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Olive Dame Campbell |
今からかれこれ6年以上前になるだろうか「南部アパラチアで英国古謡を蒐集した民謡研究家」という一文を当ブログにポストした。マサチューセッツ州ウェストメドフォード生まれのオリーブ・アーノルド・デイム(1882-1954)は1907年にジョン・C・キャンベルと結婚、アパラチアの山の中に入り夫と民謡蒐集する。夫の死後、その遺志を継いで1925年、ノースカロライナ州ブラスタウンに学校を共同設立、生涯にわたって教育活動を続けた。マギー・グリーンウォルド監督映画 "Songcatcher"(歌追い人)の主人公、ジャネット・マクティア演ずる音楽学者のリリー・ペンレリック博士は、明らかにオリーブ・デイム・キャンベルとオーバーラップする。ペンレリックはこの山岳地帯で教師をしている妹を訪ねたのだが、少女が歌った「バーバラ・アレン」を聞いて驚愕する。これはスコットランドに伝わる古謡で、オリジナルを彷彿とさせる旋律で歌われたからだ。どこで習ったの、という問いに、少女は代々伝わってきたものだという意味の答えをする。いわばこれは伝承音楽史上の大発見であった。アメリカのフロンティアは「開拓」によって、西へ、西へと進んだが、この山岳地帯は取り残されて陸の孤島と化した。そしてイングランドやアイルランドからの移民たちが、本国の文化習慣をこの地帯に温存させたのであった。学校が放火に遭い焼失、蒐集した楽譜やシリンダー式録音機に記録した音源を失う。そして恋仲となった男と、山の音楽を商業化するために都会に出る。そしてこの発見を立証するためにやってきた英国の民謡蒐集家とすれ違うところで映画は終わる。この蒐集家は明らかに英国の民謡研究家セシル・シャープ(1859-1924)をモデルとしたものだ。史実ではキャンベルとシャープは蒐集した歌を "English Folk Songs From The Southern Appalachians"(南部アパラチアの英国民謡)という著書として結実させ、オックスフォード大学から出版された。このアパラチア山系で移民たちが醸成したのがカントリー音楽のベースとなったヒルビリー音楽である。
アメリカ英語である "hillbilly"(ヒルビリー)は主にアパラチア山系地方の白人農村住民や、そういった地域出身の人物を指す言葉である。元々は蔑称として使われていたが、次第に音楽や文化の文脈で使われるようになった。そしてこの言葉から連想するのが J・D・ヴァンス(第2次トランプ政権副大統領)が2016年に発表した回想録『ヒルビリー・エレジー』である。この地域社会の地理的背景は、物語の核となる貧困、家族の崩壊、そしてアメリカンドリームからの乖離を理解する上で非常に重要である。物語の舞台となるのはアパラチア山系周辺地域と、かつて栄華を誇った工業地帯である「ラストベルト」(錆びついた工業地帯)と呼ばれる地域である。アパラチアはアメリカ東部を南北に走る山脈で、ヴァンスの祖父母が移住してきた地域である。長らく経済的に恵まれず、貧困が根強く残る地域として知られていた。ラストベルトは一時期、アメリカ製造業の中心地として栄えた五大湖周辺の地域だが、海外への生産拠点の移転などにより衰退が進み、失業率が高まるなど社会問題を抱える地域となってしまった。ヴァンスの家族は、アパラチア山系のケンタッキー州ジャクソンからラストベルトのオハイオ州ミドルタウンのへと移住した。この地理的移動は、家族の置かれた状況の悪化を象徴的に表しており、物語の重要な転換点っている。名門イェール大学ロースクールに通う主人公が、家族の問題で故郷のアパラチアに戻ることから始まる。そこで彼は薬物依存症に苦しむ母親や、かつての自分自身と向き合わざるを得なくなってしまう。幼い頃の辛い記憶、そして祖母との温かい思い出を振り返りながら、主人公は自身のルーツと家族の絆について深く考えさせられる。この作品が注目される理由は、アメリカ社会における経済格差や地域間の不平等という問題を浮き彫りにしたことである。特にアパラチア山系地方のような経済的に恵まれない地域で暮らす人々の生活が、いかに困難であるかを描き出し、大きな議論を呼び起こしたことである。この回顧録を大統領選で巧みに利用したのがドナルド・トランプである。当初は反トランプであったヴァンスがなぜそのトランプに媚び、擦り寄るようになったのか。優れた文学作品を残したが、昨今の言動に接して痛感するのは、政治家としては極めて危険であることだ。その大きな乖離の幅に理解しがたいものがある。

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