ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が民主党候補のカマラ・ハリス副大統領に勝利してほしいとにコメントしたり、共和党の前副大統領マイク・ペンスが、良心の呵責からドナルド・トランプに投票することはできないと表明したり、11月の大統領選を控え、俄かに信じがたい情報が流れ始めている。自民党総裁選候補者にアメリカの大統領選で「もしカマラ」「もしトランプ」だったらという質問をしないメディアに不思議を感ずる。政治情報サイト「リアル・クリア・ポリティクス」によると、全米を対象にした各種世論調査の支持率の平均は、8月30日の時点で、カマラ・ハリスが48.1%、ドナルド・トランプが46.2%で、競り合いが続いている。オランダのアムステルダムを本拠に置く政治風刺漫画の国際ポータルサイト Cartoon Movement にも連日大統領戦を題材にした作品が寄稿されている。ハリスの政治風刺漫画5点を抜粋してシェアすることにした。
2024年9月7日
アメリカ民主党大統領候補カマラ・ハリスの風刺漫画
2024年9月5日
家族の歌を忘れられないようにすることを生涯の使命としたキャリー・グローヴァー
キャリー・グローヴァー (1879-1959) は、カナダのノヴァスコシア州ブラックリヴァーでキャリー・スピニーとして生まれた。12歳のときにアメリカのメイン州ベセルに引っ越した。グローヴァーにはアイルランド、スコットランド、イングランド、ウェールズの血を引く先祖がいた。彼女の父と母はともに歌手で、伝統的な歌を別々に、あるいは一緒に歌っていた。後年、幼少期に起こったある出来事を思い出し、それが彼女に長く影響を与えることになる。それは、父親が母親に、自分たちが亡くなったら誰も昔の家族の歌を歌わなくなるだろうと言っているのを耳にしたことだった。これがきっかけで、できる限り多くの歌を覚え、また他の人に伝えられるよう、歌の歌詞をに書き留めた。父親が歌った歌のひとつに「アーサー・マクブライド」がある。これは、19世紀初頭にアイルランド北部、おそらくドニゴールで作曲されたと学者たちが推定したいるバラードある。若いアイルランド人が英国軍に徴兵しようとする徴兵隊に抵抗する物語である。つまりこれは英国帝国主義に対するアイルランド人の抵抗の歌である。グローヴァーは、叔母 (父親の妹) もこの歌を歌っていたと信じていたので、おそらく、フォークソングのレパートリーが豊富な歌手だった祖母から学んだのだろう。1940年12月、アメリカ議会図書館の民俗学者アラン・ロマックスのラジオ放送を聞いたグローヴァーは、彼に手紙を書き、自己紹介と家族の歌について伝えた。ふたりの文通は少なくともロマックスが議会図書館を去るまで続いた。
彼女の強い要望で、当時26歳のアラン・ロマックスはグローヴァーを「キャリーおばさん」と呼んだ。1941年4月、姪を訪ねてヴァージニア州とワシントン D.C.を旅し、その後ニュージャージー州に息子を訪ねた。この旅の間、議会図書館の録音室でロマックスに、姪と息子の家でシドニー・ロバートソン・カウエルに録音され、フォークソング・アーカイブに88曲の歌とフィドルの曲が寄贈された。彼女の歌は後にエロイーズ・ハバード・リンスコットによって録音され、写真も撮られ、その資料もエロイーズ・ハバード・リンスコット・コレクションの一部として図書館に収蔵された。1941年4月に議会図書館でアラン・ロマックスの前で「アーサー・マクブライド」を歌った。旅の後も、彼女は自分自身と家族の歌を擁護し続けた。母校であるメイン州のグールド・アカデミーの協力を得て、グローヴァーは1953年に歌の多くを歌詞と曲にまとめた本 "A Heritage of Songs"(歌の遺産)を出版した。1970年代、アイルランドのフォークシンガー、ポール・ブレイディは、アメリカ人の友人を訪ねた際にこの本を目にした。この歌がアイルランドと関連していることに気づいたブレイディは1976年に「アーサー・マクブライド」を録音、アイルランドフォークリバイバルの名曲となった。この歌は、ボブ・ディランの CD アルバム「グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー」でカバーされた。下記リンク先はアメリカ議会図書館のアメリカフォークライフセンターの民俗学者スティーブン・ウィニックによるブログ記事「ポール・ブレイディ、キャリー・グローヴァー、ボブ・ディランと "アーサー・マクブライド"」である。
