2025年5月31日

エドワード・グレイ『フライ・フィッシング』の深淵

Salmon and Sea Trout Flies
Sir Edward Grey

エドワード・グレイ(1862-1933)はイギリスの政治家で鳥類学者でもあった。祖父のジョージ・グレイ(1799-1882)は著名なリベラル政治家だった。ウィンチェスター・カレッジからオックスフォード大学に進んだが、学業を怠り退学させられた。学才がなかったというより、大学という枠の馴染めなかったのかもしれない。1882年に祖父が亡くなり、男爵の称号、約2,000エーカーの土地および私有財産を相続する。そして復学し、1884年に名誉学位を取得した。晩年、そのオックスフォード大学に名誉ある総長として招聘されたことは特筆に値する。1885年、バーウィック・アボン・ツイードから自由党員として当選し下院議員となった。第一次世界大戦勃発前夜の1914年8月3日、外務大臣だったグレイは執務室から暮れ逝く外の景色を眺めながら、友人だったウェストミンスター・ガゼット紙の記者、ジョン・アルフレッド・スペンサー(1862-1942)に「ヨーロッパ中のランプが消えようとしている。生きているうちにまたランプが灯るのを見ることはできそうもない」と語り、意に反してイギリスの参戦を決意したことで知られている。1905年から11年間外務大臣を務めたが、これはイギリスの外務大臣の最長在任記録となった。1916年に貴族院へ退いたが、爵位は継ぐものがいなく一代限りだった。眼を患い大戦集結時にはほぼ視力を失っていたという。弟がふたりいたが共にアフリカでの狩猟で命を落としている。ケニアで農場を経営したデンマークの作家、イサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』と時代がオーバーラップする。野鳥の研究観察と共に釣りが趣味で、1899年に『フライ・フィッシング』を著した。1929年にふたつの章を加えている。

むし暑い六月の日々のロンドンには、どうにもやり切れない、息苦しい一面がある。建築物の挑戦的な堅苦しさ、舗道の残酷な堅牢さ、太陽のもとにただれるような街のにおい、硬い物質に終日照りつける強い日差し、夜もなお避けることのできない息のつまりそうな暑さなどがそれである。そして、夜風も涼しさをもたらさず、寝室の窓はオーヴンに向かって開いているようだ。これらの苦難に加えて、最悪なのは、この季節に田園を奪われ、田園から閉め出されているという意識である。(西園寺公一訳)
講談社学術文庫(2013年)

エドワード・グレイ『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫2013年)は、日本の最後の貴族で、参議院議員などの要職を歴任、グレイ当時の毛鉤で鱒釣りにいそしんだ、西園寺公一の訳である。フライ・フィッシングを楽しむイギリスの釣り人にとって、一年中でもっともよい季節は初夏、すなわち五月と六月だと力説している。大自然が素晴らしく、限りない変化に富んだ姿を見せ、われわれが住む世界の美しさを納得させる絶好の季節だという。政界での苦労話はこの著書では皆無である。だだ激務に耐えながら、大自然への憧憬する心情がこの下りに顕著である。眼の病はグレイの視力を減衰させた。しかし毛鉤が見えないにも関わらず、手の触角を頼りに釣りを続けたという。おそらく野鳥は囀り、すなわち聴覚による観察をしたのではないだろうか。釣り文学の古典的バイブル『釣魚大全』の著者アイザック・ウォルトン(1593-1683)の生涯も多くの困難が伴うものだった。1626年に結婚したレイチェル・フラッドとの間に生まれた七人の子どもはすべて幼いうちに死んでしまい、彼女も1640年に他界した。1646年にアン・ケンと再婚したが、彼女との間に生まれた長男も、生まれるとすぐに死んでしまう。これらの苦難を『釣魚大全』は一切触れていない。開高健(1930-1989)が『フライ・フィッシング』を監修、序文を寄せているが、このふたりが著作の中では決して一身上の苦悩を語ろうとせず、弱音を洩らそうとしなかったと讃えてやまない。ふたりの現世の苦患(くげん)があってこそ、この明澄と静謐が蒸留されていると思いたい、と。グレイはもしかするとウォルトンを見倣ったのかもしれない。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の短編小説シリーズ「ニック・アダムズ物語」もそうだけど、釣り文学は釣りをしないアームチェア・アングラーの読者に支えられてる側面があると思われる。そうそう、ユーモアに富んだ開高健『私の釣魚大全』(文春文庫1978年)に底知れぬ慰安と強い感動をを覚え、何度も読み返したことが思い出される。超お薦めの一冊だ。下記リンク先はイギリスの自由民主党歴史グループのリチャード・R・グレイソンによるエドワード・グレイのバイオグラフィーです。

biography  Edward Grey (1862-1933) Biography by Richard S. Grayson | Journal of Liberal History

2025年5月29日

イスラエルによるガザ侵攻への批判は反ユダヤ主義ではない

Demonstrators protesting antisemitism
Demonstrators protesting antisemitism during a silent march in Paris

イスラエルの指導者たちは、ユダヤ人に対する歴史的な迫害を理由に、ガザにおける大量虐殺作戦を擁護し、イスラエルの戦争に反対し、パレスチナ民間人の大量虐殺に抗議することは反ユダヤ主義的だと示唆している。ガザ紛争においては、真の反ユダヤ主義とイスラエルの政策や行動に対する正当な批判を区別することが不可欠である。IHRA(国際ホロコースト記憶同盟)は、1998年にストックホルムで設立された政府間組織である。35か国が加盟し、8か国のオブザーバーが参加している。その使命は、ホロコーストに関する教育、記憶、そして研究を促進することである。2016年5月26日にブカレストで開催された総会において IHRA は反ユダヤ主義の暫定的な定義を採択した。これは法的拘束力を持たない声明である。反ユダヤ主義を「ユダヤ人に対する特定の認識であり、ユダヤ人への憎悪として表現されることもある。反ユダヤ主義の修辞的および物理的な表現は、ユダヤ人または非ユダヤ人の個人、あるいはその財産、ユダヤ人コミュニティの機関や宗教施設に向けられる」と定義している。この定義には反ユダヤ主義の現代的な例が11件含まれており、そのうち7件はイスラエル関係しているのである。IHRA によると、反ユダヤ主義の定義は、マルタとアルランドを除くすべてのEU加盟国を含む43の政府によって採用されている。しかし、この採用が何を意味するのかを示す標準化されたガイドラインは存在しない。多くの中東専門家や著名な弁護士は IHRA の反ユダヤ主義の定義は、ユダヤ人に対する憎悪という伝統的な意味を超え、イスラエルを含むユダヤの組織に対するあらゆる批判を含むと主張している。

Judge magazine antisemitic cartoon
Judge magazine antisemitic cartoon by Grant E. Hamilton, January 23, 1892

