ヨハネス・フェルメール「デルフトの眺望」(1661年)ウリッツハイス美術館蔵
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携帯カメラオブスクラ(1790年ごろ) |
京都市美術館で今日6月25日から「フェルメールからのラブレター」始まった。日本では最も人気がある画家のひとりだけに、週末はおろか平日でも当分混雑しそうだ。今回は修復後初めてアムステルダム国立美術館を出る「手紙を読む青衣の女」の展示が目玉のようだ。ヨハネス・フェルメール(1632-1675)と言えば「真珠の耳飾の少女」を連想する人が多いに違いない。もうひとつ有名なのは「デルフトの眺望」である。この絵はカメラオブスクラを使って描かれたと信じている人が多いようだ。小さな孔が像を結ぶというカメラオブスクラ現象は紀元前から知られていたが、その原理を応用した光学機器が生まれたのは13世紀になってからだった。ラテン語で「暗い部屋」を意味するが、この名称自体についてはドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に負っている。それまではコンクラーベ・オブスクルム(暗い部屋)とか、クビクルム・テネブルコスム(黒い玉座)、カメラ・クラウサ(閉じた部屋)といった名称を使っていた。ピンホールないしレンズを付け、外の景色や人物を映し出す暗箱のことである。この暗箱は天体や自然観察、絵を描く補助道具として使われた。
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艀の船腹の白い点々(クリックで拡大) |
さて風景画「デルフトの眺望」であるが、二階の高さに視点が置かれ、部屋型のカメラオブスクラを使用した可能性を示すとされる作品である。英国の写真家ジョン・H・ハモンドは著書
「カメラオブスクラ年代記」[*]で次のような考察をしている。パノラマ式に展開する風景画で、その筆の使い方が、単レンズが作り出す円形の歪みと似ているという指摘がある。画面右端の艀の船腹に見られる白い点々(左図拡大画像)を、光の当たり具合とするもの、点描であるとするもの、円形の歪みとするものなど、美術史家の間でも意見が分かれる。単式顕微鏡を作製したことで知られる、毛織物商アントン・ファン・レーウェンフークはデルフト市からフェルメール遺産相続執行人に指名された。彼がフェルメールにカメラオブスクラを贈呈した可能性がある。しかしフェルメールの遺産目録にはカメラオブスクラは見当たらない。フェルメールがカメラオブスクラを使用した可能性があるものの、それを示す決定的な文献史料は存在しないというわけである。結論としてフェルメールがカメラオブスクラを使ったとは断言するのは、新たな証拠が出て来ない限り間違いである。書かれた証拠を必要とする歴史観は、ともすると歴史にロマンを感じてる人にとって、いささか興醒めかもしれない。しかしこのような冷徹な視点が現代の文献歴史学なのである。
[*] John H. Hammond
The Camera Obscura: A Chronicle Bristol: Adam Hilger 1981
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