家ロバート・アダムズ(1937年生まれ)は子供の頃に初めてホッパーの絵を見た時のことを「写真は慰めになったが、もちろん永久に私を家に帰すことはできなかった」「しかし、その後の数ヶ月の間に、写真はは私に永続的な何かを与え始めた。光があれば、どんな場所も面白くなる」と書いている。以下の作品は Facebook のグループ "Inspired by Edward Hopper" に最近寄せられた写真である。

Gothenburg, Sweden ©Rolf Söderberg

Venice, Italy ©Giuseppe

London, England ©Niall McDiarmid

Venice, Italy ©Ilenia Martin

London, England ©Julia Fullerton-Batten
aperture Edward Hopper's Paintings Recreated As Photographs | DailyArt Magazine

2021年7月2日

新型コロナウィルス予防ワクチン接種狂騒曲

予防接種済証
新型コロナウィルスワクチン予防接種済証

ファイザー社の新型コロナウィルス感染症 COVID-19 予防ワクチンの2回目の接種を昨日終えた。夜中に接種部位が痛み出し、目が醒めたが、次第に落ち着いてきた。どうやら副反応の心配はなさそうだ。予防ワクチン接種は当初。近所のクリニックに予約したが、ワクチンをが届くのが遅れるようだったので、集団接種に切り替えた。私は2005年に心筋梗塞を患い、以降三カ月ごとに総合病院の循環器内科で外来診察、血をサラサラにする薬などを処方してもらっている。気になったのはワクチン接種の際の服用薬による副反応である。電話で問い合わせたところ、医師とは話せず、看護師によると「接種はご自分で判断してください」というつれない返事だった。病院側としては、副反応に関する明確なデータがないので、接種するなとは言えないし、接種しても大丈夫とは断言できないということだろう。医学的知識がないのに自己判断は無理、自分なりに調べてみた。厚生労働省の「ファイザー社の新型コロナワクチンについて」というフライヤーをネットで入手、血をサラサラにする薬は「抗凝固薬」と「抗血小板薬など」の2種類に分類されるという。処方箋を改めて見ると、私が服用しているの「タケルダ配合薬:アスピリン・ランソプラゾール」で、これは抗凝固薬ではなく、抗血小板薬である。これなら副反応ゼロとは断言できないものの、通常通り接種を受けることにしたのだった。

画像をクリックすると拡大表示します(出典:厚生労働省)

ところで日本経済新聞の「チャートで見る日本の接種状況」によると7月1日現在、国内の累計接種回数は累計接種回数4491万572回。6月30日現在の接種した人の割合は1億2712万人のうち、少なくとも1回接種は61.9%だが、2回接種は28.2%にとどまっており。菅内閣は東京オリンピックを強行したいがため​新型コロナウイルス感染症ワクチン接種担当内閣府特命担当に河野太郎大臣を任命。さらに東京、大阪で自衛隊による大規模集団接種を始めたが、若干スピードが加速されたものの、欧米先進国から大きな後れをとっている。オリンピックといえば大会組織委員会はボランティア7万人分のワクチンが確保できたと発表した。新たに追加されたのは、モデルナ製。1回目の接種は、30日から来月3日まで。その後、1カ月の間を空けて、2回目の接種は、来月31日から予定されている。これでは、来月23日に始まる大会期間にかぶっていて、ボランティア活動が始まるタイミングには、間に合わない。これじゃ全世代にワクチンが届くのはいつになるか不透明だ。ワクチンに限らず、菅政権のコロナ対策は後手、後手続きでお粗末過ぎる。オリンピック強行で大掛かりな集団感染が起きる可能性は否定できない。東京の医療崩壊が心配である。

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