この定義によれば「パレスチナを解放せよ」や「川から海までパレスチナは自由になる」といった親パレスチナのスローガンは反ユダヤ主義とみなされる。その結果、アメリカと欧州の監視機関は、ガザ紛争が始まって以来、反ユダヤ主義的な事件が増加していると報告している。2022年にはイスラエル、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの大学の著名なユダヤ人学者を含む128人の学者が、この定義はイスラエル政府を国際的な批判から守るために「乗っ取られた」と述べた。人種差別問題に関する元国連特別報告者の E・テンダイ・アキウメは、この定義はイスラエルに対する正当な批判を抑圧するために利用されていると述べた。アキウメは、これが主にパレスチナ人と彼らのために活動する人権擁護活動家に害を及ぼしていると付け加えた。英国では、この定義が言論の自由を萎縮させる効果があることが研究で明らかになっています。英国中東研究協会と欧州法律支援センターは、英国の大学の職員または学生が反ユダヤ主義で告発された40件の事例を分析した。昨年発表された報告書によると、これらの告発はいずれも、いまだに根拠が示されていない2件を除き、法的措置に至っていません。英国中東研究協会副会長であり、ロンドンのクイーン・メアリー大学で国際法と人権を専門とするイスラエル人教授ネーヴ・ゴードンは、アルジャジーラに対し、反シオニズムと反ユダヤ主義を混同することは、逆説的に批判的なユダヤ人の声を反ユダヤ主義的だとレッテル貼りする可能性があると述べた。

German antisemitic children's boo
lustration from a German antisemitic children's book in 1936

曰く「もし私が授業で、イスラエルはアパルトヘイト国家であると述べるヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書を教えたら、反ユダヤ主義の罪で告発される可能性がある」云々。イスラエルの政策をナチス政権の政策と比較することが反ユダヤ主義だという考えは狂っている」「この定義は、イスラエルと、イスラエルがガザで行っているジェノサイドに対する正当な批判を封じ込めようとしているのだ」云々。イスラエルの指導者たちは、ユダヤ人に対する歴史的な迫害を理由に、ガザにおける自らの行動を正当化してきた。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はハマスによる作戦を「ホロコースト以来最悪の反ユダヤ主義的暴力行為」と呼んだ。しかし、パレスチナ人の抵抗作戦はイスラエルの侵略と占領によって引き起こされたものであり、数十年にわたりイスラエルの入植者による植民地支配と占領に直面してきたパレスチナの人々にとって、当然の反応と言えるだろう。パレスチナ武装勢力が突発的な戦術や計画に頼るのは、世界有数の資金力を持つ武装勢力と対峙しているためである。パレスチナ抵抗勢力によるこの軍事的対応は、必然的な展開であり、抵抗行為であり、残忍な封鎖と占領下にあるガザの人々の苦しみに対する反応であった。これは、パレスチナ人の自由を求める闘争の一部である。イスラエル政府は、ガザ地区全住民に対する大規模な戦争への前例のない支持を集めるため、多角的なプロパガンダ戦略を展開した。彼らは、イスラエルの戦争に反対し、パレスチナ民間人の大量虐殺に抗議することは反ユダヤ主義であると主張した。

Ethnic Creaning
Netanyahu says Israel will not back down ©2025 Bart van Leeuwen

イスラエル政府と軍は、民間人に対する継続的な虐殺戦争を正当化するために、頻繁に新たな主張を展開している。彼らは病院をハマス、国連をハマス、ジャーナリストをハマス、欧州の同盟国をハマスと名指しし、さらには国際司法裁判所を反ユダヤ主義的だと非難している。イスラエル政府は、ガザ地区全住民に対する大規模な戦争への前例のない支持を集めるため、多角的なプロパガンダ戦略を展開した。彼らは、イスラエルの戦争に反対し、パレスチナ民間人の大量虐殺に抗議することは反ユダヤ主義であると主張した。イスラエル政府と軍は、民間人に対する継続的な虐殺戦争を正当化するために、頻繁に新たな主張を展開している。親イスラエル派によるこうした包括的な主張は、政治的な棍棒として意図されている。つまり、反ユダヤ主義を武器にして、イスラエルによるガザ攻撃に対する批判からイスラエルを守ろうとしているのだ。5月27日付朝日新聞によるとガザ攻撃では少なくとも5万4,000人以上のパレスチナ人が死亡、数万人以上が負傷した。そして200万人近くのパレスチナ人が強制的に避難を強いられ、現在飢餓状態に陥っているという。多くの学者は、ガザの状況はジェノサイドに等しいと主張している。世界の中で、反ユダヤ主義というキーワードが何をもたらしているのか、私たちよく考えておく必要がある。反ユダヤ主義というキーワードが何をもたらしているのか、よく考えておくべきである。このキーワードを援用してアメリカのドナルド・トランプ大統領はハーバード大学を攻撃している。下記リンク先は IHRA(国際ホロコースト記憶同盟)の公式ウェブサイトです。

holocaust  The International Holocaust Remembrance Alliance (IHRA) with 35 Member Countries

2025年5月27日

旅行案内書「ロンリープラネット」に出会った

Lonely Planet
京都・嵐山のページを広げた観光客
ロンリープラネット: 日本編

京都大学付属病院で外来検査を受けた帰路、バスの隣りの席の外国人観光客が手にしていた旅行案内書が目に止まり驚いた。なんとロンリープラネット(Lonely Planet)でないか。思わず写真を撮らせていただいた。私は金閣寺の近くに住んでいるので、連日、外国人観光客とバスに乗り合わせるが、このロンリープラネットに限らず、紙媒体の旅行案内書を所持している人に出会ったことがない。彼らはソーシャルメディアで細かい情報を仕入れ、来日するとスマートフォンに道案内してもらう。飲食店の在り処は無論のこと、バスの運航経路も簡単に分かるらしく、尋ねることなしに乗車している。路線番号を間違えるのはむしろ京都にやってきた日本人観光客である。私の経験ではアメリカのグレイハウンドのような長距離バスは、情報を得られやすく、余り迷わなかった。ところが都市、例えばトルコのイスタンブルの場合、ローカルバス路線はトルコ語を話せない観光客にはまさに迷路そのものだった。話を戻そう。ロンリープラネットは、イギリス人のモーリーン・ウィーラーとトニー・ウィーラー夫妻によって設立された。1972年、彼らはオックスフォードとケンブリッジの極東探検隊のルートを辿り、ヨーロッパとアジアを経由してオーストラリアまで陸路で旅に出た。社名はマシュー・ムーアの歌の中で聞き間違えられた lovely planet に由来する。ロンリープラネットの最初の本 Across Asia on the Cheap(格安でアジア横断)は94ページで、夫婦が自宅で執筆したという。1973年の初版は、ホチキス留めの小冊子と淡い青色のボール紙の表紙で構成されていたそうである。1981年にはインド版ガイドブックが出版されて、その後、世界各地に拡大した。1970年代の半ば、私はこのシリーズの存在を知っていたが、とっくに廃刊になっていると勘違いしていた。2009年、ロンリープラネットは月刊旅行雑誌ロンリープラネット・トラベラーの発行を開始した。これは多くの国でデジタル版が出版されてるようだ。しかし私にとっては昔ながらの紙媒体が好きだ。内なる幻の旅行案内書だから。蛇足ながら日本の「地球の歩き方」も廃刊になっていないが、インターネットやスマートフォンを通じて随時入手できるようになったことなどから、かなり危機的な状況にあるようだ。

book Lonely Planet Shop: Europe | Asia | America | Middle East | Africa | Oceania | Caribbean

2025年5月25日

ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』に癒される

The Natural History and Antiquities of Selborne
The Natural History and Antiquities of Selborne (First Edition 1789)
講談社学術文庫(1992年)