Paul Brady, Carrie Grover, Bob Dylan, and "Arthur McBride" | Posted by Stephen Winick2024年9月3日
断捨離で蘇った自作の写真
千葉市立緑町中学校時代の同窓生だった俳優の高橋英樹は、大掛かりな断捨離を実行して話題になった。ウェブサイト「遺品整理の教科書」によると、彼がこの断捨離で処分した品はなんとトラック約8台分、33トンにも及んだそうである。2017年7月23日放送の日本テレビのバラエティ番組「行列のできる法律相談所」で、娘の真麻さんから「あなたが死んだら全部ゴミ!」と一喝されたことがきっかけのようだ。断捨離で処分した、例えば衣類の場合、スーツ1,000着、ネクタイ600本、靴150足、バッグ100個だったというから凄い。高橋英樹と比べると余りのもスケールが小さいが、私もささやかな断捨離を行った。ターゲットは書斎兼寝室に鎮座していた、幅110センチ高さ200センチの、巨大な引き出し付きシェルフだった。
輸入骨董家具で、私の趣味が凝縮収納されていた。すなわち国内外の写真集、音楽を中心にした書籍、レコード及び CD の音楽リソース、そしてそれらを演奏するオーディオ装置など。写真には写っていないが、天板上にはスピーカーが乗っていた。逆に言えば再生装置を放棄したわけだから、レコードや音楽 CD が無用の長物になったしまったのである。ただ希少性が高く、なかなか手に入らないものは残すことにした。音楽鑑賞はかなり音質が落ちるが PC オーディオに切り替えた。ネットで「断捨離」をキーワードで検索すると、そのマイナス面を強調している記事に出会う。その最たるものが、思い出の品を処分することで、気持ちにぽっかりと穴が開いたように感じるケースである。レコードや音楽 CD すべての処分はちょっとやりすぎたかなと思うが、茶褐色のシェルフが消え、さらに隣にあった書棚を撤去したら、大きな白壁が出現した。その壁に生まれて初めて自作の写真を飾ってみたら、新たな風が流れてきた。これはまさに、捨てたもんじゃない。
やましたひでこのオフィシャルブログ | 断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵 | アメーバブログ2024年9月1日
国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線
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| Susan Meiselas |
スーザン・メイゼラスはアメリカのドキュメンタリー写真家。1976年から国際的写真家集団マグナム・フォトに所属し、2007年に会長に就任した。現在はメキシコ在住のスペイン人写真家クリスティーナ・デ・ミデルが担当している。1970年代に戦争で荒廃したニカラグアやアメリカのカーニバルのストリッパーを撮影した写真で最もよく知られている。彼女は自身の写真集を数冊出版しており、また他者の写真集の編集や寄稿も行っている。作品はニューヨーク・タイムズ、タイムズ、タイム、ゲオ、パリ・マッチなどの新聞や雑誌に掲載されている。1979年にロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞し、 1992年にはマッカーサー・フェロー奨学金を受領しt。2006年にはイギリスの王立写真協会のセンテナリーメダルと名誉フェローシップを受賞し、2019年にはドイツ証券取引所写真財団賞を受賞した。彼女は30年以上にわたる交際を経て、2001年に彼が亡くなる直前に映画監督のリチャード・P・ロジャースと結婚した。メイゼラスは1948年6月21日、メリーランド州ボルチモアで生まれ、ニューヨーク州ウッドメアの中学校に通った。 1970年にサラ・ローレンス大学で文学士号を取得し、ハーバード大学で視覚教育の修士号を取得した。同大学ではドキュメンタリー写真家バーバラ・ノーフリートに師事した。1986年にパーソンズ・スクールから、1996年にボストン美術館から名誉美術博士号を授与された。ハーバード大学で修士号を取得した後、メイゼラスはフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画作品『ベーシック・トレーニング』のアシスタント・フィルム・エディターを務めた。
