2021年3月22日

スペイン内戦を記録した写真家アントニ・カンパーニャ

Guerra Civil española
バクーニン兵舎の民兵(1936年8月)
岩波文庫(2019年8月)

スペイン内戦の写真というとロバート・キャパ(1913–1954)と共同撮影者で恋人だったゲルダ・タロー(1910–1937)を思い浮かべる人が多いと思われる。キャパの『崩れ落ちる兵士』は出世作である。ゲルダはスペイン内戦従軍中に戦車に轢かれて死亡した。この悲劇がふたりをいっそう有名にしたのだが、約5,000枚の内戦の写真を残したスペインのアントニ・カンパーニャ(1906-1989)は、日本ではほとんど知られていないようだ。またスペイン内戦をテーマにした文学作品といえば、アーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)の小説『誰がために鐘は鳴る』やジョージ・オーウェル(1903–1950)のルポルタージュ『カタロニア讃歌』がよく知られている。しかしバルセロナ生まれの小説家、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)の作品『ダイヤモンド広場』は世界で39以上の言語に翻訳されているにも関わらず、カタルーニャ語から直接訳が出版されたのは2019年8月だった。民兵になった夫キメットが戦死、再婚するひとりの女性の愛のゆくえを描いているが、オーウェルのような戦場の記述はない。スペイン内戦前から戦後のバルセロナが舞台だが、ノーベル賞作家のガブリエル・ガルシア=マルケス(1927–2014)が「私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」と絶賛したカタルーニャ文学の至宝とも言える傑作である。

Antoni Campañá (1906-1989)

写真家アントニ・カンパーニャに戻そう。1906年3月15日にカタルーニャ州ジローナ県のアルブシャスで生まれたが、幼少期は家族の常設住宅があったバルセロナのサリア地区で過ごした。父と祖父が建築業者で、仕事を手伝ったこともあった。初めて写真を撮ったのはオソナの地域だった。バルセロナの学校を退学して写真店で働き始め、撮影した写真を売るようになった。1933年に結婚すると、新婚旅行でミュンヘンに行き、ドイツ人写真家のヴィリー・ツィールケ(1902-1989)の手ほどき受けて技術を磨いた。ホセ・オルティス=エチャギュエ(1886-1980)、クラウディ・カルボネル(1891-1970)など、ピクトリアリズムを擁護した世代の写真家のひとりだった。最も貴重な写真は1923年に撮影された「血の牽引」と題された作品で、2頭立て農耕機をローアングルで撮影したブロムオイル印画である。内戦時代に、約5,000枚の戦争写真を撮影したが、ふたつの赤い箱に入れてガレージの奥に隠してしまう。彼の死後30年経って家屋を売却する際に家族がこの「宝庫」を発見した。箱の中には保存状態の良い5,000コマ以上のネガと、約700枚のプリントが入っていたのである。

Tracción de sangre
「血の牽引」(ブロムオイル)1923年

バルセロナでライカの公式代理店に務めていた彼は、スナップショットのほとんどをこの伝説的なドイツ製カメラで撮影していた。数々の国際的な賞を受賞したが、1934年に雑誌「アメリカンフォトグラフィー」 の表紙を飾り、戦時中の彼のスナップ写真がいくつか掲載されていた。バルセロナの新聞「ラ・ヴァングアルディア」と関係のあった彼は、戦前、戦中、戦後を通じて写真を投稿、1961年には同紙が発行した最初のカラー写真は彼のものだった。しかし戦争写真は亡くなった1989年になっても知らぜらる存在だったのである。なぜ隠したのか? 息子のアントニによれば「戦争の写真を撮っていたことを知られたくなかった」からだという。「カンパーニャは苦味と悲しみをもって戦争を撮影したが、この同じ気持ちが彼のイメージを広めることを妨げ、ほとんどが彼のアーカイブの中で未発表のままとなっている」と1989年に美術評論家のマルタ・ギリ(1957-)が書いている。戦争写真を誰にも見せたくなかった。しかしそれができるからといって、写真を破棄することもなかった。悲しみや苦しさが込められているだけに、その写真を破棄すことは、自分たちの視線を破棄してしまうことになる。それは自分自身を破壊することだったからだ。

camera  La caja de Campañà: imágenes desconocidas de la Barcelona en guerra | La Vanguardia

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