釣りに関しては日本でも井伏鱒二や開高健などの優れた著作があるが、野鳥に関してはこれといった書籍に出くわしたたことがない。強いてあげるなら高野伸二(1926-1984)の『野鳥を友に』(朝日文庫)くらいだろうか。ひょっとしたら見落としてる可能性もあるので少し調べようかと思っている。いわば「野鳥文学」ともいえる書籍にイギリス系アルゼンチン人ウィリアム・H・ハドスン(1841-1922)の『鳥と人間』『鳥たちをめぐる冒険』『はるかな国とおい昔』がある。同著者の『ラ・プラタの博物学者』と共に私の座右の書だが、後者は文庫本になっているので手に取ることを勧めたい。さらに古典的名著として推薦したいのがギルバート・ホワイト(1720-1793)の『セルボーンの博物誌』(山内義雄訳・講談社学術文庫)である。岩波文庫から寿岳文章訳が出ているが、旧仮名遣いのため、本書のほうが読みやすいと思われる。ギルバート・ホワイトは博物学者であるとともに、聖職者でもあった。セルボーンはイングランドのハンプシャー州の東端、ロンドンの南西約80キロメートルに位置する小さな村である。ギルバート・ホワイトは八人兄弟の長男としてこの村の中央の牧師館に生まれた。オックスフォード大学オリエル・カレッジに進学する前に、ベイジングストークで教育を受けた。祖父と叔父に倣って教会に入り、オリエルのフェローとして輝かしい経歴を築いた。1746年に副牧師に叙階され、隣接するハンプシャー州ファリンドン村の牧師であった叔父チャールズの副牧師となり、1749年に正式に叙階された。後にセルボーン教区の副牧師となり、その他にも地元のものやそれ以外のものなど、同様の役職を歴任した。若い頃から熱心な造園家だったホワイトは、次第に周囲の自然の関心を深め、伝統的なものから実験的なものまで、様々な果物や野菜を栽培した。この地域で初めてジャガイモを栽培し、この熱心で探究心に満ちた園芸への関心が、種を蒔き、収穫した作物、天候などの詳細を系統的に記録する最初の著作の執筆へと繋がる。

Gilbert White's House and Gardens
Gilbert White's House and Gardens, Hampshire, England

彼はこれを後に「ガーデンカレンダー」と名付けた。ホワイトが最もよく知られているのは、言うまでもなく後年の著作『セルボーンの博物誌』である。これはホワイト自身と、デインズ・バリントン卿(1727-1800)やトーマス・ペナント(1726-1798)など、当時の志を同じくする紳士たちとの書簡から始まり、そこで彼らは地元の動植物や野生生物に関する観察や理論を議論した。ホワイトは生きた鳥や動物をその自然の生息地で研究することを信条としていたが、これは当時としては異例な研究方法だった。というのもほとんどの博物学者は、研究室の快適な空間で死んだ標本の詳細な調査を好んだからである。ホワイトはチフチャフ、ヤナギムシクイ、アメリカムシクイを、主に鳴き声の違いに基づいて三つの別々の種として区別した最初の人物であり、また、ザトウヒネズミと夜行性コウモリを正確に記載した最初の人物でもあった。『セルボーンの博物誌』は、ホワイトの死のわずか4年前の1789年に、出版業者であった弟のベンジャミンによって出版された。それ以来絶版になることはなく、英語で最も多く出版された書籍の一つとされ、他の言語にも翻訳されている。ホワイトは現在「最初の生態学者」としての名声を得ている。ギルバート・ホワイト牧師は、英語で最も多く出版され、最も人気のある本のひとつを著したこと、自然史科学の発展に多大な影響を与えた先駆的な博物学者であること、そして庭師であることの 三つの点で有名である。ウィリアム・H・ハドスンに影響を与えたのは言うまでもないが、ジャン・アンリ・ファーブル(1823-1915)の『昆虫記』など、自然観察文学の魁(さきがけ)をなした名著である。閉塞感が漂う現代社会だが、田園生活に誘う本書に癒される。なおホワイトは1755年に叔父の所有であったセルボーンのザ・ウェイクスにある実家に戻り、最終的に1763年に家を相続し定住したが、現在は「ギルバート・ホワイトの館と庭園」として一般に公開されている。庭園の写真を見ると、その美しさにため息が出る。

garden Gilbert White's House and Gardens | Wakes, High Street, Selborne, Hampshire, England

2025年5月23日

生まれ故郷ブラジルの熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座

Waura Indians
マト・グロッソ高原シング―河上流ピウラガ湖で漁をするワウラ族の人々
Sebastião Salgado (born 1944)

100カ国以上で人々や風景を撮影してきた写真家のセバスチャン・サルガドは、世界最大の熱帯雨林の美しさへの賛歌であると同時にその保護を訴えるために、生まれ故郷のブラジルに戻ってきた。現在80歳のサルガドは、ブラジル国内外の多くの人々にとって未知の領域であるアマゾンの心と魂を捉えようと、6年間にわたってアマゾンを旅し、木、川、山、森、そして人々を彼のトレードマークであるモノクロフィルムで撮影した。サルガドは写真集 "Amazónia" の序文で「私にとって、ここは最後のフロンティアであり、地球上のどこにもない、自然の巨大な力を感じることのできる、独自の神秘的な宇宙である」「ここには無限に広がる森があり、そこには全生物の10分の1の動植物種が存在し、世界最大の単一自然の実験室となっている」と書いている。1944年、ミナス・ジェライス州の南東部に位置するアイモレスに生まれた。経済学の学位を取得した後、1969年にパリに渡る。妻のレリア・ワニックは建築学を学び、サルガドは国際コーヒー協議会に就職し、定期的にアフリカに行くようになった。

amazonia
アマゾナス州のアナビルハナス群島近くにあるアマゾン川支流リオ・ネグロの堤

レリアが持っていた古いライカを手にしたサルガドは、写真に情熱を傾けるようになる。当時すでに33歳だったが、心の赴くままに仕事を辞め、フルタイムの写真家になろうと決心したのである。サルガドの最初の著作は、アフリカの半乾燥地帯サヘル、ラテンアメリカ、そして世界の肉体労働者を扱ったものだったが、一躍有名になったのは、アマゾンを舞台にしたプロジェクトだった。悪名高いラペラダ金鉱で、何千人もの泥だらけの男たちが一粒の金を求めて、間に合わせの木の梯子で地底に降りてゆく写真である。

amazonia
伝統的な頭飾りを身につけたパラ州トワリ・イピー村のゾエ族の男たち

2013年には、最高傑作といえる写真集 "Genesis" を出版するこの作品は、8年間かけて地球上のあらゆる場所を訪れ、山、砂漠、海、動物、人々を再発見することで、現代社会の爪痕を逃れ、かつての生活を垣間見ることができるようにしたものだ。1998年、彼とレリアは、ミナス・ジェライス州のドーセ川流域にある人口2万5千人ほどの静かな村、アイモレスにある父親の農場に戻った。この地域の多くの人々と同様、彼の父親も牛を飼っていた。この地域の多くの人々と同様に、150年前にはまだ大西洋岸の緑の部分であったものが、長年の過放牧によって大きく侵食されていたのだ。熱帯雨林の先住民に捧げた "Amazônia"(アマゾン川流域)についてサルガドは「50年後にこの本が失われた世界の記録とならないように、心を込めて、エネルギーを込めて、情熱を込めて、私の願いを込めた。Amazônia は生き続けなければならない」と強調する。セバスチャン・サルガドは2025年5月23日、パリで逝去、81歳だった。