1972年から1974年にかけて、彼女はニューヨーク市の公立学校で働き、ブロンクスの教師と子供たちのためのワークショップを運営し、4年生から6年生向けの写真カリキュラムをデザインした。 1970年代半ば、後に「プリンス・ストリート・ガールズ」と名付けられたプロジェクトに取り組み始めた。これはニューヨーク市のリトル・イタリーの若い少女と思春期の少女を特集したシリーズである。彼女はまた、サウスカロライナ州とミシシッピ州の州立芸術委員会で働き、田舎の学校で写真プログラムを立ち上げ、ニューヨーク市のポラロイドとメディア理解センターのコンサルタントを務めた。彼女の最初の主要な写真撮影プロジェクトは、ニューヨーク市の公立学校で教えながら夏休みに取り組んだ、ニューイングランドのフェアやカーニバルでのストリッパーの記録であった。このプロジェクトはホイットニー美術館での展覧会と、書籍『カーニバル・ストリッパーズ』の出版につながり、書籍にはCDに収録された被写体への音声インタビューが付属された。
1970年代後半、メイゼラスはニカラグアの暴動とラテンアメリカの人権問題を記録する。このプロジェクトで最も有名な写真は「モロトフ・マン」で、左手にライフルを持ち、右手にペプシの瓶で作った火炎瓶を投げようとしている男(後にパブロ・バレタ・アルアズと特定された)を写している。これはサンディニスタ革命のシンボルとなり、ニカラグアで広く複製、リミックスされた。後にこの文脈以外で、ジョイ・ガーネットの2003年の絵画「モロトフ」に基づいたインターネットミームを通じて複製され、芸術における流用、変形、引用の著名なケーススタディとなった。ニカラグア革命を撮影した彼女の写真は、ニカラグアの地元の教科書に掲載されている。 1991年のドキュメンタリー映画『革命からの写真』は、戦争から10年後に彼女が撮影した場所に戻り、写真の被写体が写真について振り返る会話を描いている。
2004年、メイゼラスはニカラグアに戻り、写真が撮影された場所に壁画サイズの19枚の写真を設置した。このプロジェクトは「歴史の再構築」と呼ばれた。1981年、彼女はエルサルバドルで政府軍によって破壊された村を訪れ、ジャーナリストのレイモンド・ボナーとアルマ・ギレルモプリエトと協力してエル・モソテ虐殺の写真を撮影した。1997年、彼女はクルディスタンの100年にわたる視覚的歴史をまとめる6年がかりのプロジェクトを完了させ、自身の作品を書籍『クルディスタン:歴史の影の中で』に統合するとともに、集団的記憶と文化交流のオンラインアーカイブである先駆的なウェブサイト akaKURDISTAN(1998年)を立ち上げた。2008年に政治誌ブルックリン・レールのフォン・H・ブイとのインタビューでメイゼラスは次のように語っている。
私は、目撃すること、そして応答、責任ある応答としての写真撮影の役割と必要性を放棄したくはありません。 私はまた、ある種のナイーブな方法で、画像を作成する行為が十分であると仮定したくはありません。何が十分でしょうか?そして、本や展示会の形で作品を制作、出版、複製、展示、再文脈化するこのプロセスで、私たちは何を知ることができるでしょうか?…私は、それがいくつかの疑問を提起することを願うだけです。
2015年から2016年にかけての数カ月間、メイゼラスはイングランドのウェスト・ミッドランズのブラック・カントリー地区で、避難所にいる女性たちをテーマにしたプロジェクトに取り組んだ。このプロジェクトは、地元のコミュニティ・アート・チャリティ団体であるマルチストーリーとのコラボレーションで制作され、同団体は作品集『自分たちの部屋』(2017年)を出版した。
Susan Meiselas (born 1948) | Introduction & Biographical Essay | The Library of Congress













