2017年11月21日

ソーシャルメディア Twitter に再参加する


アカウントを取得したのは2009年、日本語版サービスが開始されてから約1年後だったと記憶している。現在の tweet 数は 7,500 弱だが、そのほとんどは参加後数年の間の投稿で、次第に遠ざかり、幽霊会員と化してしまった。おそらく2010年秋に Facebook に参加したためだったのではないだろうか。ところが最近フトしたきっかけで tweet を再開、当ブログの左サイドバーに Twitter のガジェットを埋め込んでみた。Facebook にも近況を語る機能があるが、ちょっとした気遣いが必要だからだ。いささかキザかもしれないが、語学力に乏しいくせに、私の Facebook フレンドは外国人が多い。そこで日本語を連発すると迷惑じゃないかと心配する。逆に英語ばかりだと、日本のユーザーにとっては鬱陶しいのではと思ってしまう。その点 Twitter のフォロワーの大多数が日本人なので、遠慮なく tweet できる。それに140字以内という制限も、割り切れて良い。私はフォローしていないが、ネットニュースなどで橋下徹元大阪市長の連続 tweet の転載を目にすることがある。他人がどのように使おうが構わないが、分割して投稿するくらいなら Facebook のほうが良いのにと思ったりはする。久しぶりにアクセスして気づいたのだが、画像の貼り付けや retweet などが簡単にできるようになっていて、それなりにずいぶん進化していると痛感した。蛇足ながら tweet を「つぶやき」と呼ぶ人がいるが、正確には「さえずり」である。しかし人間はそれこそ小鳥と違い、ピーチクさえずるわけではない。従って「おしゃべり」が適訳かもしれない。もっとも政治談議となると、丁々発止の議論になったりするので「主張」のニュアンスを感ずることもある。しかし呼び方としてはピンと来ないので、英語のカタカナ表記「ツイート」に落ち着いてしまったのだろう。さらに蛇足ながら高音用スピーカーは tweeter で、低音用は woofer である。後者は犬などの唸り声を指す。アメリカ人の命名法にはつくづく感心する。

2017年11月20日

姉妹都市提携破棄を迫る吉村洋文大阪市長の愚


慰安婦像と追悼碑の除幕式が9月22日、サンフランシスコのセント・メリーズ・スクエアで行われた。この慰安婦像と追悼碑の寄贈を受け入れる決議案をサンフランシスコ市議会が可決したが、姉妹都市である大阪市の吉村洋文市長が反発、エドウィン・M・リー市長宛てに抗議の書簡を送った。議会に対し市長が拒否権を行使しないと姉妹都市提携を破棄するという内容だったようだ。これに対し11月19日、朝日新聞が「ちょっと待ってほしい。姉妹都市の関係のもとで育まれてきた交流は、双方の市民の歴史的財産である。市長の一存で断ち切ってよいものではない」と主張した。これに対し吉村市長は自身の Twitter 上で「『ちょっと待て』はこっちのセリフだよ、朝日新聞」と噛み付いたのである。一連の騒動から私は橋下徹元大阪市長が2013年に、慰安婦問題にからめ、民放番組で風俗業の活用を在日米軍に求めたことを思い出した。この発言は米国の顰蹙を買い、予定していた公式訪問を、サンフランシスコ市長から拒否される始末。無知と下品な言葉から生じた大恥を全世界に拡散してしまったのである。今回の吉村市長の言動は、その橋下元市長の指示なのか、それとも元市長の私怨を忖度(そんたく)してのことかちょっと不明だが、強気の発言は一部の市民に漂う嫌韓感情に阿ったものだった可能性もある。いずれにしても南京虐殺や従軍慰安婦を否定する「歴史修正主義者」と揶揄されても仕方ないだろう。読売新聞が「米国の慰安婦像、姉妹都市解消はやむを得ない」と社説で援護射撃したが、まさに世論を分断する「朝読戦争」の様相を呈している。長い年月をかけて培った姉妹都市の友好関係を、議会や市民に諮らずに、市長の独断で交渉の切り札にするとは余りにも非民主的で情けない。右翼、いや保守主義者は「憂国」という言葉をしばしば使うが、ちょっと待ってほしい、それはこっちのセリフだと言いたい。

追記:サンフランシスコのエドウィン・M・リー市長は、市内に設置された慰安婦像と追悼碑文ついて、民間団体からの寄贈を受け入れるとした同市議会の決定を承認する文書に署名、これによって大阪市との姉妹都市関係が解消されることになった。吉村洋文大阪市長は海外メディアから歴史修正主義者という烙印を押され、60年に渡る友好の歴史が閉ざされるという結果だけが残った。(11月22日)

2017年11月17日

受動喫煙:美しいと称賛されたニッポンが薄汚い国になりつつある


今朝のテレ朝ニュース電子版によると、厚生労働省は、30平方メートル以下の飲食店に限って喫煙を認める方針だったが、自民党の反発を受けて方針を転換し、店舗面積が150平方メートル以下の、より大型の飲食店でも喫煙を認める新たな案の検討に入ったそうだ。これを認めると、東京都内ならば9割近くの飲食店で喫煙が可能になる見込みだという。東京都議会が10月5日に「東京都子どもを受動喫煙から守る条例」を賛成多数で可決成立させたばかりだが、30平方メートル以下の飲食店なら喫煙を認めるというものだった。これでも受動喫煙は防ぎえないと思っていたが、さらに店の許可面積を広げるというから呆れる。毎日新聞11月16日電子版によると、英国の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)」が受動喫煙に対する日本の対策は「最低ランク」と警鐘を鳴らしたという。世界55カ国が公共の場での屋内全面禁煙を法制化して15億人の健康が守られているのに対し、日本は飲食店や職場など多くの場所で喫煙が許されており「規制レベルは最低ランクの位置付け」と紹介。国民の大多数を占める非喫煙者の声が少数の喫煙者に負けているのが現状だとし、煙草、外食、娯楽産業の圧力が強く、財務省がJTの33%の株を保有している事実もロビー活動を容易にしている可能性があると指摘したのである。かつては海外から美しいと称賛されたニッポンが、薄汚い国になりつつある。

追伸:石田雅彦氏の記事「受動喫煙防止『厚労省150平方m案へ後退』報道の意図」によると「受動喫煙防止対策で厚生労働省が、飲食店の喫煙許容面積を150平方m以下にすると後退」などという内容の報道が一斉にあったが、厚労省の健康増進課に直接、確認してみたそうだ。するとそんな検討はしていない」という回答で「どこからそんな情報が出たのかわからない」と怪訝な様子だったという。事実なら私のこの一文は根底から崩れることになります。新たな情報を待ち、このエントリーをどうするか検討したいと思います。(11月19日)

2017年11月14日

フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ

The Kentucky Colonels at the Ash Grove, Los Angeles, California, 1966

米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像がずいぶん前に大阪・道頓堀川から救い出されて話題になったことがある。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。

Shikata Records SRCD-1002 (1999)
ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。左のアルバムは1965年録音の音源を、1999年に Shikata Records の故・四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス・ホワイト(ギター)ローランド・ホワイト(マンドリン)ビリー・レイ(バンジョー)ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。