The Guardian Sebastião Salgado's stunning voyage into Amazônia by Jonathan Jones | The Guardian

キャッシュレス決済クレジットカード考

Cashless Order
キャッシュレス決済セルフオーダーパネル(マクドナルド金閣寺店)

ボブ・ディラン&ザ・バンドの公演を観に渡米した1974年、カリフォルニア州ロングビーチの中古楽器店でフィドルを購入した。価格は75ドルだったと記憶している。当時は1ドル300円だったから、22,500円だったとになる。店を出たところで在住の叔母に叱られた。「駄目じゃない、100ドル札を出すなんて」と。誰に見られているか、危険だというのである。決済はクレジットカード、万が一強盗に出くわすことに備え、25ドル紙幣を胸のポケットに入れておくのだという。クレジットカードは不正に引き落とされた経験があったので、使用を控えて帯同していなかった。ところで三井住友カード VISA のウェブサイトによると、フィクションの世界でクレジットカードが初登場したとされているのは、アメリカの小説家・エドワード・ベラミーの『顧みれば』という SF 小説の中、19世紀のことだった。小説の中のクレジットカードは、西暦2000年に未来人が使う、お金を持っていなくても買い物ができる夢のカードとして描かれたという。一方、日本ではというと、残念ながら古典作品にカード状で後払いできるような物品は登場していない。江戸時代の作家・十返舎一九が、弥二さん喜多さんの珍道中で有名な滑稽本『東海道中膝栗毛』の中で「後払い」のシーンを描いており、これが「後払いシステム」を描いた初出のようです。というわけでクレジットカード自体は完全に輸入されたシステムだといえるようだ。信用の概念は、数千年前の古代メソポタミアにまで遡ると言える。当時の粘土板に刻まれた碑文には、メソポタミアと近隣のハラッパー商人との間の取引記録が残っており、何かをその場で購入して後で支払うという合意の最も古い例の一つとして知られている。数千年後、これらの古代の借用書は、やがてストアカードの原型へと取って代わられた。西部開拓時代の商人は、物資を買うお金のない農民や牧場主に商品を貸し出していた。

Numberless ard
最近は番号記載がないナンバーレスカードが人気

商人は借入金の領収書として金属貨幣や小皿を発行した。農民が作物を収穫し、牧場主が家畜を売ると、商人に返済したそうである。時間の経過とともに、全額支払い用のこれらのプレースホルダーは米国で進化し、現在私たちが知っているカードにもっとよく似たバージョンになったのである。1960年代のクレジットカード技術の飛躍的進歩は、決済手段としてのクレジットカード普及のきっかけとなった。IBM のエンジニア、フォレスト・パリーは、カードの裏面に磁気テープを貼り付け、消費者が POS 端末で情報を「スワイプ」できるようにしたと言われている。磁気テープはもともと音声情報の保存に使用されていたが、パリーはクレジットカードにカード所有者情報を記録させる方法を研究していた。伝説によると、アイロンをかけていたパリーの妻が、テープをカードにアイロンで貼り付けることを提案し、これがスワイプストライプの誕生につながったと言われている。クレジットカードの進化は、消費者によるクレジットカードの利用方法と発行会社が提供するサービスの両方の未来を形作り続けている。ユーザーが従来のクレジットカードからモバイルウォレットやウェアラブルデバイスに移行するにつれて、非接触型決済テクノロジーの人気は高まり続けると思われる。人工知能は進化を続け、クレジットカードの申し込みを評価する際に発行会社がリスクを判断する方法において、より大きな役割を果たすようになる。おそらく、信用報告書によって提供される限られたデータポイントから移行し、申請者に関するより総合的な情報を組み込むようになるだろう。下記リンク先は経済雑誌フォーブスの専属記者ロビン・サックス・フランケルの解説記事「クレジットカードの歴史: クレジットカードはいつ発明されたのか?」である。

Forbes  History of Credit Cards: When Were Credit Cards Invented? | Robin Saks Frankel, Forbes

2025年5月21日

風刺雑誌『マッド』で知られ漫画家として最も長いキャリアを持つアル・ジャフィー

Alfred E. Neuman
MAD Magazine's Alfred E. Neuman
Al Jaffee (1921-2023)

アル・ジャフィー(本名アブラハム・ジャフィー)はアメリカの漫画家。風刺雑誌『マッド』の作品で知られ、トレードマークである「マッド・フォールドイン」もその一つである。ジャフィーは同誌に65年間定期的に寄稿し、最長寿寄稿者である。2010年のインタビューでジャフィーは「私と同年代の真面目な人はもう死んでしまった」と語っている。アル・ジャフィーは1921年3月13日、ジョージア州サバンナで、ミルドレッドとモリス・ジャフィー夫妻の4人兄弟の長男として生まれた。両親はリトアニアのザラサイ出身のユダヤ人移民だった。ジャフィーは1930年代後半にニューヨーク市の音楽芸術高等学校で、兄のハリーや将来の『マッド』のメンバーであるウィル・エルダー、ハーヴェイ・カーツマン、ジョン・セヴェリン、アル・フェルドスタインと共に学んだ。モリスの粘り強さが息子たちの命を救った可能性もあるが、その後モリス自身が不安定な行動をとるようになり、息子の高校卒業式に出席できなかったり、軍隊に入隊する際には不可解なことに持ち物や美術作品を全て放棄してしまったりした。こうした絶え間ない不条理と度重なる疎外感の経験が、後に彼の友人や妻から、彼の風刺の鋭さを研ぎ澄まし、人生における権威者が抑圧的で不条理なこともあることを認識させ、特に英語の意味論において、他の人が見逃すニュアンスを素早く見つけられるようにしたと評価されている。ジャフィーは1942年にキャリアを開始し、ジョーカー・コミックスを含む複数の出版物で漫画家として働き、1942年12月に初版が出版された。その後も、タイムリー・コミックスやアトラス・コミックスが発行する他の漫画にも携わった。後にマッド・コミックの漫画家となるデイブ・バーグと共に働きながら、ジャフィーはタイムリー・コミックスで「劣等人間」や「ジギー・ピッグとシリー・シール」など、いくつかのユーモア作品を制作した。

#56 1960
MAD Magazine #56 1960

ジャフィーは当初、自分を純粋にアーティストだと考えていたが、ポートフォリオをレビューしていた編集者やアートディレクターにその考えを改めさせられた。「見込み客が笑いながら『誰がギャグを書いたの?』と聞いてきたので『私が書きました』と答えました。でも、何かが書かれていたとは思っていなかったので、とても混乱しました。だって、ライターはタイプライターを使い、パイプを吸い、スカーフを巻くものですよね?『ああ、あなたもライターなんですね』と十分な数の人が言ってくれたので、私は彼らの言葉を鵜呑みにしました。将来の雇用主と議論する私が何者だったでしょうか?」云々。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍に従軍し、軍の芸術家として様々な職務を担った。彼の作品には、ラスク・リハビリテーション医学研究所の当初のフロアプランも含まれる。この間、彼は軍の無料改名サービスを利用し、最初は誤って「アルビン・ジャフィー」、その後「アル・ジャフィー」と改名した。ペンタゴン 勤務中にルース・アルキストと出会い、1945年に結婚した。1946年、ジャフィーは民間人に戻り、スタン・リーのもとで働いた。1940年代後半の約1年半の間、ジャフィーはタイムリー社のユーモア漫画やティーン向け漫画、特にパッツィー・ウォーカーの作品の編集を担当した1957年から1963年まで、ジャフィーはニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙に細長い「ほら話」のコマを描き、これは100以上の新聞社に配信された。この漫画がそこそこ成功したのは、海外でも売れやすいパントマイムの形式によるものだと考えたが、上司はこの漫画の状態に満足していなかった。

