2018年6月28日

帰るべき民謡のルーツを持たない日本のフォークシンガー


邦楽や日本民謡はディープな伝統を持つが、大多数の日本人には無縁な世界ではないだろうか。1970年暮れに来日したマイク・シーガーの公演を収録したLP(キングレコード SKK662)に針を落とし、小室等のライナーノーツを再読した。マイクの兄、ピート・シーガーの二度目の来日の時、彼を囲む会合に出席したが、次のような発言があったという。
キングレコード SKK662(1971年)
それは記憶はさだかではないが「寒い野良仕事から帰った男が熱いスープいっぱいと引きかえに自分の財産である土地譲り渡してしまう」という聖書から物語を例えにひいて、日本の若い人達が、琴や三味線をはじめとした素晴らしい楽器や日本民謡があるのに、その宝物であるところの日本のものには目もくれず、なぜ眼の前のスープごとき外国音楽の物真似ばかりをしようとするのか、という内容であった。
これは認識不足だと小室は指摘している。つまり日本の若者が受け継ぐことができる民謡をいまだに持っていると、ピート・シーガーが思い込んでいる。ふと気が付いたときにはどっぷりと西洋音楽というものにつかっていた、ということを彼は知らないのではないだろうか、と。この認識の差は興味深い。シーガー兄弟は音楽家であるとともに、民謡蒐集家、つまり民俗学者でもあった。私も若いころ、携帯録音機を買って民謡蒐集をしようかと思ったことがある。しかし日本民謡の知識がゼロであるという現実に愕然、叶わぬ夢と諦めた。小室は日本のフォークソングの魁であり、1970年代から現在に至るまで牽引してきた。そのベースはアメリカのフォークソングであり、日本のフォークシンガーの共通点でもある。彼らの多くが自分たちの音楽のルーツについて、一度や二度、思い悩んだことがあるのではと想像する。その点を突き詰めれば、結局、ピート・シーガーの指摘に頷かざるを得ないだろう。沖縄民謡というルーツを持つ喜納昌吉などは例外で、その大多数は帰るべき民謡の基盤を持っていない。これはやはりちょっぴり悲しい現実である。ただ日本のフォークソングには日本語という大いなる武器があり、それが救いで、私は言葉に惹かれて聴くことが多い。

2018年6月24日

消えない地震による原発事故の恐怖


グラリと揺れた途端、脳裡を走ったのは原発のことだった。2011年3月11日、東日本大震災により、東京電力福島第一原子力発電所で発生した炉心溶融は、甚大な被害をもたらしたが、ご存知の通り、未だに廃炉もままならぬ状態にある。原子力規制庁は6月18日、大阪府北部を震源とする地震で、現在稼働している関西電力の大飯原発3、4号機や高浜原発3号機など福井県に立地する原発をはじめ、全国各地の原子力施設に新たな異常はなかったと発表した。しかし、この報道に接しても、不安は払拭できない。いざとなった場合、本当に自動停止するかという疑いは晴れない。北力電力は自動停止機能について次のように説明している。
志賀原子力発電所の場合、複数の地震感知器が原子炉建屋内に設置されています。これらが震度5程度を超える揺れを感知すると、原子炉の制御装置に信号が送られ、制御棒が自動的に挿入されて、運転中の原子炉を安全に停止します。したがって、万一大きく揺れたとしても、放射性物質が外部に放出するような事故に進展する心配はありません。
関西電力のウェブサイトも「感震器が大きな揺れを感知すると、原子炉の運転を止める制御装置に信号が出され、原子炉を安全に自動停止する仕組みになっています」という説明が載せている。今回の福井県高浜町の震度は4だったので、自動停止する筈はないと言われれば、確かに反論し難い。しかし大きな地震が若狭湾を襲ったら、正直言って自動停止するから安心だという気には到底なれない。地震によって燃料棒の間に反応を止めるために挿入する制御棒が入らなくなる可能性が十分考えられるからだ。そうなれば原子炉は止めることができない。過去には大きな地震でなくとも緊急停止した例が見られ、自動停止機能が計画通りに上手く作動するという保証はまったくないのである。福島第一原発の事故により、安全神話が崩れたにも関わらず、国は安全と繰り返しているが、私は信じていない。東京オリンピック誘致演説で「福島はアンダーコントロールにある」と首相が平気でウソをつく国だから。真の安全はすべての原発の稼働を止め、廃炉することで成就するだろう。

