2021年3月26日

オリンピック松明リレーはヒトラーのベルリン大会で始まった

Olympic fire in Lustgarten
ベルリンで行われたオリンピック松明の点火式(1936年8月1日)

新型コロナウィルス感染者数の増加が見え始めたにも関わらず、政府は緊急事態宣言を解除した。25日からの松明リレーに無理やり合わせた狂気である。JOC(日本オリンピック委員会)はじめ、大会関係者は松明リレーを必須イベントと考えているようだ。近代オリンピック第1回大会は、1896年にギリシャのアテネで開催されたが、いわゆる「聖火台」はなかった。

河出文庫(2020年)

1928年、アムステルダムオリンピック開催にあたって、スタジアムの設計に松明塔を取り入れ「聖火」が燃え続けるというアイディアを盛り込んだ。そして1936年のナチス政権下のベルリンオリンピックで、ジョセフ・ゲッベルス(1897–1945)の指導のもと、組織委員会の責任者であったカール・ディーム(1882–1962)の発案で松明リレーが始まった。ギリシャで採火した炎をベルリンまで運ぶという発想はゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者である、というアドルフ・ヒトラー(1889–1945)の思想に適った物でもあった。2004年のアテネオリンピックに合わせて出版された作家トニー・ペロテット(1961-)の著書『古代オリンピック全裸の祭典』は、ナチス政権が松明リレーを利用したというパラドックスを捉えている。曰く「皮肉なことに、その忌まわしい起源を考慮すると、松明リレーは今日、国際的な兄弟愛の象徴となり、華やかなオリンピック開会式の目玉となっている」云々。ペロテットによるとオリンピックの炎がギリシャからドイツまで12日間かけて運ばれ、最後にベルリンのスタジアムで巨大な松明に点火されたと紹介している。松明には、ドイツの兵器メーカーであるクルップ社のロゴが入っていたという。夏季オリンピックの炎は常にギリシャの古代オリンピアで点火されてきたが、冬季オリンピックは違う。1952年と1960年の冬季オリンピックでは、ノルウェーのモルゲダルで点火された。1956年の冬季オリンピックでは、ローマで点火されたのである。いささかちぐはぐな「伝統」ではある。

Torch relay ©2020 Jeff Koterba Omaha / World-Heral

1984年のロスアンゼルス大会では米国最大手の電話会社 AT&T が松明を持って走れる「キロレッグ」を販売し商業化、1992年のバルセロナ大会では、コカ・コーラ社がスポンサーになった。最終的には手を引いたが、これを快く思わなかったのがギリシャで「ロサンゼルスにオリンピアの火を灯させない」と抗議した。慌てたファン・アントニオ・サマランチ(1920–2010)IOC(国際オリンピック委員会)会長が緊急対策を考えたほどの騒ぎだったようだ。2008年の北京大会でもトラブルが発生した。リレーの半分の地点で反中派とチベット派の抗議活動の対象となったし、中国が台湾を国内ルートに入れようとしたときに台湾にボイコットされた。IOC のジャック・ロゲ(1942-)会長が「オリンピックとリレーは危機に瀕している」と発言したほどの混乱ぶりだった。北京オリンピックの終了後、IOC はリレーの国際部門を廃止したのである。米 NBC 放送電子版が元プロサッカー選手でパシフィック大教授ジュールズ・ボイコフ(1970-)の「新型コロナウイルスのパンデミックのまっただ中で始まった聖火リレーは、ずばりナチスによって始められた五輪の伝統儀式だ。今回も公衆衛生を犠牲にするリスクを冒している。特にナチスの宣伝活動に由来するような伝統のいくつかは廃止されるべきだ」という記事を掲載した。巨額な放映料を IOC に支払い、多大な影響力を持つ放送局だけに興味深い。ヒトラーのナチスに利用されたという負のレガシー、しかも新型コロナウィルス感染症が拡散するというリスクが予想される松明リレーは廃止すべきだという、極めて常識的で真っ当な主張である。

OlympicWhy are we still using a Nazi progapanda stunt to open the Olympic Gamaes? | NBC News

2021年3月22日

スペイン内戦を記録した写真家アントニ・カンパーニャ

Guerra Civil española
バクーニン兵舎の民兵(1936年8月)
岩波文庫(2019年8月)