#419 2002
MAD Magazine #419 2002

シンジケートの責任者は、間違いなく馬鹿だったが「売れないのは言葉を入れなければならないからだ」と言った。「それで私に言葉を入れさせたんだ。するとすぐに、海外の新聞社28社から支持を失ったんだ」とジャフィー 。彼の「ほら話」のコマを集めた作品集は2008年に出版された。1960年代後半から1970年代前半にかけて、短命に終わった漫画「デビー・ディア」と「ジェイソン」の脚本も手掛けた。1984年以来、ジャフィーはツィボス・ハシェムの隔月刊児童文学『モシェー・タイムズ』に掲載されている、ユダヤ人をテーマにした明るい冒険小説「ザ・シュピー」にイラストを提供してきた。ジャフィーが初めて『マッド』に登場したのは1955年、同誌が漫画本形式から雑誌形式に移行した翌年だった。編集者のハーヴェイ・カーツマンが3号後に論争で辞めると、ジャフィーもカーツマンと同行した。ジャフィーは『マッド』後の最初の2つの出版活動である『トランプ』と作者所有の『ハムバグ』に貢献したが、どちらも『マッド』ほど成功しなかった。1964年の第86号で、ジャフィーは『マッド』誌で最も長く連載された特集「フォールドイン」を制作した。各特集では、絵を縦に折り込むことで、新たな「隠された」絵(とキャプション)が現れます。当初、ジャフィーはこれを、プレイボーイ、ナショナルジオグラフィック、ライフといった光沢のある雑誌に掲載されていた三重折り込み広告を、単発で「安っぽい」風刺として風刺するつもりだった。しかし、ジャフィーは第二弾の制作を依頼され、すぐにフォールドインは雑誌の裏表紙に定期的に掲載されるようになる。

#485 2008
MAD Magazine #485 2008

2011年、ジャフィーは「私が面白かったのは… 『ジェパディ!』でフォールドインが紹介され、出場者全員が探していた単語、つまり『フォールドイン』を思いついたことです。それで、私は英語の単語を作ったんだと気づきました」と振り返っている。折り込みは『マッド』の代表的な機能の1つとなり、1964年から2020年までほぼすべての号に掲載された。1977年には1号だけ折り込みがなかった。ただし、ジャフィーが裏表紙を担当した)号があり、1980年の号では代わりにジャフィーによるユニークな二重視覚的ギミックが採用され、光にかざすと裏表紙の内側と外側が融合して3つ目の画像が現れるというものだった。1964年の3つ目の折り込みは、標準的な左右の縦型形式ではなく、ユニークな斜めの折りたたみデザインを採用している。その画像では、ビートルズの4人のメンバーがハゲになる様子が描かれていた。ジャフィーは2019年まで 『マッド』の折り込みチラシや記事の追加アートワークを手掛け続けた。彼の最後のオリジナル折り込みチラシは2019年6月号に掲載されたが、これは銃暴力への配慮から2013年6月号に掲載を却下されたものだった。2019年8月以降『マッド』は過去の折り込みチラシを再掲載するか、ジョニー・サンプソンによる新しい折り込みチラシを掲載している。2019年12月、アルのオリジナル作品が同誌に最後に掲載された。『マッド』の最古参の定期寄稿者であるジャフィーの作品は、同誌の創刊550号のうち500号に掲載され、これは他のどの作家やアーティストにも匹敵しない記録である。

#547 2017
MAD Magazine #547 2017

彼は「私は基本的に若者向けの雑誌で働いており、彼らに支えられて続けられていることをとても幸運に思います…古い決まり文句を使うなら、私は年老いた競走馬のようなものです。他の馬が走っているときは、私も走りたいのです」と語っている。ジャフィーは2020年6月に引退を発表した。これを記念し、『マッド』誌は同月に追悼号を刊行した。1973年の全米漫画家協会広告・イラスト賞、1971年と1975年に同協会特集賞、1979年に同協会ユーモア漫画賞を受賞した。2008年にはルーベン賞の年間最優秀漫画家賞を受賞。2013年10月、コロンビア大学はジャフィーが自身のアーカイブの大部分を大学に寄贈したと発表した。2016年3月30日、ギネス世界記録はジャフィーの「73年3ヶ月」という「漫画家として最も長いキャリア」を公式に認定した。ギネスは、ジャフィーが1942年12月号のジョーカー・コミックスに寄稿したことから始まり、2016年4月号の『マッド』まで継続して活動していたことを指摘した。ジャフィーの30年以上の友人であるメアリー・ルー・ワイズマンは、プロビンスタウン・アーツ誌に彼のプロフィールを寄稿し、後にそれを拡張した伝記『アラン・ジャフィーの狂気の人生』を出版した。ジャフィーは1945年にルース・アルキストと結婚し、リチャードとデビーという二人の子供をもうけた。1967年に離婚した。1977年、未亡人のジョイス・レベンソンと再婚した。二人はマンハッタンに住み、夏はマサチューセッツ州プロビンスタウン、冬はメキシコのプエルト・バジャルタで過ごした。アラン・ジャフィーは2023年4月10日、マンハッタンの病院で臓器不全のため死去した。102歳だった。

PBS  Al Jaffee, longtime Mad magazine cartoonist, dies at 102 | Hillel Italie, Associated Press

2025年5月19日

トランプ大統領の関税は既にその主な目的を達成できていない

China-US
アメリカの対中国貿易赤字は改善されるだろうか

アメリカと中国が貿易戦争で一種の一時休戦に達して「90日間の一時停止」で関税を大幅に削減したことに市場は歓喜した。トランプ大統領にとって、これは譲歩だった。彼は「解放記念日」を皮切りに、報復合戦を繰り返しながら関税を145%まで引き上げ、中国との貿易戦争を著しくエスカレートさせていた。今回、休会期間中にトランプ大統領は関税率を30%に引き下げ、中国は報復措置を撤回し、10%の関税率を維持する。実質的には、両国とも関税を解放記念日以前の水準に戻し、新たに10%の関税を課すことになる。これが米中貿易戦争の恒久的な終結につながるのか、それともトランプ大統領が最終的に飽きて再び関税引き上げに踏み切るのかは、まだ分からない。協議は継続されるだろうが、トランプ大統領は中国がアメリカ企業に対して「開放」することに同意したと主張したが、その詳細は月曜日の合意にはどこにも記載されていなかった。明らかなのは、この撤回によって、トランプ大統領がここで一体何をしようとしているのかという矛盾と不整合がさらに強まるだけだということだ。問題は基本的にこれだ。トランプ関税が大きすぎると、経済にダメージを与え、市場の混乱を引き起こす。しかし、小さすぎると、トランプ陣営が望むような、世界貿易秩序の大幅な均衡回復(アメリカにおける製造業の大幅な増加、中国への依存度の軽減)を実現するには不十分だ。トランプ陣営はいわゆる「ゴルディロックス」的な関税水準、つまり熱すぎず冷たすぎず、ちょうど良い水準を模索しているようだ。しかし、それは実現不可能だろう。既存の世界貿易秩序は極めて強固に構築されており、深刻な経済的痛みを伴わずにこれを覆す方法はない。控えめな関税では、関税推進派が期待するような劇的な秩序転換は実現しないだろう。関税は物価を上昇させるだけだ。関税はひどい。アメリカの同盟国やカナダのような友好国に対する関税引き上げに執着するトランプ大統領の姿勢は、超党派から多くの批判を浴びている。しかし政策立案当局は、米中貿易関係の見直しが必要だという考えにずっと同情的だ。多くの民主党員と共和党員は、両国が深刻な紛争に陥った場合、アメリカが重要な商品、材料、サプライチェーンを中国に依存していることが壊滅的な結果をもたらすと考えている。

