2025年3月25日

ホロコースト前の東欧のユダヤ人社会を記録した写真家ローマン・ヴィスニアック

Ekder
An elder of the village, Vysni Apsa, Czechoslovakia, 1938
Roman Visniak

ローマン・ヴィスニアックはロシア生まれのアメリカ人写真家、生物学者であり、顕微鏡写真の分野の先駆者だった。彼は1930年代の中央および東ヨーロッパのユダヤ人の生活を撮影した写真で最もよく知られている。写真家としての彼の仕事は1920年代初頭から1970年代までの60年間に及び、ワイマール時代のベルリン、ドイツにおけるナチスの台頭、1940年代と50年代のアメリカのユダヤ人の生活、1947年のヨーロッパの難民キャンプ、ベルリンの戦後の廃墟の写真が含まれている。彼はまた、生前、顕微鏡写真と低速度撮影映画の分野への重要な科学的貢献でよく知られていた。生涯を通じて生物学、動物学、美術史、ユダヤ人の歴史の分野に興味を持っていた。彼が初めてイスラエルを訪れたのは1960年代である。都市、町、シェトルにおけるユダヤ人の生活、有名人のポートレート、顕微鏡生物学の画像などを撮影した写真で国際的な評価を得た。ヴィスニアックは1897年8月19日、サンクトペテルブルク近郊のパブロスクで生まれ、モスクワで育った。モスクワ市内に住むことを許されたユダヤ人はほとんどいなかったが、父ソロモンは裕福な傘製造業者であり、母マーニャは裕福なダイヤモンド商の娘であったため、家族は市内に居住し働く許可を得た。ヴィスニアックの生物学と写真に対する興味は幼い頃から始まった。7歳の誕生日に祖母からカメラと顕微鏡をプレゼントされたとき、顕微鏡にカメラを取り付け、ゴキブリの脚の筋肉を3倍に拡大した。これが彼にとって最初の写真と顕微鏡写真の最初の実験となった。

Children seeking light and air outside
Children seeking light and air outside their basement home, Warsaw, ca. 1935-38

彼はこの顕微鏡を頻繁に使用し、昆虫の死骸から動物の鱗、花粉や原生動物まで、見つけたものは何でも観察し、写真を撮った。1914年から6年間、モスクワのシャニャフスキー研究所で動物学と生物学を学んだ。そこで彼は高名な生物学者ニコライ・コルツォフ(1872-1940)とともに、水生サンショウウオの一種であるアホロートルの変態誘発の実験を行った。1918年、第三次ロシア革命が引き金となって反ユダヤ主義が高まり、ヴィスニアックの家族はベルリンに移住した。その後すぐに、ラトビア系ユダヤ人のルタ・バグと結婚した。 2人の間にはマラとウルフという子供が生まれた。アマチュア写真家として優れた才能を発揮し、科学的研究を進め、ユダヤ人カメラクラブのトゥムナを含む動物学、科学、写真のクラブや団体の会員となった。ドイツでユダヤ人迫害が激化していた頃、ヴィスニアックは東ヨーロッパに赴き、都市部や町、小さなコミュニティに住むユダヤ人の生活を撮影し、高く評価された写真を撮影した。その中には、辺鄙な山村に住むユダヤ人も含まれていた。東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティの貧困緩和を支援するための資金調達活動の一環として、ユダヤ人共同配給委員会から委託され、ヴィスニアックはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア、ハンガリー、リトアニアを巡り、ユダヤ人の生活を撮影した。

Jewish youth transporting hay
Jewish youth transporting hay, Wieringermeer, Netherlands, ca. 1938