スペイン内戦の写真というとロバート・キャパ(1913–1954)と共同撮影者で恋人だったゲルダ・タロー(1910–1937)を思い浮かべる人が多いと思われる。キャパの『崩れ落ちる兵士』は出世作である。ゲルダはスペイン内戦従軍中に戦車に轢かれて死亡した。この悲劇がふたりをいっそう有名にしたのだが、約5,000枚の内戦の写真を残したスペインのアントニ・カンパーニャ(1906-1989)は、日本ではほとんど知られていないようだ。またスペイン内戦をテーマにした文学作品といえば、アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)の小説『誰がために鐘は鳴る』やジョージ・オーウェル(1903–1950)のルポルタージュ『カタロニア讃歌』がよく知られている。しかしバルセロナ生まれの小説家、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の作品『ダイヤモンド広場』は世界で39以上の言語に翻訳されているにも関わらず、カタルーニャ語から直接訳が出版されたのは2019年8月だった。民兵になった夫キメットが戦死、再婚するひとりの女性の愛のゆくえを描いているが、オーウェルのような戦場の記述はない。スペイン内戦前から戦後のバルセロナが舞台だが、ノーベル賞作家のガブリエル・ガルシア=マルケス(1927–2014)が「私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」と絶賛したカタルーニャ文学の至宝とも言える傑作である。

Antoni Campañá (1906-1989)

写真家アントニ・カンパーニャに戻そう。1906年3月15日にカタルーニャ州ジローナ県のアルブシャスで生まれたが、幼少期は家族の常設住宅があったバルセロナのサリア地区で過ごした。父と祖父が建築業者で、仕事を手伝ったこともあった。初めて写真を撮ったのはオソナの地域だった。バルセロナの学校を退学して写真店で働き始め、撮影した写真を売るようになった。1933年に結婚すると、新婚旅行でミュンヘンに行き、ドイツ人写真家のヴィリー・ツィールケ(1902-1989)の手ほどき受けて技術を磨いた。ホセ・オルティス=エチャギュエ(1886-1980)、クラウディ・カルボネル(1891-1970)など、ピクトリアリズムを擁護した世代の写真家のひとりだった。最も貴重な写真は1923年に撮影された「血の牽引」と題された作品で、2頭立て農耕機をローアングルで撮影したブロムオイル印画である。内戦時代に、約5,000枚の戦争写真を撮影したが、ふたつの赤い箱に入れてガレージの奥に隠してしまう。彼の死後30年経って家屋を売却する際に家族がこの「宝庫」を発見した。箱の中には保存状態の良い5,000コマ以上のネガと、約700枚のプリントが入っていたのである。

Tracción de sangre
「血の牽引」(ブロムオイル)1923年

バルセロナでライカの公式代理店に務めていた彼は、スナップショットのほとんどをこの伝説的なドイツ製カメラで撮影していた。数々の国際的な賞を受賞したが、1934年に雑誌「アメリカンフォトグラフィー」 の表紙を飾り、戦時中の彼のスナップ写真がいくつか掲載されていた。バルセロナの新聞「ラ・ヴァングアルディア」と関係のあった彼は、戦前、戦中、戦後を通じて写真を投稿、1961年には同紙が発行した最初のカラー写真は彼のものだった。しかし戦争写真は亡くなった1989年になっても知らぜらる存在だったのである。なぜ隠したのか? 息子のアントニによれば「戦争の写真を撮っていたことを知られたくなかった」からだという。「カンパーニャは苦味と悲しみをもって戦争を撮影したが、この同じ気持ちが彼のイメージを広めることを妨げ、ほとんどが彼のアーカイブの中で未発表のままとなっている」と1989年に美術評論家のマルタ・ギリ(1957-)が書いている。戦争写真を誰にも見せたくなかった。しかしそれができるからといって、写真を破棄することもなかった。悲しみや苦しさが込められているだけに、その写真を破棄すことは、自分たちの視線を破棄してしまうことになる。それは自分自身を破壊することだったからだ。

camera  La caja de Campañà: imágenes desconocidas de la Barcelona en guerra | La Vanguardia

2021年3月20日

カントリー音楽のベース奏者ボビー・ダイソン

BobbyDyson
Bobby Dyson (1934-1997)