Your New Car Is Way More Expensive
関税で新しい自動車の価格は上昇する

また、中国が経済的にアメリカを凌駕しているという見方も広まっている。より安価な中国製造業の台頭がアメリカ国内の製造業を破壊し、雇用を圧迫し、アメリカ人がアメリカで製造業を営む能力を著しく低下させているというのである。一部の安全保障・貿易タカ派は、アメリカと中国の「デカップリング」、つまり両国の経済の分離を主張するまでに至っている。抽象的に言うのは簡単だが、実際に実行するとなるとはるかに困難で苦痛である。中国はアメリカにとって第3位の貿易相手国である。多くのアメリカ企業が中国で製造を行っており、さらに多くの企業が中国製の部品に深く依存している。非常に深刻な混乱を招かずに、複雑なグローバルサプライチェーンを再編することは不可能である。巨額の関税は、輸入品だけでなく、輸入部品を使用しているアメリカ製品でさえも価格が上昇することを意味するのである。しばらくの間、トランプ大統領とその顧問たちは、リスクは理解しているものの、短期的な痛みは長期的な利益につながるため、とにかくやる価値はあると主張していた。こうした長期的な利益が実際に実現するかどうかを疑う理由は数多くある。しかし今、トランプは方針を転換し、短期的な痛みはあまりにも大きいと考えているようだ。世界貿易秩序の再編という壮大な野望は、今のところ縮小されたようだ。そしてトランプ大統領は今、勝利と呼べる何らかの合意を模索しているだけだ。総じて言えばこの変化はおそらく良いことであり、少なくとも他の選択肢よりはましだろう。関税のみで世界貿易秩序を再構築するという考えは、常に非常識であり、恐ろしい結果をもたらす可能性が高い。しかしこの関税水準の引き下げでは、アメリカの製造業の復興や中国への依存度の削減はもはや不可能だ。言い換えれば、これらの関税は映画「アニー・ホール」のレストランの料理に関するジョーク「食べ物はひどいし、量も少ない!」のようなものである。下記リンク先は英国放送協会のジェニファー・クラーク記者によるわかりやすい解説「トランプ大統領が発表した関税とその理由 」である。

BBC News  What tariffs has Pres. Donald Trump announced and why? by Jennifer Clarke | BBC News

2025年5月17日

ヘンリー・デイヴィッド・ソローの森の生活とターシャ・テューダーの田舎暮らし

Restored hut on Walden Pond
Re-creation of Henry David Thoreau’s Walden Pond cabin, Concord, Massachusetts
ヘンリー・デイヴィッド・ソローのウォールデン池の小屋を再現(マサチューセッツ州コンコード)
真崎義博訳(宝島社)

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)の『ウォールデン;森の生活』を初めて手にしたのは、神吉三郎訳の岩波文庫版で、1970年代末に遡る。これは絶版となり現在は飯田実訳が出ている。同じころギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』やW・H・ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』(いずれも岩波文庫)など、自然史に関する本を読み漁ったことを憶えている。1979年に出版された稲本正著『緑の生活』(角川書店)に写真を寄稿したが、そのときこの書籍に関連づけて言われていたのが 『ウォールデン;森の生活』 だった。ずいぶん昔、その飛騨高山オークヴィレッジを再訪したが、斜面に小さな丸太小屋があった。ソローが建てて住んだ小屋を模したものだという。一種のバーチャル空間とはいえ、こんな所に住んだのかと驚いたものである。ソローの "Walden; or, Life in the Woods" は、1854年、すなわち安政元年に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン池畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。世間と交際を絶つ隠遁生活を目指したのだが、実際には完全な世捨て人になったのではなかったようだ。

Corgiville Fair by Tasha Tudor

それはともかく、今日の環境保全運動の礎を築いた書となったことは、万人が認めるところである。上掲、真崎義博訳のキャプションは2005年刊となっているが、新装版のことで、掲載写真は1981年に刊行され、その後絶版になった本の表紙をコピーしたものである。あとがきによると、訳者は1970年代、ボブ・ディランに心酔し「ボロ・ディラン」のニックネームで知られたシンガー&ソングライターだった。オークヴィレッジと同様、ある時代の雰囲気をそこに感ぜざるを得ない。翻訳にあたって、神吉三郎訳の岩波文庫を参考にしたという。ターシャ・テューダー(1915-2008)について強い興味を抱き始めたきっかけは、NHKが衛星放送で2005年に放映した「喜びは創りだすものターシャ・テューダー四季の庭」だった。絵本作家そして造園家の彼女について、多少の知識はあったものの、その思想のルーツを最初に知ったのはこの放送を通してだった。絵本作家として成功したテューダーは57歳にして、カナダ国境のバーモント州南部の小さな町はずれマールボロに広大な敷地を手に入れた。そこに古風な家を建てて移り住み、19世紀風の田舎暮らしを始める。

I have learned, that if one advances confidently in the direction of his dreams, and endeavors to live the life he has imagined, he will meet with a success unexpected in common hours.
自分の夢に向かって確信を持って歩み、 自分が思い描く人生を送ろうと努めるならば、 きっと思いがけない成功にめぐり合うだろう。
Private World of Tasha Tudor

ソローの『ウォールデン;森の生活』の最後の章に現れる上記の一節は、彼女のいわば座右の銘であり、これは放送の中でも語られていた。夢を持ち、それを追う生活をすれば、思いがけ ない成功にめぐり会えるという。まさにこの言葉通り夢を求め、それを獲得した人生を彼女は送ったと言えるだろう。ところでソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃する。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る豪農の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)という名前で、ターシャの曽祖父にあたる人物であった。ふたりはこのように氷面下、いや水面下の糸で結ばれていたのである。彼女が俗界から逃れたのは、ソローの強い影響によるものと想像できる。造園については、多くの日本人がよく知っているようだ。ブログ等に余りにも記述が多いので饒舌を控えたい。単に草花が美しいという以上のもの、つまり哲学が、彼女の造園に隠されていると強調することに留めておこう。紹介した図書はいずれも原書英語版だが、特に語学を必要としない幼児用絵本や写真集であるし、英文のほうがフォントが美しいという、私の勝手な好みによるものだ。"Private World of Tasha Tudor" はテューダーの農場生活を、写真家のリチャード・ブラウンが1年間追った記録で、彼女自身の言葉と、100点以上の美しい写真が掲載されている。絵本は『コーギビルの村まつり』、写真集は『ターシャ・テューダーの世界:ニューイングランドの四季』という表題で邦訳出版された。下記リンク先はアメリカ合衆国国立公園局による「ウォールデン池州立保護区内のウォールデン池」の解説(英文)である。

National ParkWalden Pond in the Walden Pond State Reservation, Massachusetts | Nationa Park Service

