J・D・ヴァンス |
ドナルド・トランプ前大統領が副大統領候補に指名した共和党の J・D・ヴァンス上院議員の言動が物議を醸している。民主党のカマラ・ハリス副大統領などを名指しで「惨めな人生を送る子供のいない猫好きの女性たち」と発言をしていたことに改めて注目が集まり、強い批判が広がっている。これは流石にマズイと思ったのだろう、トランプはヴァンスについて「非常に独特の家庭環境で育ち、家族は良いものだと感じている。そして、それを言うことは悪いことではないと思う」と筋違いの擁護をしている。ヴァンスとはいかなる人物なのか、そのルーツともいえる著書『ヒルビリー・エレジー(田舎者の哀歌)』を読んでみた。ヴァンス自身の生い立ちを綴った自伝小説であり、アメリカ中西部の特定の地域社会に焦点を当てている。まず「ヒルビリー」という言葉だがアパラチア山脈やオザーク山脈など、主に南部の丘陵地帯に住む人々を指す言葉として生まれた。これらの地域は、経済的に発展が遅れ、伝統的な生活様式を維持している地域が多く、都会の人々からは「田舎者」と見られることもあった。しかし現代では軽蔑的な意味合いは薄れ、むしろカントリー音楽やその文化を愛する人々を指す言葉として使われることも多くなった。ヒルビリー音楽である。ヒルビリー音楽はアパラチア山脈に移り住んだ人々の生活の中で生まれ、長い年月をかけて発展してきた。20世紀初頭にはレコードの普及とともに広く知られるようになり、カントリー音楽の礎を築いた。素朴で情感豊かなメロディーと、バンジョー、フィドル、ギターなどの楽器の伴奏による、その素朴で力強い音楽は、多くの人々に愛されている。この地域社会の地理的背景は、物語の核となる貧困、家族の崩壊、そしてアメリカンドリームからの乖離を理解する上で非常に重要である。物語の舞台となるのはアパラチア山脈周辺地域と、かつて栄華を誇った工業地帯である「ラストベルト」(錆びついた地帯)と呼ばれる地域である。アパラチアはアメリカ東部を南北に走る山脈で、ヴァンスの祖父母が移住してきた地域である。長らく経済的に恵まれず、貧困が根強く残る地域として知られていた。ラストベルトは一時期、アメリカ製造業の中心地として栄えた五大湖周辺の地域だが、海外への生産拠点の移転などにより衰退が進み、失業率が高まるなど社会問題を抱える地域となってしまった。ヴァンスの家族は、アパラチア山脈のケンタッキー州ジャクソンからラストベルトのオハイオ州ミドルタウンのへと移住した。
光文社 (2022/4/12) |
この地理的移動は、家族の置かれた状況の悪化を象徴的に表しており、物語の重要な転換点となっている。名門イェール大学ロースクールに通う主人公が、家族の問題で故郷のアパラチアに戻ることから始まる。そこで彼は薬物依存症に苦しむ母親や、かつての自分自身と向き合わざるを得なくなる。幼い頃の辛い記憶、そして祖母との温かい思い出を振り返りながら、主人公は自身のルーツと家族の絆について深く考えさせられる。この作品が注目される理由は、アメリカ社会における経済格差や地域間の不平等という問題を浮き彫りにしたことである。特にアパラチア地方のような経済的に恵まれない地域で暮らす人々の生活が、いかに困難であるかを描き出し、大きな議論を呼び起こしたことである。薬物依存症に苦しむ母親と、そんな母親を支える祖母の姿は、家族の愛と絆の深さを感動的に描き出している。この自己発見の過程は、読者自身も自分の人生を見つめ直すきっかけとなるだろう。この作品は、単なる家族の物語にとどまらず、アメリカ社会の複雑な側面を描き出した傑作に違いない。ニューヨーク生まれの富豪で、貧困や労働者階級と接点がないドナルド・トランプが、大統領選で庶民の心を掴んだのを不思議に思う人もいる。だが彼はプロの市場調査より自分の直感を信じるマーケティングの天才だ。長年にわたるテレビ出演や美人コンテスト運営で、大衆心理のデータを蓄積し、選挙前から活発にやってきた旧ツイッターや予備選のラリーの反応から「繁栄に取り残された白人労働者の不満と怒り」そして「政治家への不信感」の大きさを嗅ぎつけたのだ。トランプを冗談候補としてあざ笑っていた政治のプロたちは、彼が予備選に勝ちそうになってようやく慌てた。都市部のインテリとしか付き合いがない彼らには、地方の白人労働者の怒りや不信感が見えていなかったからだ。そんな彼らが読み始めたのが『ヒルビリー・エレジー』だったがトランプは巧みに利用した。しかし当初は反トランプであったヴァンスがなぜそのトランプに媚び、擦り寄るようになったのか。優れた文学作品を残したが、政治家としては極めて危険である。その大きな乖離の幅に理解しがたいものがある。
ヒルビリー・エレジー~アメリカの繁栄から取り残された白人たち~ (光文社未来ライブラリー)
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