2012年7月10日

疾風70年代の音楽交遊が走馬灯のようにぐるぐる回り出だした

七夕コンサート  (写真左から)豊田勇造・中山ラビ・古川豪・私・三浦久(後ろ)ひがしのひとし  撮影:佐々木米市

古川豪「フルッチンのうた」
一昨日の7月8日、京都市上京区のライブハウス「拾得」へ出かけた。今月初めに当ブログで紹介した「七夕コンサート」を聴きにゆくためだった。今年で40回、同じメンバーによるコンサートとしては日本最長寿だそうである。もう何年もライブハウスとはご無沙汰だったが、ビールを注いだコップ片手に客席に坐していると、疾風の70年代が蘇り、走馬灯のようにぐるぐる回り出した。フィナーレではステージに引っ張りだされ、恥ずかしながら音痴なフィドルを弾いてしまった。いずれのメンバーも70年代初頭に知りあっている。前回紹介したアルバム「フルッチンのうた」の原盤制作は1971年に遡るが、これをきっかけに、それこそ芋づる式に多くのミュージシャンと知り合いになったことが思い出される。翌1972年、仕事の都合で神戸から東京に転居したが、その付き合いは続き、岡林信康や高田渡、友部正人、田中研二、林亭(佐久間順平・大江田信)、武蔵野タンポポ団などの知己を得た。たまたま私がヴァイオリンの弾き語りで唖蝉坊の演歌を歌う縁で、高田渡のコンサートにゲスト出演したこともある。ちょっと路線が違うが、荒井由美(ユーミン)と知り合い、自宅を訪ねたこともあった。70年代後半には、東京・晴海で開催された「ローリング・ココナッツ・レビュー・コンサート」をきっかけに。YMO結成前の細野晴臣と、そして横尾忠則と一緒にインド旅行、アルバム「コチンの月」制作の手伝いをしたことが懐かしい。とここまで書き流したが、どうも筆、いやキーボードが進まないので交遊メモにとどめておこう。70年代関西フォークの話は、やはりもう少し気合いが入ったときに書くことにしよう。

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