2025年5月15日

イサク・ディネセン『アフリカの日々』への追想

カレン・ブリクセンと農園の使用人たち
イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)と農園の使用人たち(1920年ごろ)
河出文庫(2018年)

アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)パリ時代の回想録『移動祝祭日』(高見浩訳・新潮文庫)に、デンマークのイサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』(Out of Africa) に関する興味深いくだりがある。曰く「彼(ブロア・ブリクセン)の最初の細君は、とても素晴らしい文章を書く人だった」「彼女がアフリカについて書いた本は、私が読んだなかでも最上のものだったな」云々。横山貞子訳が晶文社から出版されたのは1981年で、リアルタイムで読んで感動した記憶がある。今年の8月、河出書房新社が文庫本化したが、再び今、ディネセンが脚光を浴びつつあるのだろうか。ディネセンのファーストネームはイサクと男の名前 [*] だが、実は女性である。本名はカレン・ブリクセンで、1885年にデンマークのコペンハーゲンの裕福な商人の家に生まれた。27歳のとき、父の恋人アグネスの息子、スウェーデンの貴族プロア・プリクセン男爵と婚約する。プロアはいわば没落貴族で、ディネセン家の資力でケニアのナイロビ郊外、ンゴング丘陵の麓の土地を買い入れた。ここでケニアでも指折りの大農園の生活を始めたわけだが、男爵夫人になった代償として、女遊びに耽溺していた夫から梅毒をうつされる。結局離婚が成立して夫は去ったが、この地にとどまる。コーヒー農園主としての18年間を綴った『アフリカの日々』は病気のことも、離婚のことも一切触れていない。アフリカの人々、アフリカの大地への愛情が、通奏低音として一貫して流れている。農園を去るとき「私たち白人はここの人びとから土地を奪った。奪ったのは彼らの父祖の土地にとどまらない。さらに多くのもの、すなわちここの人びとの過去、伝統の源、心の寄りどころを奪ったのだ」と述懐している。今、私はハードカバーの晶文社版を横に置きながら、カレンの写真をこのブログエントリーに添えるか迷っている。

デニス・フィンチ=ハットン(1887-1931)

というのは著者はこの本に写真を入れることを拒み続けたからである。訳者あとがきにあるように、文化人類学の本でもなければ、ルポルタージュでもない。人生は変容してゆく。カレンのアフリカの日々もまた時間の流れが脈打ち、時間を固定する写真はそれらを捉え得ることは不可能である。著者にとって大事なのは、ある瞬間にしか見えなかったことであり、皮相的な写真を否定したのだろう。しかし原著については手に取ったことがないが、無論、写真はないだろう思う。しかしこの邦訳版の口絵には著者の意思に反して、5葉の写真が使われている。執筆当時の著者のポートレート、農園のたたずまい、キクユ族の娘の油絵、農園を根城にしたサファリ案内人でカレンの恋人だったデニス・フィンチ=ハットン(1887-1931)の墓などである。このうち、少なくとも彼女自身のポートレ-トは、長い間公表されなかったのではと想像する。謎の作家としてセンセーションを巻き起こした作家だったからである。しかし結局ここに写真を掲載することにした。1954年にノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイは、インタビューの際に「この賞があの美しい作家イサク・ディネセンに与えられていたら、私はもっと幸せだっただろう」と語ったそうである。その美しさの片鱗を見せたいという誘惑に負けてしまったのである。蛇足ながら [*] 男の名前の使用は覆面作家的意味合いがあったと思われるが、例えば「マダムそれは無茶です!」といった記述を読めば、女性であることが分かる。にも関わらず何故このペンネームを使ったのか不思議である。なお『アフリカの日々』は映画化され、1985年に公開された。監督はシドニー・ポラック、主演はメリル・ストリープ、ロバート・レッドフォードで、第58回アカデミー賞、第43回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞。下記リンク先の YouTube で二人が乗った複葉機ジプシー・モスの美しい飛行シーンを鑑賞できる。

YouTube  Out of Africa | Robert Redford and Meryl Streep Soar Over Kenya | Universal Pictures

2025年5月13日

ソーシャルメディアの弊害(22)プラットフォーム Facebook 百年の孤独

AddictiveSocialMedia
危険性を孕むソーシャルメディア

ソーシャルメディア Facebook の友達が2,000人に達した。アカウントを取得したのが2010年だから、おおむね15年の月日が流れたことになるが、まるで百年のごとき長さである。ごく初期には私のほうから友達申請をした記憶があるが、いつの間にかやめてしまった。最近は毎日のように申請が届くようになったが、その大半は海外からである。だから結果的に友達は日本人より外国人が多いということになる。申請があると、一応プロフィールを見るが、何も書いてないと無視することが多い。プロフィールを見ると妙齢の女性らしいのだが、なぜ自分にと思ってしまう。気まぐれに承諾すると、判で押したように Facebook の Messenger に伝言が届く。そこでこれを無視して削除すると、いつの間にか友達リストから消え去る。何らかの魂胆があっての申請、ロマンス詐欺じゃないかと疑うことがしばしばある。著名人の名を騙った詐欺広告が横行していながら、有効な対抗策を打ってないのも気になる。ところでソーシャルメディアとしての Facebook だが、長期にわたって付き合ってきたにも関わらず、有効な利用をしていないような気がする。ブログを更新するとそのお知らせをポストするようにしているが、閲覧数に反映するか、いささか不明である。あとは知らぜらる世間一般にはレジェンドを含め、内外の写真家の素晴らしい作品を時折紹介している。しかし自分の作品は滅多に投稿することはない。

Facebook on Cracked Wall
ひび割れた壁

X(旧Twitter)では時事問題、とりわけ政治談議が盛んに行われているようだが、Facebook にはその兆しがやや希薄である。もしかしたらグループを立ち上げて論議しているかもしれない。政治談議はさておき、私は Facebook のアカウントを剥奪されそうになったことがある。ヌード写真をポストしたところ、即削除されて警告、しばらくアクセス不能になった記憶がある。利用規約の「乳首が見える女性の乳房の画像も制限されますが、医療目的や健康上の目的でシェアされる画像は除きます。授乳をしている女性や乳房切除術後の瘢痕を表す写真も許可されます。また、ヌードを描写する絵画や彫刻などの芸術作品の写真も許可されます」という一項に牴触したためらしい。じゃあ、性毛やペニスが写った写真はどうなんだろう。今更幼稚な「芸術か猥褻か」という幼稚な議論は虚しい。それこそ百年の孤独に苛まされれてしまう。ファクトチェックを停止したマーク・ザッカーバークの方針も理解に苦しむ。彼を含めアマゾンなど GAFA の CEO(最高経営責任者)たちがトランプ大統領に媚びているのも情けない。いささか Facebook に対してトーンダウンした感想に終始しそうだが、旧友に再会できたり、実生活を凌駕するメリットも否めない。しかし孤独感が漂ってしまうのである。昨年11月に参加、フォロワーが600人を超えた分散型ソーシャルプラットフォーム Bluesky の影響もある。Xから離脱したと思われるリベラルな参加者が多く、反トランプの旋風が極めて心地よい。下記リンク先はカリフォルニア大学ロサンゼルス校の学生イザベラ・モレッティがニューヨーク・タイムス紙に寄稿した「ソーシャルメディアは中毒性があるか? 科学はこう語る」である。