PDF  日本地震学会編「日本の原子力発電と地球科学」の表示とダウンロード(PDFファイル 16.6MB)

2018年6月18日

生物多様性とバイオフィリア――他の生命に関心を抱く


『生命の多様性(上・下)』岩波書店 (2004/10)
生物多様性条約第14回締結国会議(COP14)は今年11月、エジプトのシャルム・エル・シェイクで開催される。生物多様性という用語そのものは、生物学的多様性(Biological Diversity)を縮めた造語 Biodiversity を訳したものだ。ところで生物多様性条約の目的とは一体何だろう。上記会議サイトによれば(1)地球上の多様な生物をその生息環境とともに保全すること(2)生物資源を持続可能であるように利用すること(3)遺伝資源の利用から生ずる利益を公正かつ衡平に配分すること、この3点に要約できるようだ。環境保護運動の先進国であるアメリカがこの条約を批准していないのは(3)に関わる経済問題なのだろう。ところで肝心の生物多様性はなぜ必要なのだろうか。上記会議に呼応した関連書の出版が盛んなようだが、生物学的多様性について著名な生物学者エドワード・O・ウィルソンの著書『生命の多様性』を読んでみた。専門に過ぎる用語に戸惑いながらだったが、更に同じ著者のエッセイ『バイオフィリア』にも触れてみた。ヒトという厄介な動物が、地球上の生物の多様性を、物凄い勢いで奪ってることを痛切に感ずる書である。生物の多様性というのは文字通り、生き物がたくさん存在することである。ところが生物の絶滅は加速しつつあり、鳥類や哺乳類だけではなく、苔類や昆虫、淡水小魚といった小型生物にまで及んでるという。絶滅率の推定値は、控えめに見積もっても、年間 1000 種に及ぶという。その大部分は熱帯の森林その他の重要な棲息場所の破壊から生じているという。そして今後30年間に100万種に及ぶ生物が姿を消すかもしれないというのだ。進化のプロセスは新しい種を生み出す。しかしその出現力をはるかに絶滅率が上回っている。

『バイオフィリア』筑摩書房 (2008/9/10)
過去 1000 万年の間に出現したいくつもの分類群――コンドルやサイ、マナティーやゴリラといったお馴染みの動物が含まれる――全体が姿を消そうとしていると著者は警告する。ヒトはもっとも最近に現れた環境の荷物に過ぎなく、その破壊性は地球の歴史においてこれまでに類を見ないものだという。破壊性は工業化社会が生んだものと私は思うが、その問題はすべて解決可能だと信念にしがみついていても何ら得るものはないと著者は断言する。何よりも必要なのは、我々が抱えている問題の真に生物学的な側面に関する知識であり、共通の難局に直面したときに発揮されるべき公共心であり、行動する穏健派というリーダーシップのあり方だという。生物の世界がもっと探求されれば、経済的利用のためにも、より高い生産性を持つ生物を選ぶことができる。種の多様性は地球のもっとも重要な資源のひとつであるからだ。この差し迫った緊急課題に対して、人類は何をすべきか。森林伐採に象徴される環境破壊を止めることが第一義だが、広く一般にこの問題を周知、啓蒙することが必要である。特に将来を担う子どもたちへの環境教育が望まれる。E・O・ウィルソンの功績にちなんだ施設を紹介しておこう。フロリダ州ウォルトンのパンハンドルに2009年に開設されたE・O・ウィルソン・バイオフィリア・センターである。学生や教師、研究者のための生物および自然保護教育施設で、4万8000 エーカーの自然保護区となっている。最高経営責任者であり創設者のM・C・のデイヴィスは「子供たちが都会の団地で成長し、花や野生動物に触れることがないとか、またはその道を歩くことがないとすれば、彼らはら恋に落ちることができますか?」と語ったそうだ。

2018年6月17日

国際博物館会議(ICOM)2019 京都大会

ICOM 京都大会のポスター

2019年9月に京都で開催される国際博物館会議(ICOM)京都大会の PRポ スターが完成。ポスターには、画家で文化功労者の絹谷幸二氏が ICOM 京都大会のために描き下ろした「光降る街・京都」を起用している。

ICOM  国際博物館会議(ICOM)京都大会2019の開催について(京都市内博物館施設連絡協議会)