1938年後半、ユダヤ人共同配給委員会の依頼で、ドイツ国境に近いポーランドのズボンシン収容所を撮影した。ドイツに住んでいたポーランド系ユダヤ人が移送された場所である。ヴィスニアックは東ヨーロッパで何千枚もの写真を撮影し、友人のウォルター・ビーラー(1884–1963)によってキューバ経由でアメリカに密かに運ばれた。これらの写真は後にニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ、ユダヤ博物館、国際写真センター、その他いくつかの施設で個展として展示された。1940年にパリを訪れたヴィスニアックは「無国籍者」であるとしてペタン警察に逮捕され、フランスの強制移送収容所であるキャンプ・デュ・リュシャールに収容された。彼は妻が釈放を確保するまで1か月間そこに拘置された。ヴィスニアックと家族は1940年大晦日にニューヨークに到着した。彼はドイツ語、ロシア語、フランス語を話したが、英語は話せなかった。マンハッタンのアッパーウエストサイドのアパートにポートレートスタジオを設立し、フリーランスの写真家として働きながら、アメリカで写真家としての地位を確立しようと奮闘した。彼ががアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)の有名なポートレートを撮影したのはこの時期だった。 1942年、東欧のユダヤ人に関する作品がニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチで展示された。

Morning assembly
Morning assembly to immigrate to Palestine, Brandenburg, ca. 1938

1944年と1945年、YIVOユダヤ調査研究所で彼の作品の大規模な展示会を開催される。ヴィスニアックは東欧のユダヤ人の窮状に対する認識を高めることを望み、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882-1945)に手紙を書いて自分の写真を同封し、当時のファーストレディであったエレノア・ルーズベルト(1884-1962)にも彼の展示会に来場するよう要請した。戦争が続く間、彼の作品はコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジでも展示され、ユダヤ人や国内の報道機関で広く取り上げられた。1946年、ヴィスニアックはアメリカ市民権を得たがルタは離婚した。1947年、ヴィスニアックはドイツ、フランス、オーストリア、チェコスロバキアのユダヤ人難民と避難民キャンプを記録する任務でヨーロッパに戻った。そしてかつての故郷だったるベルリンを訪れ街の廃墟を記録した。滞在中、彼は戦前の仲間であるエディス・エルンスト(1897-1990)と再会した。二人は結婚し、その後ニューヨークに戻り、アッパー・ウエスト・サイドに落ち着いた。1947年、ヴィスニアックの写真はラファイル・アブラモヴィッチ(1880-1963)の『消えた世界』に掲載された。これはホロコースト前の東欧のユダヤ人の生活を写真で記録した最初の大規模なものの一つである。10年後、アルバート・アインシュタイン医科大学の研究員に任命され、1961年に生物教育の教授になった。

Student Nurses
First-year student nurses, including several Holocaust survivors, NYC, ca. 1949

後にプラット・インスティテュートの「シェブロン創造性教授」となり、東洋美術や貨幣学から生態学、動物学、ユダヤ史まで幅広いテーマで講義を行った。ヴィスニアックは、国立科学財団がスポンサーとなった「生きた生物学」シリーズのプロジェクト・ディレクター兼映画製作者で、細胞生物学、器官とシステム、発生学、進化、遺伝学、生態学、植物学、動物界、微生物界に焦点を当てた7本の映画で構成されていた。彼は低速度撮影法と光遮断写真法、生体のカラー顕微鏡写真の先駆者であった。主な研究分野は、海洋微生物学、繊毛虫の生理学、単細胞植物の循環システムであった。最初の生物は多細胞構造であり、さまざまな生化学的経路によってさまざまな時期と場所で出現したという仮説を立てた。1971年、タンパク質、ビタミン、ホルモンのヴィスニアックのカラー顕微鏡写真を収録した『生命のブロックの構築』が出版された。1956年にアメリカ雑誌写真家協会の記念賞を受賞し、1984年には代表作『消えた世界』で視覚芸術カタログのナショナル・ユダヤ人図書賞を受賞した。彼の写真「青春の唯一の花」は1952年の国際写真展で「最も印象的」と評価され、ニューヨーク・コロシアムから写真芸術大賞を受賞した。ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン、コロンビア大学芸術学部、カリフォルニア大学芸術学部から名誉博士号も授与された。1990年1月22日、結腸癌で死去、92歳だった。

ICP  Roman Vishniac (1897-1990) American (born in Russia) | Biography | Archived Items

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