New YorkTimes  Is Social Media Addictive? Here’s What the Science Says by Isabela Moretti | The Times

2025年5月11日

ナチスのプロパガンダに利用されたレニ・リーフェンシュタール

Olympia
Die Fackel wird entzündet, Olympische Spiele, Berlin, 1936
Leni Riefenstahl (1935)

レニ・リーフェンシュタールは1902年8月22日、ベルリンに生まれた。長く非凡なキャリアを、表現型ダンサーとしてスタートさせたが、膝の怪我で一時的に活動を休止した後、映画、特に自然映画という媒体の可能性に魅了される。彼女はドイツ人監督アーノルド・ファンクの無声映画の幾つかで主演を務めた。若きリーフェンシュタールは、運動能力に優れ、大胆不敵なヒロインを演じた。無声映画時代のドイツで女優として人気を博したリーフェンシュタールは、1932年に初の長編映画 Das blaue Licht(青い光)を監督した。この映画は好評を博し、さらに重要なことに、芸術家としての野心を誇りにしていた政治家、アドルフ・ヒトラーの注目を集めた。同年、公開集会でヒトラーの演説を聞き、その雄弁なスタイルと聴衆を魅了する力に魅了される。ヒトラーはリーフェンシュタールを、ワーグナー的な力と美のモチーフを吹き込んだ強いドイツのイメージを美学を用いて作り出せる監督だと考えていた。1933年、ヒトラーはその年のニュルンベルクで開催されたナチ党大会を撮影した短編映画 Der Sieg des Glaubens(信仰の勝利)の監督を依頼した。この映画は、翌1934年のニュルンベルク集会で撮影された彼女のより有名な作品 Triumph des Willens(意志の勝利)のテンプレートとなった。リーフェンシュタールは当初、この映画の依頼を断ったが、無制限の資金と映画に対する完全な芸術的自由を与えられて承諾した。

Riefenstahl withHitler
Leni Riefenstahl mit Adolf Hitler auf der Kundgebung in Nürnberg, 1934

Triumph des Willens はその刺激的な映像と革新的な映画技術により、記録映画の大作として位置づけられ、史上最も優れたプロパガンダ映画の一つとして広く認められている。この映画は数々の賞を受賞したが、映画の主題である国家社会主義と、その芸術家であるリーフェンシュタールとの結びつきは永遠に残った。リーフェンシュタール監督の Olympia(オリンピア)も同様に驚異的で、1936年ベルリン夏季オリンピックの映像を鮮烈な印象で捉えている。リーフェンシュタールはレールにカメラを設置して撮影する(今日ではトラッキングショットとして知られる)など、数々の映画技法を開拓した。Olympia は、美学、スポーツ、そしてプロパガンダを力強く融合させ、ヴェネツィア国際映画祭最優秀外国語映画賞や、スポーツの喜びを描いた作品として IOC(国際オリンピック委員会)特別賞など、数々の賞を獲得した。リーフェンシュタール自身の言葉によれば、第二次世界大戦の勃発とナチス政権下での暴力の急激なエスカレーションは、リーフェンシュタール自身と彼女のキャリアの両方に悪影響を及ぼした。ポーランド戦役の初期、ある事件が、彼女が映画の中で美化してきた運動に対するリーフェンシュタールの自信を揺るがしたように思われた。

Das blaue Licht
Das blaue Licht, Cortina d’Ampezzo, 1932

ポーランドのコンスキエ近郊でドイツ軍に随行していたリーフェンシュタールは、ドイツ軍へのパルチザン攻撃への報復として射殺された市民の処刑を目撃した。リーフェンシュタールはその日、撮影を中断してヒトラーに直接、このような恣意的な暴力に反対するよう訴えたという。この事件はリーフェンシュタールの心に疑念の種を植え付けたかもしれないが、数週間後にヒトラーのワルシャワ凱旋パレードの撮影を阻むことはなかったのである。戦後、リーフェンシュタールはナチス政権の犯罪的性質から自分を切>離そうとし、自分の義務は映画を制作依頼したナチス当局ではなく、自分の職業にあると示唆した。後に彼女自身や他の人々によって主張されるように、リーフェンシュタールはさらなるプロパガンダ活動を避けるための努力の一環として、1940年に Tiefland(ティーフランド)の撮影を開始した。スペインのピレネー山脈を舞台にした物語 Tiefland は、意志の強いヒトラーに説得されて Triumph des Willens に着手した際に棚上げされていた企画だった。

>Der Triumph des Willens
Der Triumph des Willens, Nürnberg, 1936

オーストリアのキッツビュール近郊でロケが行われ、撮影は4年近くにわたって延々と続いた。物語のジプシー風味を高めるため、リーフェンシュタールの側近は約51人のロマの若者を「借り受ける」手配をした。リーフェンシュタールは、近くのマックスグラン・レオポルドスクロン労働収容所の囚人をエキストラとして起用した。1942年にベルリン・バーベルスベルクで撮影された屋内シーンでは、ベルリン・マルツァーンのジプシー収容所から少なくとも66人のロマとシンティ人の囚人(ほぼ全員が男性)をエキストラとして起用した。ドイツ刑事警察がロマを「義務」を果たした後にマックスグランとマルツァーンジプシー収容所(ツィゴイナーラーガー)に送り返し、後にアウシュビッツに移送して死に至らしめたという疑惑は、リーフェンシュタールが民事訴訟を起こすほど深刻なものだった。この訴訟は、リーフェンシュタールがエキストラ全員が戦争を生き延びたと主張する公式声明を彼女の制作会社が撤回した後、2002年にようやく取り下げられた。Tiefland は、チロルを占領していたフランス当局が1946年1月にリーフェンシュタールを逮捕し、彼女の映画資料を押収してから8年後の1954年に公開された。

Nuba
Der Liebestanz, Nuba-Bergen im Süden des Sudan leben, 1962-1977

戦後、リーフェンシュタールは4度の非ナチス化手続きの対象となり、最終的に Mitläufer(ナチス支持者)と認定された。ナチ党員ではなかったものの、リーフェンシュタールはナチス初期に制作したプロパガンダ映画との結びつきから抜け出すのが難しく、ドイツ映画界での地位を取り戻すのに苦労した。彼女の経験は、同僚のファイト・ハルランとは全く異なっていた。ハルランは Jüd Süss(ユト・ズス)や Kolberg(コルベルク)といったナチスのプロパガンダ映画を監督したが、1950年代に華々しい監督業に復帰した。リーフェンシュタールはスチール写真に転向し、1970年代にはスーダン南部の少数民族ヌバ族に関する図解入りの本を出版した。70代後半には、水中撮影に新たな関心を寄せた。レニ・リーフェンシュタールは長いキャリアを通して映画に新たな美学をもたらし、画期的な映画技法を導入したが、ナチスのプロパガンダ活動家という過去のイメージから逃れることはできず、生涯を通じて物議を醸す人物であり続けた。レニ・リーフェンシュタールは101歳の誕生日から数週間後の2003年9月8日、ドイツのポッキングで癌のため亡くなった。下記リンク先はドイツの政治財団コンラート・アデナウアーのハイケ・B・ゲルテメーカー博士による解説「レニ・リーフェンシュタールは国家社会主義の最も重要な宣伝者の一人だった(ドイツ語)」です。

fondation Leni Riefenstahl gehörte zu den wichtigsten Propagandisten des Nationalsozialismus | KAS