これは私が敬愛してやまないカントリー歌手ドリー・パートンの LP アルバム "Coat Of Many Colors" のカバー写真だが、今ここで書こうとしているのは、彼女のことではなく、このレコードでベースを演奏しているボビー・ダイソンのことである。オーディオの世界では低音用スピーカーユニットをウーファー、すなわち犬の唸り声と呼ぶ。高音用は小鳥の囀りを意味するツイ―ターである。ダイソンのベースの音程は犬の唸り声であるが、その旋律は籠から放たれた美しい小鳥の鳴き声のようである。ウェブサイト RolandNote のデーターベースによると、ダイソンは、テキサス州ダルハートで1934年5月に生まれた。ジム・リーヴス、ドリー・パートン、ウェイロン・ジェニングスなどのヒット曲に参加し、グランド・オール・オプリーで初めてエレクトリック・ベースを演奏したミュージシャンである。彼はフラットワウン弦を張った初期のジャズベースをサムピックで、時には指で弾いていたようだ。ベースはドラムと同様リズムを刻む楽器である。クラッシック音楽の世界では、ダブルベース、すなわちコントラバスの狂騒曲があるが、その数は極端に少ないようだ。ぜひ鑑賞してみたいが、演奏会そのものが稀有だと想像される。

Electric Bass

コントラバスが得意とする音域は、旋律に適していないからだろう。ポピュラー音楽のバンドの中では縁の下の力持ち的存在になりがちだが、ジャズ奏者のポール・チェンバースはダブルベースでメロディアスなベースラインを駆使したアドリブソロで知られていたし、そしてフェンダーのエレクトリック・ベースを愛用、ボーカル並みの存在感を放つマーカス・ミラーのようなベース奏者もいる。カントリー音楽ではロイ・ハスキー・ジュニアが真っ先に頭に浮かぶ。飾り気のないベースランニングがリズムに安定感を与えてくれる。彼はブルーグラス、フォーク、ケイジャン、フォーク・ロックなど、さまざまなスタイルの音楽を手がけた。ダイソンはベース奏者だったが、ソングライターでもあった。多岐にわたって才能を発揮したが、その最たるものが1966年に映画 "Country Boy" にも出演したことだろう。しかし最も大きな影響を与えたのはスタジオレコーディングであり、400枚以上のレコード作品に参加したと言われている。なお彼自身の45回転シングル盤 "Bobby Dyson And Appomatox Station" がキャピタルレコードから1973年にリリースされている。1997年3月、脳卒中のためテネシー州ナッシュビルのバプティスト病院で逝去、享年63歳だった。

WWW The Complete discography (1959-2020) of Bobby Dyson | AllMusic | Netaktion LLC

2021年3月17日

ウェブブラウザ Amazon Silk のブックマーク

Amazon Silk
ブックマーク画面

譲り受けた Amazon のタブレット Fire 7 を使ってみて物足りなかったのは Android をベースにしながら Google Play ストアを利用できないことだった。Amazon と Google がかつて敵対関係にあった名残りなのだろう。和解したのは互いのストリーミングアプリを利用可能になったくらいである。相変わらず Amazon アプリストアの品揃えが良くない。これに対し Fire タブレットに Google Play をインストールす「超裏技」があるようだが、いささかイレギュラーな対応と言えるだろう。

Bookmark Folder

しかし Fire タブレットユーザーが欲しのは例えば Google カレンダーのようなアプリケーションだと想像する。Amazon アプリストアに登録されている Google カレンダーはブックマークに過ぎない。ブラウザ Amazon Silk はパソコンのブックマークを直接インポートできない。前エントリー「タブレット Amazon Fire 7 の使い心地」でブックマークをフォルダで管理する Amazon の Bookmark Folder について触れた。このアプリ―ケーションを使って Chrome ブックマークのインポート試みた。右上にある縦3点︙をクリック、ブックマークをエクスポートすると bookmarks_YRAR_MM_DD.html というファールが生成さた。次にタブレットと USB 接続しての Download フォルダーにこれをコピーする。そこで Bookmark Folder 起動し「HTMLファイルからインポート」を選択、ファイルを指定すれば OK だった。これで Chrome のブックマークがインストールされたが、どうも見栄えが良くない。そこで手動で Silk 本体のブックマークを設定してみた。上掲のスクリーンショットはフォルダ Portal 内のブックマークである。ご覧の通り Google の個別のアプリケーションがなくてもメール、カレンダー、マップなどが利用できるようになった。

Amazon  ブックマークをフォルダで管理する Bookmark Folder のダウンロードとインストール