カーター・ファミリー(左から)メイベル、A. P. そしてサラ・カーター(1927年)
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Ralph Peer (1892–1960) |
1927年7月、テネシー州サリバン郡ブリストルのニュース・ブルティン紙に「ビクターは月曜日から10日間、ブリストルに録音機を置いてレコーディングします、当店にお問い合わせください」という小さな囲み広告が掲載された。その7月25日月曜日、同紙の記者のひとりが、辣腕ディレクターのラルフ・ピア(1892–1960)によるレコーディングセッションを取材した。アーネスト・ストーンマンがセッションの進行を担当したが、彼のグループはすでにビクターで成功を収めていた。記者は「昨年、彼はビクターから 3,600ドルをレコードの収益の分け前として受け取った」と書いた。これはつまり、当時の米国一般市民の平均年収の約3.5倍にあたる金額だった。セッションは7月25日の朝9時に開始した。北はヴァ―ジニア州から南のテネシー州まで、大勢のミュージシャンがチャンスを逃すまいと、ステート通りの帽子会社「テイラー・クリスチャン・ハット・カンパニー」の3階に現れた。アーネスト・ストーンマンやアンクル・エック・ダンフォードなどのあとにマイクの前に立ったのは、フィドル奏者ブラインド・アルフレッド・リードで "The Wreck of the Virginian" を録音した。彼は1929年に "How Can a Poor Man Stand Such Times and Live" という名曲を残すことになる。
ストーンマン・ファミリー(ヴァージニア州ゲイラクス)1928年
地方の市場が白人のゴスペルを求めていると考えたのだろう、たくさん録音された。ラルフ・ピアのお気に入りだったアルフレッド・G・カーネスは、自分の伴奏のためにギブソンのハープギターを375ドルで購入したばかりだった。8月1日のセッションは、ネスターとエドモンズの2人によって12時30分からスタートしたが、その5時間後に2人の女性とひとりの男が部屋に入ってきた。そしてすべてが変わったのである。A. P. カーター、その妻のサラ、サラの妹でまだ十代だったメイベルは、ヴァージニア州スコット郡のメイフェス・スプリングスからやってきた。"Bury Me Under The Weeping" など4曲をテイクした。メイベルとサラが翌朝戻ってきて "Single Girl, Married Girla" など2曲のデュエットを披露したたとき、ピアは「これはいける、金になる」と欣喜雀躍したようだ。8月4日、再び稲妻が走った。テネバ・ランブラーズは、ノースカロライナ州のアッシュビルで活動していた4人の若者で、ピアは彼らにオーディションを受けるように勧めた。
テネシー州ブリストルは「カントリー音楽発祥の地」の壁画
何が起こったのかは定かではないがレコーディングが行われる頃には、彼らのリードボーカルが抜け "Sleep Baby Sleep" を含む2曲をひとりでレコーディングした。結核で5年後にジミー・ロジャースが亡くなってしまったが、エルビス・プレスリー以前のアーティストの中では、ビクターで最も多くのレコードを売っていたのではないだろうか。ピアは、録音した多くのキーパーをプレスするため、機材をまとめ、マスター盤を持ってニュージャージー州のカムデンに向かった。そして翌年の1928年10月27日から11月4日にかけて、ブリストルに戻ってきた。この時の唯一の大物は、スタンプス・カルテットで "Come to the Savior" が13,792枚と、ブリストルの録音の中では最も多く売れたのである。スタンプスは、1980年まで活動を続け、エルヴィス・プレスリーを大ファンとして数えていた。1928年のセッションで、ショートバックル・ロアーク・アンド・ファミリーは、ラルフ・ピアの壮大な発見行為を "I Truly Understand That You Love Another Man"という名曲を残した。こののレコーディングセッションにより、ブリストルは「カントリー音楽発祥の地」と呼ばれるようになった。おやおや、またしても写真少年ならぬ「音楽少年漂流記」になってしまったようだ。
Victor Talking Machine Company sessions in Bristol 1927 | Library of Congress (PDF 101KB)