2024年8月8日

ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ

Robert F. Kennedy funeral train
People watch out for the Robert F. Kennedy Funeral Train, June 8, 1968
Paul Fusco

ポール・フスコはアメリカのフォトジャーナリスト。ロバート・F・ケネディの葬列や1966年のデラノ・グレープ社のストライキ、チェルノブイリ原発事故による人的被害の写真で特に知られている。1930年8月2日、マサチューセッツ州レミンスターで生まれ、14歳の時に趣味として写真を始めた。ルック誌の写真家としてキャリアをスタートし、1973年から2020年に亡くなるまで マグナム・フォトのメンバーだった。1951年から1953年の朝鮮戦争中、彼はアメリカ陸軍通信部隊の写真家として働きながら経験を積んだ。最初はドレイク大学で学び、1957年にオハイオ大学でフォトジャーナリズムの美術学士号を取得した。その後、プロ写真家として働くためにニューヨーク市に移り住み、ルック誌のスタッフになった。彼の写真は、貧困、ゲットー生活、HIV危機の初期、アメリカ全土での文化的実験など、社会問題や不正を記録したものが多かった。1966年に撮影されたカリフォル州デラノのフィリピン人の農場労働者によって組織された葡萄トライキの写真は、シーザー・チャベスが支援する移民農場労働者の組合結成闘争を記録したものだ。その写真はジョージ・D・ホロウィッツの文章を添えた "La Causa: The California Grape Strike"(1970年)と題して出版された。

A Coal Miner
Coal Miner, George's Branch, Harlan County, Kentucky, 1967

1968年6月6日、ロバート・F・ケネディが民主党の大統領候補指名選挙のキャンペーン中に暗殺された。アーリントン国立墓地に埋葬するため急遽手配された、ニューヨークからワシントンまで列車で運ぶ葬列は、6月8日のうだるような暑い初夏の日に行われた。フスコは他のジャーナリストとともにその列車に乗り込んだ。列車が東海岸を進むにつれ、数十万人の弔問客が線路沿いに並び、ケネディに対して最後の敬意を表した。列車の中から黒人、白人、金持ち、貧乏人、大勢でいる人、一人でいる人など、社会のあらゆる階層の人々の弔問客の写真を撮り始めた。通常4時間の行程を列車が8時間かけて移動する間、フスコはフィルムを装填する以外はカメラを手放さず、約2,000枚の写真を撮影した。出来上がった写真は、これまで撮影された写真の中でも最も力強く、感動的なシリーズのひとつである。

Robert F. Kennedy Funeral Train
Robert F. Kennedy Funeral Train Portfolio, 1968

当時、フォトジャーナリストに好まれた、特に鮮やかな色調のフィルム、コダクロームで撮影されたフスコの写真は、スナップ写真の自然な表情と決定的瞬間の芸術的な精密さを融合している。写真家が「ゾーン」に入っている例があるとすれば、フスコの美しく構成されたフレームは、それぞれが標的に命中する禅の矢のようである。ルック誌は隔週発行のため、ライバルライフ 誌より1週間遅れて発行されたため、葬儀の写真ではなくロバート・F・ケネディの写真を回顧的に掲載するアルバムを印刷することになった、フスコの葬列列車の写真は写真ファイルに追いやられ、3年後、ルック誌は廃刊となり、そのアーカイブにあった約500万枚の写真を連邦議会図書館に寄贈した。フスコは、わずか100枚強の写真をなんとか手元に残しただけだった。各写真には独自の重みがあり、独自の物語を語っている。

Castro Street Fair
Castro Street Fair, San Francisco, California, 1980

ある意味では1960年代の希望と夢の終焉を象徴したが、同時にアメリカの理想主義と多様性を称えるものでもあった。マグナムの若手写真編集者ナターシャ・ランの尽力がなければ、これらの写真は編集部の脚注に留まっていただろう。ランは1998年にこれらの作品を見て、ジョージ誌に渡し、ジョージ誌はケネディの死後30周年に合わせてこれらの写真を掲載した。再発見が始まったのだ。フスコは1970年代にカリフォルニア州ミルバレーに移住した。1973年にマグナム・フォトの準会員となり、翌年には正会員となった。長年にわたり、フスコはライフ、マザー・ジョーンズ、ニューヨーク・タイムズ・マガジン、ニューズウィーク、タイム、サイコロジー・トゥデイなどの出版物にも寄稿した。フスコはヨーロッパ、中東、東南アジアでの出来事を国際的に取材した。

Chernobyl disaster
Sequelae of the Chernobyl Disaster, Minsk, Belarus, 1997

1990年代後半には、ベラルーシのチェルノブイリ原発事故による影響の写真を2か月かけて撮影し、最終的にはコフィー・アナンによる序文が付いた『チェルノブイリの遺産』という本にまとめた。2000年代初頭、フスコはイラク戦争で亡くなった米軍兵士の葬儀を記録する「苦い果実」という個人プロジェクトに取り組んだ。彼は1993年にミルバレーを離れてニュージャージー州に移住した。1999年にロンドンのフォトグラファーズギャラリーで写真が展示され、ゼロックス社のオンデマンド印刷技術を紹介する300冊の限定版本が出版された。1年後、この本はハードカバー版として再版され、2,000部がすぐに完売した。2009年にカリフォルニア州に戻りサンアンセルモに居住した。2020年7月15日に他界、89歳だた。彼の写真の多くは、現在テキサス大学オースティン校のハリー・ランサム・センターに所蔵されているマグナム・フォトのアーカイブに収められている。

Magnum Photos  Paul Fusco (1930–2020) American | Profile | Highlight | Most Recent | Magnum Photos

0 件のコメント: